夏の大会前に組まれた練習試合で、私にボールが回ってこなくなった。私に回ってきたボールは絶対に決めていて、一年の頃からそうだったのに。それに監督は気づいて「どうして櫻井に上げないんだ」と華を攻めた。それからは、どんな状況でも最後は私に回すようになった。トスが低くても高くても、必ず私が最後に触る。そこで、いつの間にか信頼はなくなったのだと気づいた。
部内で私の悪い噂が広まっていると同時に、今まで目標にしていた【華の特別になる】というものにヒビが入ったのが一番の原因だった。
部活は普通にしている。でも、それがあるのは、私が一番を背負っているエースだから。噂に踊らされているとはいえ、どんなに私のことが嫌いでも興味がなくとも、注目されている今、部内でのトラブルは誰もが作りたくないんだと思う。話す人は減った。コミュニケーションも無く、必要以上の接触は避けられている。
私が隣に並びたいと、特別でありたいと望んだ華とも、最近は何も話していない。何にでも染まりやすい彼女のことだから、きっと私以上に仲の良い子たちにでもそうする事が懸命だと勧められたんだろう。それは仕方のないことだとわかっている。
難しいな、人付き合いって。
そして始まった最後の大会。県大会は女子が優勝で全国への切符を手にし、男子は準優勝という結果に終わった。
「見て!律ちゃん!初めて貰った!」
そう言って笑顔で盾を見せてきた及川の目元は赤くなっていて、それでも本当に嬉しそうに話すものだから私も嬉しくなった。良かった。及川と岩泉のバレーを見届けられて。
「準優勝だったけど……絶対、高校ではアイツに勝つから」
「うん、信じてるよ」
「絶対勝ち進めよ、櫻井」
全国大会応援しに行くから、と固く握手を交わした。
それが、私たちが三人で体育館に集まった最後の会話だった。
私がやらなきゃ。
そう気負い始めたのはいつからだったのか。
【女帝】だと、そう呼ばれ始めたのはいつからだったのか。
誰からも必要とされず、エースだから。監督に言われたからと繋がるボール。得点数が多いって、仕方ないでしょう。三回のうちの貴重な一回、その最後がいつも私なんだから。
ボールが体育館の床を強く叩き、短く笛が鳴る度に湧く観客。私は、そんな熱気に溢れた会場と反比例するかの様に気持ちが冷めきっていた。
私へ上がったボールを何度も相手のコートへ打ち返す度に、一歩ずつ確実に勝利へと近づいていく感覚。それは本来とても気持ち良いものであるはずなのに、私は何故か怖くて。試合が早く終わってほしいのにまだ終わって欲しくなくて、私は一人で震えていた。
バレーが楽しいだなんて思ったことは無かったはずなのに。及川と始めて会ったあの時がずいぶん昔のように感じるのも、烏養さんに怒られてばっかりだったのに辞めなかったのも、多分、私は最初から……
マッチポイント。これを決めれば、試合が終わる。全国大会優勝だ。そう思いながらも特別な感情は無く、最後の最後まで自分らしく当たり前の様にスパイクを決めた。ボールが跳ねる音と共に、上手く足に力が入らず着地せずその場に倒れこんだ。
「律!?」
倒れ込んだ私にすぐさま華が駆け寄ってくる。でも私はそれに答える気力もなく、ぼんやりしていた。
大会最高得点?そんなの知らない。というか、興味もない。疲れた。身体中が痛くて動けない。肩上がらないし、腕に力を込めようとしても無理で立ち上がることすらできない。熱気に満ちた会場と汗が流れるほど熱い体に感じる、体育館の冷たい床が気持ち悪い。
「私の事、何だと思ってるの………」
私は点を決めるだけのロボットでも、貴方達のおもちゃでも、才能に溢れた天才でもない。只々弱くてちっぽけな普通の人間、櫻井律。それが私だ。
「あーあ。【女帝】って、そんなもんなんですね」
貴方がどれだけ頑張ろうと、及川先輩には釣り合わない。そうなる前に辞めちゃえばよかったのに。
そう呟いた後輩に何か言い返す気にもなれなくて、私はそのまま目を閉じた。
「ねぇ!?ちょっと、どういうこと!?律に何したの!」
「ちょっと華!やめなよ!」
「それより先に救急車!」
後輩を責め立てようとする華も、それを止めようとする周りの声も、観客の声も、全てが煩わしい。静かにならないかなと思いながら最後に浮かんだのは及川の顔で、奥歯にグッと力を込めると嫌な音がした。
私は及川と釣り合いたくてバレーをやっていたわけじゃない。
それなら何で?私は何でこんなになるまでバレーに一生懸命になっていたんだろう。なんで、バレーなんてしてるんだろう。
こんな時だから、この場所だから思考が止まってくれないのか視界が揺れる。
『律、バレーやろうよ!身長高いし、運動神経良いし、絶対上手くなるって!』
『そうかな?』
『私、かっこよくスパイクを決める律が見たい!
絶対私がトスをあげるから!!』
私が頑張る理由なんて一つしかない。及川と一緒にいる理由なんて、バレーが上手くなりたいからに決まってる。
八年間理由もなく続くわけがない。自分の体がどうなっても、一緒にいたかったの。たとえ立たされているだけだとしても、あなたとバレーをしていたかったのよ。
死ぬほどキツかったし、実際ここまで酷使した。
悔しくて死にそうになりながら、その夏私はバレーを辞めた。
* * *
三月春、卒業式。偉い人の長話を右から左へ受け流しながら、今朝廊下で見かけた律ちゃんのことをぼんやり考えた。
櫻井さんが学校に来なくなった。
正確には、来なくなったじゃなくて来れなくなっただけど。決勝戦は全校応援だったから俺はクラスメイトと観客席で見ていたけれど、律ちゃんが倒れた瞬間体が動かなくなった。何があったのかと騒つくクラスメイトも気にならず、倒れている律ちゃんだけを見つめ続ける。
何で。どうして。頭の中はそればっかりで、ギャラリーからコートを見つめていた。
櫻井さんにまっ先に駆け寄ったのはセッターの山下さんで、でも彼女はその直後ゆかちゃんに掴みかかっていた。人当たりの良い普段の笑みを引っ込めて、見たこともない鬼の形相で。
「律に何したのよ!?」
その叫び声が痛くて、俺は怖くなった。俺は櫻井さんと一緒に練習をしてきたのに、彼女のことをちゃんと見ていなかった。いつからそんなにボロボロになっていたんだろう。いつだって無表情で自分の感情を決して表に出さないから、しっかり見ておかなきゃいけなかったのに。
最後に触れた手は、今思えば少し震えていた。
「………っ、及川!」
「岩ちゃ……」
「櫻井んとこ行くぞ!」
岩ちゃんに腕を引かれ、もつれそうになる足を必死に動かしながら向かうものの、なんせ人が多い。ごった返す野次馬の中で僅かな隙間から見えた律ちゃんは担架の上で目を固く閉じていた。それと同時に全てを悟ってしまった。
もうずっと、自分を押し殺して生きてきたのだと。その顔が、合図だったのだと。
「俺、何にも気付いていなかった」
「及川……」
「俺が一番、律ちゃんの隣にいたはずなのに………!」
自分のことばっかりで、君が苦しい時に隣で悩んであげられない。近くにいたはずなのに悲しんでいることに気付いてあげられない。
俺はずっと、彼女に助けられてばかりだったのに。
櫻井律は天才じゃないって。女帝じゃない、ごく普通のどこにでもいる女の子だってわかっていたはずなのに。
揉めているバレー部の女の子に視線をやると、そこの会話が微かに頭に入ってくる。そこで全部繋がった。
部内で流れた噂によって後輩は律ちゃんを嫌悪していたこと。それでも、中野先輩の件で三年生はエースとして認めていたこと。律ちゃんがいなくても平気だと信じようとしていたけれど、監督の声でどうしてもできなくなったこと。
それなら、噂はどこから浮上したのか。女子バレー部の中で律ちゃんを嫌っていた人物なんて、そんなの一人しかいない。
ゆかちゃんがどうしてそこまでしていたのか。律ちゃんが何故こんなにもエースとして認められているのに嫌われているのか。
その根本、原因は、俺だった。
「……及川せんぱい、」
目を潤ませて俺を見る彼女に、思考が止まった。
この女がいたから律ちゃんは。
でも、そうなったのは俺が原因で。
でも俺は、悪いことはしていない。
何も、していない。
あの冬の日に律ちゃんとした約束をずっと守り続けていた。だからこうなってしまったのか、あの時の選択は間違いだったのか。そうぐるぐる考え出したら止まらなくなって、一瞬の筈なのに数分にも数時間にも思えた。
『少し、休憩しようか』
律ちゃんを思い浮かべたらあの時余裕がなかった自分を思い出して、力が抜けた。落ち着こう。指の腹をピッタリと合わせて目を閉じる。深く深呼吸すると少しだけ落ち着いた。
全く、嫌になるな。自分の愚かさに。
「……もう、いいよ。どうでもいい」
恋とか愛とか、そんなものいらない。
「及川……?」
こんなくだらない理由で櫻井さんのバレーを奪ってしまったというのなら、もういい。蓋をしてしまえ。
「…噂とか、誰が悪いとか、もう全部どうでもいいから………山下さんは、律ちゃんのそばに行ってあげて」
途端に、今まで騒がしかったのが静かになった。ゆかちゃんは目を見開いて俺を見ていて、そんな彼女に蹲み込んで視線を合わせる。律ちゃんに怒られるかな。約束、破っちゃうな。
唯一、彼女が俺に弱さを見せるほど思い詰めて選んだ選択なのに。俺はそれすらも守ることができない。
「だけどさ、君だけは……
律ちゃんの邪魔をした君だけは、許さない」
「及川せんぱい、ちがうくて……これは」
「うん、君だけのせいじゃないかもしれないね。俺も、いや。俺が一番悪いって知ってる。
でもね、責められずにいられないし、許せないんだよ。君のことも、自分自身のことも」
何度も律ちゃんを傷つけた。震える体も必死に嗚咽を堪える声も初めて見た涙も、何一つ忘れてはいない。半年前に体育館で律ちゃんとした約束と抱き締めたことを思い出した。
あの頃から、俺は全く変わらないな。俺はいつだって全てが終わってから気付いて、大切な子を守ることすらできやしない。
泣き出してしまいたい。悔しくて、不甲斐なくて仕方がない。またここから始めないといけないのかと、絶望の縁に立ったかのように冷たい思考で彼女達を見た。
俺が強ければ。もっとちゃんとしていれば。いや、それよりも前。俺が櫻井さんに出会わなければ……「及川君と岩泉君も、行こう」
そう俺たちに手を差し伸べたのは山下さんだった。
「え、」
「ほら、行こう。律のそばに行ってあげてって……自分のことあまり責めないでよ」
「でも、俺は……」
「及川君が悪いかも知れないけど、君が全部悪いわけじゃない。
私も悪いことしたから、律のところに行かなきゃ。ごめんねって、謝らなきゃ。
今、この場で誰よりも律のこと考えてるのは、及川君でしょう?後悔してるから、動いたんでしょう?」
「俺は、………律ちゃんを傷つけてばかりだから」
そう言うと山下さんはポカンとして、でも柔らかく笑った。
「………さっきの動作、律に教わったんでしょう?
律が気持ちをリセットする時にするんだけど、あれは師匠と決めた約束なんだって。
律がこれを教えるって、それだけ及川君は特別なんだよ」
「え………?」
何それ。そんなわけない。だって律ちゃんの特別は山下さんしかいないのに。
「掌をくっつけなかったり、目を瞑って何を考えているのか。全部、誰にも教えないんだって。大切な師匠がくれた律だけの『大丈夫のおまじない』だって、小さい頃から言ってたから」
そう言った山下さんはすぐに先生に話を通して、春川さんにチームを預けてから、律ちゃんの元へ急ぐ。親を見つけて連絡をとって病院まで一緒に送ってもらった。
律ちゃんが特別視していた彼女もまた普通の女の子で、でも頼りがいがある。律ちゃんが特別視するのもわかってしまう。
「及川君は、律のこと好き?」
突然山下さんにそう聞かれて、俺は一瞬驚いた後目を閉じて律ちゃんを思い浮かべた。初めて会った日やバレーをした時間、抱きしめた日。声も体温も、今までのことを全部思い出して、ドロドロに溶かして固める。
『私も同じこと考えてた。楽しいね、及川。』
「うん、好きだよ。誰よりも……何よりも」
生まれて初めて、死んじゃいそうなくらいドキドキしてる。
あれから約三ヶ月の入院生活後、学校に戻ってきた彼女は以前より遠巻きにされていた。予告もなく学校に現れた彼女は、手術の影響なのかまだうまく力が入らないようで松葉杖を持っていた。そして、右耳に細い銀の金属が一つ。
相変わらずの無表情で、休み時間は本を読んでるような大人しい子。部活を引退して体育の授業もろくに受けられず、より一層儚げになった彼女に、かけられる言葉なんて何もなかった。
でも、リハビリが終わればきっとまた元に戻るってそう信じていた。怪我がいつ完治するかも分からないけど、そう信じていたかった。
「櫻井に、話しかけねぇのか?」
岩ちゃんだって気にしてる。同じクラスなのに話しかけられないのだと。かける言葉が見つからないのだと言った。
「櫻井こと、好きなんだろ?告白とか」
「しないよ。櫻井さんとは変わらない関係でいたいし、いつかバレーしに戻ってきてくれた時、おかえりって言って隣に立てる存在でありたいだけ」
本当だけど、嘘。だって、言えるわけないじゃないか。俺が壊したようなものなのに。それでも、一つだけ言いたいことがあって。それを彼女に伝えるために、俺はどうしたらいいのかわからなかった。
卒業式も終わり、教室を後にする。同級生の大半は大体青城に行くし学区が同じだから時々見かけたりもすると思うけれど、この制服に腕を通すこともこの学校に来ることも無くなるのかと思えば少ししんみりしてしまう。
だけど俺は、後輩や同級生の声に一切答えることもなく校内を走り回った。彼女と約束をするために。
「やっとみつけた……」
後悔なんて死ぬほどしてもしきれないし、ずっと背負っていくもの。俺はこれからも律ちゃんを傷つけると思うし、支えてあげられないかも知れない。それでも、側にいたい。
どんなに傷ついても、俺の隣にいてくれ。そう、最低な約束をしたかった。
最後に向かったのはいつも練習していた第二体育館。いつかの日のようにコートのエンドラインに立つ律ちゃんの後ろ姿に、手を伸ばした。
どこの学校に行くのかとか、これから先、高校ではどうするのかとか、バレーは本当に辞めるのかとか、聞きたいことは沢山あるけれど声が出ない。
振り向いた律ちゃんは俺に視線をやると一つ瞬きをした。
「何で、徹が泣いてるの」
「ごめん。……ごめん、りっちゃん」
律ちゃんは少し目を伏せて俺にゆっくりと歩み寄ってくる。
朝に見かけたけど、制服姿を見るの久しぶりかもしれない。紺色のブレザーに映えるアイロンがけされてパリッとしている白いカッターシャツ、同級生の女子より少し丈が長いスカートから伸びる黒いハイソックスを纏った細い脚。
……眩しい。正直にそう思った。このままずっと二人だけでいれたらって。二人しかいない世界で生きたいって。だけど、
「バイバイ、及川。高校では頑張ってね……私なんか忘れて」
すれ違いざまにそう呟いた彼女は俺の方なんて見向きもせずに、呆気にとられている俺を置いて体育館を……この学校を、出て行った。
最後まで、言えなかった。
あの日俺がタオルを忘れなければ出会えなくて、お互いがバレーをしていなかったら絶対関係なんてなかった。
「うっ……あ………」
口から零れたのは堅い決意からかけ離れた嗚咽で、視界はボヤける一方。泣くな。泣く資格なんて俺には無いのに。
俺より上手で綺麗なバレーをする彼女を、あの日この体育館で見たときから落ちていた。ずっと、君のことが好きだった。
特別になんて、ならなくていい。俺にとっては、君が一番の特別だと、伝えたかった。
それは今でも変わらない。
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