きっと、私にはあの三年間以上に辛い時間なんてこの先一生無いのだと思っていた。
幼い頃に幼馴染の華に誘われて始めたバレーボールは、いつからか私の生活の大部分を占めていて、それで繋がった人とは一生ものの付き合いとなった。支えてくれるチームメイトも、尊敬する師匠も、信頼しあえる友人も。最愛の恋人でさえ、始まりはバレーボールだった。
『申し分なし』と自分の人生に胸を張って最後を迎えたはずなのに、気付けば一人で立っている。ひたすら努力して掴んだ勝利のはずなのにうまく笑うことができなかったのは、きっと私が今に満足していないからだった。
『今年から新しく赴任していただく教員を紹介します。
まずは、櫻井律先生─────』
挨拶を聞きながら体育館に座る大勢の生徒に目を走らせると、よく知った顔が見えてなんとも言えない気分になった。
家の近所に高校でバレー部の監督をしている人が住んでいて、その人のお孫さんが私の二つ下の幼馴染だったことから家族間で交流があった。遊びに行くと決まってバレーボールをして、中学高校とバレーを続けてきた私は最後の夏に全国大会で優勝した。
ずっと強くなることを考えて、みんなでボールを繋いで。
やっと頂点に立てたはずなのにどこか既視感を覚えて。そこで私は、思い出してしまったのだ。
楽しかったはずなのに、違う。好きだったはずなのに、違う。全部、違う。
「櫻井選手!優勝おめでとうございます!
素晴らしい活躍でしたね」
「………あ、はい」
会場は熱気に包まれており、勝利を喜ぶチームメイトに囲まれていても私だけが冷め切っていた。
私が思う存分飛べる場所は、ここじゃなかったはずだ。
私の全てを掛けて戦いたいと。隣にいたいと思っていたのは、
「…………徹、」
私だけが全部覚えていて、誰も何も知らない。私の中で何かが壊れたのは、彼の名前を呟いた時だった。
春高まで挑戦することなく私が突然バレーを辞めると言ったことにはチームメイトも両親も、烏養さんと繋心だって驚いていた。でも、私にはもう続ける理由もなかったのだ。
どれだけ頑張っても、勝ち続けても、競い合ってくれた彼はいない。応援してくれる彼はいない。
バレーに触れる度に前世の記憶を思い出して辛くなった。
………寂しくなった。
全部が途端にどうでも良くなってからは、特にしたいこともないままに高校を卒業した。大学に進む事もなく二年ほど海外をフラフラしていた。自分にしかできないことはないか、何かしたいことは見つからないかを探したいと話した。
両親は私の異変に気付いていたし特に反論はなかったけれど、周りからは猛反対を受けた。バレーの実績があるのに、学力があるのに。どれだけいい成績を残しても、もうやる気が無いのだから続けたくないとその度口にした。
海外にいる間は父の知り合いに世話になることもあったが、様々な国を飛び回りながらアルバイトをしてその中で知り合った人に日本のことを教えたりバレーの話をしたりしていた。
そんな中で一人の男性に言われたのだ。
『やりたいことが見つからない?
何でも出来るから、何をしたいのかわからないんだろう』
どこかで聞いた台詞だと思った。そして、その人は柔らかく笑って続けた。
君の人生は君だけのものだ。だからこそ、どう進むのかも君しか選べない。だが、その有り余る知識と経験を欲している人はいると思わないか?
その言葉に後押しされて、私は日本へ戻ることを決めた。
したいことがない。何かに熱中できない。………私が大好きだった彼らの隣に並べない。
でも、きっと今だからこそ出来ることはある。隣に立てずとも寄り添って背中を押すことはできる。そんな思いから、私は教師になった。
「今日からこのクラスを受け持つことになった櫻井律です。
担当科目は英語で、女子バレーボール部の副顧問も受け持つことになっています。教師としてはまだまだ未熟者ですが、何かあれば遠慮なく話してください。
これからよろしくお願いします」
前世の記憶の中では私の母校である北川第一中学校に赴任が決まったのは偶然だった。そして、初めて受け持ったクラスは二年生の時の自分のクラスというのも。
私だけがいない教室でもなんだか懐かしく感じて、それでもかつての同級生が教え子になるわけだから違和感があった。
「櫻井センセーは恋人とかいますか!?」
「………、高尾君。
フレンドリーなのは良い事ですが、先生にその質問はあまりしない方がいいと思います。ちなみにいません」
注意しつつもちゃっかり答えたことに、クスクスと忍び笑いをする生徒がいる。あの頃は自分のことにいっぱいいっぱいであまりクラスメイトと話すこともなかったけれど、こんなに仲の良さそうなクラスだったかなと思い返した。
人に何かを教えるのはスポーツであれ勉強であれ得意だったし、生徒の名前を覚えるのも早かった。歳は少しだけ離れているけれど、それでも気軽に話しかけてくれる程度には距離は縮まっているのだと思う。
「最近、女子生徒の制服改造やヘアメイクに関する校則違反を多く目にします。中には生活指導の先生方から指導を受けた人もいるでしょう。
ですが、校則で決められていることは必ずしも社会で正しいことではありません。男性もそうですが、特に女性は外見について多くの『知っていて当たり前』が存在します。
例えば、制服なんかがそうです。この学校はセーラー服と学ランなので、ブレザーを着る機会はないでしょう。高校に進学すればそうなる人もいますが、全員ではありません。ですが、世間では『ネクタイは結べて当たり前』だと思われています」
「…………!」
「北川第一中学校では、ヘアメイクは原則禁止です。
しかし、大学生となれば身だしなみを整えることの大前提として『自分に合った化粧品の扱い方やスキンケア』を行なっている必要があります。
ルールを守ることだけが正しいとは限りませんが、その場所にあった服装、身だしなみというものが存在します。
外見は自分を伝えること、人を知ることができる最初の砦です。流行を追うことも良いですが、自分自身をよく見つめ直して見てください。そして、それでも判らない時は聞きにきてください。先生でも判らないことは勿論ありますが、生徒に指針を示すのは仕事です」
教師として過ごすのは新鮮だったけれど生徒に勉強や自身の経験則を教えることは楽しかった。日に日に成長していく彼らの未来に、少しでも影がなくなればいいと思っていた。
「あんの、学年主任のクソババア。何が『櫻井先生はもっとしっかりしている方だと思っていました』だよクソ。お前の化粧が一番濃いんだよ……!勉強し直せ!」
「流石に呑みすぎだぞ、律さん」
「こういうところでしか愚痴れないんだから、ちゃんと聞いてよ。繋心」
世界を一人で渡り歩いてきたことで話せる事は多い。だが、勉強続きで社会をまともに経験していない教員は頭が固い奴らばかりだ。
「制服の規則なんて消して良くね?勉強に必要ないものは禁止って、人の身なりとか一番勉強に関係ないだろ。好きな服装で授業受けた方が何百倍も捗るわ」
「ははは………」
ストレスを抱えながらもそれを時折発散して。
それから、私が再び彼とバレーの話をする様になったのは春から夏に変わる頃だった。
「櫻井先生って、ポジションはどこだったんですか?」
「………ウィングスパイカーで、エースでしたよ」
「お、岩ちゃんと同じじゃん!」
「及川君はセッターだと聞きました。司令塔ですね」
担任でなくても英語教師として私に話しかけてくれる及川はそのまま私が出会った頃の彼で、話しかけられるたびにどこかで期待した。
彼はいつだって私のことを考えてくれていた。どれだけ酷い目に遭おうと、それが私の選んだ道だと。周りからどう言われようと、私は私で俺たちの問題だからと。
全然、違うのに。
私には彼以上の人なんていないけれど、彼がこの先歩む未来は私じゃない誰かと寄り添う日が来るのだろう。それがとても寂しくて、でもそんなこと言えなくて。
前世と現在を混同しつつある自分に辟易しながらもいつか、と期待を捨てられないのだから私はロクでもない大人だった。
「で?先生になって半年っすね。どうっすか、最近は」
「別に。若いなって」
紫煙を吐きながら淡々と告げると、繋心はケラケラと笑った。
あの頃は繋心さんと呼んで後をついて回っていたのに、彼の先輩として。幼なじみとして隣に座ってタバコを吹かしながら酒を煽ることになるなんて思ってもいなかった。
互いの家を行き来することは当たり前で、勿論そこで呑む事もあるけれど、本当に突発的にこうして集合することもある。
適当に頼んだ一品料理に手をつけつつグラスに注がれた琥珀色の酒を流し込む。カウンターの上にある灰皿は二人が吸ったタバコの吸殻が小さな山を作り出しており、灰が少しだけ溢れていた。
「律さんが中学教師とか、全然想像できねぇ」
「自分でも不思議に思ってるよ」
「それでよく教師やってますね。………でもまぁ、向いてるとは思うけど」
「そう?」
「勉強もバレーも教えるの上手いし、知識の幅はその辺の教師よりかは広いんだろうなって」
「ああ………」
教師として何をしているのかとか、海外で何をしたとか。
大学を卒業した繋心は、前世同様坂ノ下で働きながら嶋田達とバレーを時々しているらしい。
軽い近況報告に花を咲かせたら縁も竹縄と居酒屋を出て、二人で並んで歩く。冷たい夜風が熱った体を覚ますようで気持ちよく感じた。
「律さんは絶対すごい選手になるんだろうなって思ってました。スカウトもいっぱいきてたし。
………何で、バレーやめたんすか」
「………それは、」
言い淀んだまま何も話せずにいる私を繋心は一瞥して「まだ時効じゃねぇか」と悲しそうに呟いた。
「ま、無理に聞こうとは思わないっすけど。
俺とアンタの仲なのに知らないのは………何つーか、こう」
「寂しい?」
「………っすね」
「そっか………」
私がバレーを辞めたのは、それが理由なんだけどね。
そんなことを知る由もない、何も覚えていない繋心に私は何も言えなかった。
寂しいんだよ、ずっと。あなたが私を律さんと呼んで慕ってくれるのは嬉しかったはずなのに、あの瞬間から違和感しかなくて。自分を実の妹の様に接してくれて時々頭を撫でてくれたことを思い出しては泣きたくなる。
繋心と呼びながらも心の中では兄の様に、昔の様に繋心さんと呼んでいるのだから貴方の気持ちにも答えることなんてできない。
「ごめんね」
「何に対して謝ってるんすか。ソレ」
* * *
櫻井律先生という、女性の先生がいる。
二年生の時に赴任してきた櫻井先生は幼馴染である岩ちゃんのクラス担任の英語教師だ。背筋をピンッと伸ばして艶のある黒いミディアムヘアを揺らしながら淡々と英文を読む姿は生徒の憧れだった。
女子バレー部に所属している山下さんが言うには、バレーがとてつもなく上手いのだと。高校三年のインターハイで優勝したこともあり、Vリーグのチームからスカウトも来たほどだと噂で聞いた。球技大会や部活中にその姿を見たけれど、確かに数年間まともにボールを持っていなくても動きは身に染みついていて全てにおいてそつなくこなしていた。
初めて櫻井先生がバレーをしている姿を見た時は、確かに目を奪われてしまった。でも、その安定した綺麗な空中姿勢にはどこか既視感があって胸の奥がざわついた。
そんな櫻井先生が、繁華街を男性と二人で歩いていた。俺はそれを目にして、驚愕したと共にどこか心に引っ掛かりを覚えたのだ。
先生と生徒という関係で、それしか無いはずなのにどこか裏切られた感覚がした。
誰にでも分け隔てなく優しくて、熱心。いつだって隙が無く無表情で淡々としているのに、ふと寂しそうな……何かをこらえるような表情をしていた。
「櫻井先生って、どうしてバレー辞めちゃったんですか」
その表情の理由が知りたかった。
部活が終わって体育館の片付けを見守っている櫻井先生に、ジャンプサーブを教えて欲しいと頼んだら一瞬目を丸くした後快く承諾してもらえた。サーブトスや助走、腕の振りと一通り教えてもらって、試合でもベストサーバー賞を貰えるほどになった。
そんな練習も終わりを迎えそうで、もうこんな機会ないかもしれないと、そろそろ体育館を閉めると帰宅を促された時に聞いてしまった。
「………それ、どうしても聞きたい?」
「できれば。
………櫻井先生って、この体育館にいる時ふとした瞬間寂しそうな顔してますよね」
櫻井先生はあまりいい顔をしなかった。黙り込んで何かを思い出すかのような遠い目をする。その表情に、俺はまた心のどこかが疼くような言いようもない感情に襲われる。
ひた隠しにするその理由は、あの男の人に教えたの?
俺はまだ子どもだし、彼女が何を考えているかなんて知らない。それでもこんなに直球で聞いたのは、俺がこの人に嘘をつきたくないから。嘘をついてほしくないからだった。
初めは『みんなの憧れの英語教師』だった。
でも、あの時からそれは少しずつ形を変えた。バレーをする櫻井先生を見た瞬間から。
今まで見てきたどんな選手よりも綺麗で、高揚した。でも、それと共に悲しかった。櫻井先生に対してどうしてこんな感情を抱くのかを知りたかった。どうして哀しく思ったのか。
多分、嫌なんだ。俺たちの関係はどこにでもある学校の普通の生徒と教師ということが。
先生がどんなことをしてきたのかとか、何を考えているのか知りたい。聞けば教えてくれるのなら、教えてくれよ。どこで何をしていても寂しそうな表情をしている理由を。
櫻井先生は、半ば諦めたように。自白するように話し始めた。
「強くなることも勝つことも好きだったし、夏までは続ける気でいたよ。事件とか事故とか、怪我とか。明確に何かがあったわけじゃない。
………だけど、バレーをすることである人を思い出すことが辛くなったの」
「……、ある人って、先生の好きな人ですか」
それは、並んで歩いていたあの人ですか?
「、秘密」
先生はそう言って体育館の電気を消した。
暗闇に包まれる前に見えたその表情はやっぱり寂しそうで、それが先生にとって一番大切な何かなんだと思った。
ああ、また一線。これ以上は踏み込んでくるなとでも言うかの様にあからさまに距離を取られる。俺は、それが寂しいのに。そう思っていた時に暗闇の中で聞いた声は少しだけ弾んでいるように感じた。
「私がバレー辞めた理由、話したのは及川君が初めてだな」
「え、」
「誰にも言ったことがなかった。親にも、師匠にも幼なじみにも友人にもね」
それって、どういうこと。
「何で、俺には話したんですか………?」
顔も何も見えないのに先生がそこにいると感じて、少しだけ鼓動が早くなる。
「及川君が、………彼にとても似ているからかな。
忘れられないから、聞いて欲しかったのかもしれない。いや、言って欲しかったのかな………私がバレーを辞めても、私は私だって」
「?」
何を言ってるんだろう。バレーを辞めてもって、何の話なんだろう。
「私にはバレーしかなかったから。
だから、選手じゃなくなっても私を探していたことを知った時は嬉しかった」
櫻井先生は海外に住んでいた期間があって、その話を聞くのはとても面白かった。でも、そういうのとは違う何かがあって、俺はどうしようもなく彼女が彼と呼ぶ人物に妬いた。
櫻井先生にそこまで思ってもらえる男性がいるんだと思うと、なぜか心の奥底が疼く。
「………その人は、今どうしてるんですか」
「もう、会えないんだ」
「、」
だから、そう聞いて「良かった」なんて思ってしまう俺は大概だった。
永遠に会えない人を想って生活してるって、どんな気分なんだろう。櫻井先生は特筆するほどってわけではないけど美人だし器量も良いのに。年齢的にも、将来を誓う相手がいたって俺は嫌だけど、いてもいいのに。
ああ、そうだったんだ。
胸のざわめきは、俺が先生を目で追ってしまうのは。きっと彼女が好きだからなんだ。
特定の異性と仲良くして欲しくない。
十歳の差があって教師と生徒だから同学年の子には何とも思わないけれど、俺より年上の異性と並んでいる姿を目にしたらどうしても嫌な気持ちになる。
「杉本先生ありがとうー!!」
三組の生徒が一斉に叫んで、壇上に上がっていた代表生徒が席へと戻る。俺はそれと同じタイミングで壇上に上がった。
いつも通り淡々とした声で櫻井先生が生徒の名前を読み上げる。及川君、といつも呼んでいた声で俺のフルネームを口にするから感極まって返事の声が震えた。
「三年四組、──────計三十四名。代表、及川徹」
「はい」
青葉城西高校へ進路を決めた俺がこの中学校で過ごす最後の日だった。
この機会を逃せば、もう彼女と毎日の様に会うことは無くなってしまう。あの夜のことはなかったことになったのか、俺と先生の間には相も変わらず何もなかった。
三年生では担任になって、その時は凄い喜んだし毎日とても楽しかった。滅多に笑うことがない櫻井先生だったけれど、はしゃぐ俺たちを見つめる瞳は慈愛に満ちていて、それを見る度に俺はあの夜の声を思い出していた。
「卒業おめでとう」
校長先生から卒業証書を受け取って一礼。振り向いてマイクの前に立つ櫻井先生の方を向いて叫んだ。
「櫻井先生のことが好きです!!」
クラスのみんなで何かを叫ぶ予定もなかったけれど三組はやってたし、やっぱりこれは俺が一番に言いたかったから。櫻井先生は目を見開いて俺を見ているのが面白くて少しだけ笑ってしまった。
式を終えて教室に戻るとクラスメイトにもみくちゃにされて、教室に戻ってきた櫻井先生には「及川君、ありがとう」と言われた。
俺たちの間には何も無い。ただの、どこにでもいる教師と生徒だ。
でもね、俺はそれを壊したいと思っているんだよ。
最初は、壇上に立っている姿を見た時だった。凛としていて、淡々とした声で表情も変えずに自己紹介をして。でも、そんな普段の先生を知っているからこそ授業中とは違うバレーをしてる時の真剣な表情とか、自分のことを話す声とか。そういうのがとてつもなく眩しく見えて、そんな先生に永遠に想ってもらえる人が羨ましいと思ったのだ。
「俺、本当に……櫻井先生のことが好きです」
困らせるとわかってる。でも、言わずにはいられなかった。元の関係に戻ったとしても、ここで動かなければ俺たちはもう二度と同じ道を歩めないかもしれない。
「及川君、」
「せんせぇ………っ」
それでも俺は、櫻井先生のことがどうしようもなく好きで、櫻井律のことをどうしても知りたい。
先生は悲しそうに眉を寄せて、真っ直ぐな視線で俺を見て言った。
「………私、いつでも真っ直ぐで一途な人が好きなの。
忘れられない人がいるってずっと探し続けてくれるような」
「、」
やっぱり、彼女の一番は永遠に動くことがないのだろうか。
俺じゃ、ダメですか?
彼の代わりでもいいんです。側に居させてください。
……なんて、彼女の気持ちを知っているからこそ先生を邪魔したくないから口にできないけれど。
先生は俺の目を真っ直ぐに見て、呆れた様に、寂しそうに。それでいて嬉しそうに言った。
「………次に会う時は、君の夢が叶った時にしよう。勉強して、いろんな経験を積みなさい。そして………それでも、私と一緒にいたいと思ってくれるのなら、探しにきて」
「でも、見つかるか……」
「見つけるでしょう?あなたなら、きっと」
櫻井先生はどこか吹っ切れた様に笑った。その笑顔にどんな感情を込めているのかも、俺は知らないのに。
「待ってるとは言わない。
けど………私は、誰のものにもならないよ」
「、」
「私が生きる道は、私が選ぶ」
* * *
オリンピックで活躍する彼を見たのは、最後に話した卒業式から十二年の歳月が流れた夏だった。
告白された時は「思春期特有の憧れと恋心を履き違えたものなのだろう」と、本心を混ぜながらもうまく躱した。
だって、あんな風に告白されるなんて思っても居なかった。
顔を赤くして、泣きそうになりながらも口にしたその言葉に、体が熱くなった。その表情は 中学三年の卒業式で、私が泣かせてしまった表情と全く一緒だったから、あの時私が突き放さなければ徹は……なんて思い出してしまった。
及川君がどんな高校生活を過ごしたのかなんて知らないけど、試合結果だけは追っていた。繋心が烏野のコーチになったことでバレーの試合を見る機会が増えたからだった。
だから、相変わらず彼らがバレーに一直線で安心したしそこに立てないことが悲しかった。
『及川選手勝利おめでとうございます!』
『ありがとうございます』
テレビの中で笑顔で答える彼はとても眩しくて、そしてそのまま進んでくれよといつも願っている。
たとえ私を迎えにきてくれなくてもいい。私は今も昔も同じだけど、あなたは違うから。でも、それでも私はあなたの幸せを一番に願っているよ。
そう思いながら女子アナにインタビューを受けている彼を眺めていた。
『それでは最後に、ファンへメッセージをどうぞ!』
『ええ〜〜どうしよっかな……これって地上波なんですよね』
『そうです!勿論ご家族へでもいいですよ』
彼はカメラを真っ直ぐに見ているのか、画面越しに目があっている様な錯覚を覚えた。
『じゃあ、俺が勝つって信じてくれていた彼女に』
「っ、」
ほら、もう別人だ。
少し照れ臭そうにはにかんでいる彼を見て、私は自然と涙を流していた。
ずっと、同じだと信じていたかった。そうなるはずないのに、最後の最後まで心のどこかで期待していた。
同年代の女の子と並んでいる姿を見る度に嫉妬して、でも彼は私のことを覚えていないからそれが当たり前なのに。どこまでも愚かで、惨めでロクでもない女だ。
『高校でもアルゼンチンでも色々あったけど、経験を積んで俺はあの頃よりずっと大人になりました。
多分、【女帝】って呼ばれてた昔の君より今の俺は強いと思う。昔と違って、君はバレーを辞めてしまったから。
でもね、そう簡単に離れられると思うなよ』
「………え、」
呼吸が止まるかと思った。
だって、そんな。
『約束、守ったからね』
そんな、どうとも取れる言葉を残して放送は切り替わった。
何してるの。そんなことして、怒られるんじゃないの。馬鹿。それよりも………
「約束って、」
女帝って、まさか、なんて思っている時だった。海外から戻って一人暮らしをしている部屋にインターホンが鳴り響いた。
期待しちゃいけない。だって、絶対なんてあり得ないんだから。
「………もう、何でいるの」
「会いたくなっちゃって」
前に会ったのは卒業式だった。あれから約十年、お互いにいい年齢なのに目を合わせるだけで何でもわかったかの様に思えて。彼に腕を引かれた私は硬い胸板に強く抱きしめられた。
匂いも、感触も、温もりも全部思い出せる。彼は、私が落ちた及川徹だ。
縋り付く様に背中に手を回すと、彼は体を硬らせて私の頭上で唸った。
「………バカじゃないの。どれだけ俺が………ああ、もう」
「及川君?」
「及川君じゃないでしょ。………徹って呼んでよ、律ちゃん」
「、やっぱりって思ったけど、何で……いつから?」
ようやく体を離すと、徹はうんんと唸ってつい最近と答えた。
オリンピックに出場してすぐ、突発的にとのこと。私と同じだった。
「櫻井先生のことが好きすぎて幻覚見たのかとも思ったけど、まぁそんなのどっちでもいいよね。
ねぇ、律ちゃん。迎えに来たよ」
「、」
「君がどこで何をしていようと、君は永遠に俺のものだ」
「…………」
期待しちゃダメだと思っていた。私しか知らない時間を過ごして、昔を思い出しては掻き消して。絶対なんてあり得ない世界だと。
でも、彼が手を引いてくれるのなら私はそれを掴んで離しはしない。
「………っ、遅い」
「随分待たせたけど、約束通りだから許して?」
櫻井先生(27)
バレーボールに熱中してたら前世の記憶を思い出して壊れてしまった。自分以外のみんなが、自分がいない世界で生きていることが辛い。
最後まで及川徹だけを想い続けていた。
及川君(16)
憧れの先生のことが気になって仕方がない思春期真っ盛りの中学生。ずっと櫻井先生をへの想いを胸にバレーに励んでいたら、白昼夢で前世を見た。
好きすぎておかしくなったのかと思ったけれど、もうそれでもいいやと思ってるところがある。
繋心(25)
小さい頃から祖父の家で一緒にバレーをしていた二つ歳上の美人で頭の良い幼馴染が好きだった。二人で呑む度に理性の限界を試されている気がして、なんだかマゾにされてる気がした。
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