αの牛島と運命で結ばれたΩの櫻井の事を好きなβの及川。オメガバース三角関係のお話です。
七対二対一。
この数字を聞くと、ある程度の人が小中学校における性教育で習った細分化された六種類の性別を思い出すだろう。それは、男女とは別にα、β、Ωと呼ばれる第二性があり、それにより体質の違いがあることを指す。極端な例を挙げると、女のαは妊娠させる事が可能であり、男のΩは妊娠する事が可能と言った具合だ。
七対二対一とは、第二性における性別の割合であり、多い順にβ、α、Ωという分類になっている。
そして、αとΩにのみ番と呼ばれる関係が生まれる。
それは夫婦に似た関係性であるものの、まだ番について解明されていないことが多いことから、番になれば社会的に様々な権利を得られるようになる。
番になるためには発情期の性交時にαがΩのうなじを噛む事が必要で、番になったαとΩはお互いにしか発情しなくなる。
また、極めて例が少なく最早奇跡や都市伝説とまで言われている出会った瞬間に強く惹かれ合う「運命の番」も存在する。
───横顔が、綺麗だと思った。
白鳥沢の中等部に進学した俺は、新人戦で決勝に駒を進めた。
昔父に教わったバレーボールを部活動で出来ることは嬉しく思うし、父が話していたエースの様になりたいと思っていた。だから、同世代にどんな選手がいるのかは気になっていたし、時間があれば試合を眺めていた。
俺が彼女を初めて見たのは、男子の決勝戦終了後に行われた女子の決勝戦だった。先ほど当たった北川第一中学校の女子も決勝に出ているらしく、男女共にバレーが強いのかと少し興味を持つ。クールダウンを済ませ、閉会式を待つついでに見ていた時だった。
どんな状況でも確実にスパイクを決めてコートを飛び回る姿。騎虎という言葉が似合う、今まで見た誰とも違う独特のプレースタイル。見た目は至って冷静なのに、どこか激しさを感じるような、どこかミステリアスな気配がした。
そんな彼女の名前を知ったのは表彰式で、ベストプレイヤー賞を受賞する際に呼ばれた時だった。
櫻井律、と呼ばれ淡々と返事をした彼女に拍手を送りながら何となしに考えていた。
『何故ここまで目を引くのだろう』と。
夏の中総体でも櫻井を目で追い、実際に声をかけたのは同じ年の秋だった。三年生が引退して初めての公式戦で、次の試合まで時間があるとギャラリーに登る際、上から降りてきた櫻井にハッとして咄嗟に声をかけた。
「、櫻井律」
「牛島若利……?」
何を話せばいいかわからなかったけれど、名前を呼ばれたのが嬉しかった。俺を知っていたのかと思えたから。
「お前のことはよく見ていた」
「……私も、あなたのことはよく知ってるよ」
試合や練習についてその場で話し「そろそろ時間だからまた今度」と言って別れる。バレーの事しか話さなくともその時間は楽しく思えたし、別れを惜しいと思う程に居心地の良いものだった。改めて考えてみると、肉親以外の女子と長く話すのも櫻井が初めてかもしれない。
立ち去る櫻井の背中を見送った際、ふと花のような甘い香りが鼻をかすめた。今まで嗅いだことのない、しかし自分好みのいい香りだと思った。香水か何かかと思ったが、ピンと来てしまった。
彼女は、俺の運命かもしれない。
十歳になると、学校内で第二性を判別する血液検査が行われる。俺の家系は代々αが多いらしく、俺も検査結果はαだった。
だからといってΩを娶るということもなく、母親の知り合いで同い年のαの女の子を婚約者にと宛てがわれたこともある。母のことは嫌いではないが、何をするにしても家のしきたりを口にすることを疎ましく思っていることは確かで、自分の結婚相手くらい自分で決めると言った覚えがあった。
「…………いや、それは無いか」
櫻井はあれ程実力のある選手だ。彼女がΩだということは、多分無いだろう。
それでも、少しだけ。櫻井が運命だったらと考えてしまい、これ以上深く考えるのは止そうと思考を振り切った。
* * *
なんだか、最近調子が悪いな。
私に初めて発情期が来たのは、そう思っていた時だった。
十歳の時に行われた血液検査ではβだったけれど、ごく稀に第二性が変化する人がいるらしい。そんな、私のような成長過程で第二性がΩに変わる人のことを後天性Ωと呼ぶ。
何故変位するのかは解明されていないが、従来のΩと比べるとフェロモンの量は少なくヒートは起こり難いのだそう。
医師に発情抑止剤をもらいながら薬と体の特徴について説明を受けて、学校や役所に提出する書類を手に家へ戻ってきた。
両親はしきりに私の心配をしてくれたけれど、私としては薬を飲んだ影響か少し怠いくらいで特に劇的な変化を感じることはなかった。
「えっ………それって、大丈夫なの?」
「うん。発情期の期間に薬飲んでれば問題はないって」
人気のない廊下で先日華にも教えた第二性について幸に話す。
Ωはその性質から性的差別を受ける事が多く、不本意な番を作らない為にもチョーカーを首に巻いている事が多い。校内ではあまり見かけずとも、街に出ればそれは目にする。かくゆう私も先日購入したものを首に巻いているのだが、隠しているとは言えやはり周囲の視線は痛い。
「だから首まであるインナー着る様になったのね」
「これもこれで目立つけど、元々βだったし先生には事情説明してるし。野球部に同じことしてる人はいるし」
「男子は、ね」
「はは、まあね」
首に巻いた革製の黒いチョーカーは嫌に目につくから、それを隠すために野球部が着る様なハイネックのアンダーシャツを制服の下に着ていた。
幼馴染で仲の良い華には教えておこうとすぐに話したけれど、それなら同じスタメンの幸にも話しておいた方がいいと言われたのだ。二年になって華もユニフォームはもらっているけれどまだ正セッターじゃないし、その点幸なら試合中何かあっても冷静に対処してくれるだろうとのことだった。
「及川達との自主練は?続けるの」
「ん〜〜………やっぱ、やめた方がいいよね」
「うん。流石に危ないと思う」
私がユニフォームを貰った去年の初夏から続けていた部活後の自主練に、つい先日男子バレー部の及川と岩泉が加わる様になった。なんだかんだ練習を続けてきたけれど、後天性とは言えΩの私が夜遅くまで残るのは良くない。そもそも、通常Ωは容易に外出もできないとのことだったし。
でも、第二性が変わったから居残りをやめようなんて言いたくないし、それこそ二人は異性なのだから余計に意識してしまうだろう。それに何より、発信力の高い及川のことだ。隠そうとしても、絶対にバレて広まる予感しかない。
「でも、どうして突然?後天性って滅多にないんだよね」
「知らない。でも、通常のΩの発情期に対して後天性だとその半分の頻度なんだって。だから、どっかで強いαに当てられたか、都市伝説を信じるか……みたいな」
「都市伝説って、『運命の番』って呼ばれてる?」
「そう、それ。知らない間に会ったのかもって。
まぁ、私が気づかなかったくらいだし多分前者だと思うんだけど。ほら、運命って出会った瞬間わかるらしいし」
「………六ヶ月前、か。何かあったっけ」
「一年の時でしょ?六ヶ月って確証もないし覚えてない」
幸とこんな話をしてもな。なんて思いながらそろそろ教室に戻ると別れた。これで試合の時は大丈夫だろう。先生や医務室の看護師もいるだろうし。
問題は、及川達にどう切り出すか。そう思いながら慣れない圧迫感を生むチョーカーに指を滑らせた。
結局、第二性の変化について二人には言わず「毎日自主練習できなくなったから、毎週火曜と木曜の四十分だけにしよう」と話をした。二人揃って何かあったのかと聞いてきたものの、私は家の都合としか答えなかった。
「佐久早聖臣?」
「ああ」
夏の全国大会三日目。
順調に勝ち進んでおり、試合まで時間があるからと休んでいる時に牛島君に話しかけられた。白鳥沢は朝イチで試合があったらしく、昼過ぎまで時間があるらしい。
以前の様に調子や練習、試合について話していると牛島君が口にしたのは先ほど戦った学校の選手の名前で、一年生ながらスパイカーとしてコートに立っているところや冷静なところが私に似ていると言った。
「後は、多分回転だな。レシーブの際捉え辛い」
「へぇ………腕の振りとかかな?いや、それだとカーブか。
ってことは手首の振りか、インパクト………」
「…………」
今度見てみよう、と思いながらスパイクについて考えていると横からじっとりとした視線を感じた。
「な、何?」
「…………いや、なんでもない」
「そう?」
それならいいけれど。そう思いながらその佐久早君について詳しく話していると、やっぱり彼はどこか言い澱む様な話し方をする。らしくない。
「あー…………なんか、ごめん。この話やめよっか?」
「?何故」
「だって、なんか嫌そうな顔してるから」
「………」
「佐久早君、そんなに苦手だった?」
「いや、そういうわけでは…………ただ、」
「うん?」
相槌を打ちながら続く言葉を待っていると、彼は少し困った様に眉を下げて口元を手の甲で隠しながら言った。
「お前が、」
「ん?」
「………お前が、楽しそうに話すから」
「え、」
な、は?ちょっと待て。そう思いながらポカンとして彼を見ていると、フイッと顔を背けられた。え、えぇ………?
私が牛島若利を知ったのは去年の新人戦、男子の決勝だった。それでも初対面は去年の秋だし、そもそも他校なのだから会う機会なんて滅多にない。
当たり前だけど彼のそんな表情を見るのは初めてで、驚愕と混乱の中にどことなく可愛らしさを見つけてしまってなんとも言えない気持ちになった。
端的に言うと、照れてしまった。
え、あ、う………なんて言葉にならない声を出していると、私の名前を呼びながらこちらに向かってくる人がいた。
「律ー!こんなところで何してるんだ?」
「あ、お父さん………」
「へぇ、この娘が娘さん?」
「そう!って、あれ、君は………」
「若利?」
「………父さん」
「は?」
四人揃ってポカンとした後、改めて自己紹介をした。
全国大会を見にきていたお父さんは昔馴染みを見つけて、折角だから私に合わせようと探していたらしい。そして、その人は牛島君の父親だったというわけだ。ただ、既に牛島君の両親は離婚しており父親───空井崇さんは海外のチームにバレー関係のお仕事に行くのだと。牛島君が母方に引き取られたため、最後だからと試合をこっそり見にきたらしい。
母親について話題が出ないということは、バレーに興味がないのか嫌悪しているのかもしれない。
「にしても、こんな場所で二人で何してたんだよ。密会か?」
「バカ言わないで。友達だから、話してただけ」
そこで私たちの関係を疑ったお父さんにあらぬ誤解を受け、身振り手振りで説明すると二人は納得しながら笑った。
「へぇ………なんか、なるべくして出会ったって感じだな」
「だなあ………律ちゃん。若利は少し難しいかもしれないけど、これからも仲良くしてあげてね」
微笑みながら言う牛島君のお父さんに私は即答した。
「勿論。う……若利君と話すの、楽しいですし」
「………!」
難しいなんて言われていたけれど、彼は案外わかりやすいと思うんだけど。そう思いながらそろそろアップに行くと牛島君が言ったので解散となった。
体育館まで一緒に歩きながらお互いの父親について話した。まさか父親同士に高校生の時から因縁があったとは知らなかったと、二人して口々にそう言った。
「そういえば、牛島君とバレー以外のこと話すのはこれがはじめてだな……」
「若利」
「え、」
「さっきそう呼んでただろ。若利でいい」
「あ、うん……若利?」
「ああ」
父親の手前名字じゃなくて名前で呼んでいただけだったのだけど、まあ彼がそう言うならいいか。そう思って呼び直した。
「それじゃあ、またね。若利」
「ああ。………見てるからな、櫻井」
「ん、私も見てるよ」
下の名前で呼ばせたくせに私のことは名字で呼ぶのか……なんて思いながら、更衣室前で別れてその大きな背中を見送った。
父親にバレーを教えてもらって、父が話すエースの様になりたいと話していた。両親が離婚して、あまりバレーをすることをよく思っていない母方に引き取られて。どんな思いでいるのだろう。まぁ、知るよしもないのだけど。
ただ、空井さんがお父さんに家のことを話す際若利の表情が曇っていたから、私はただ彼がのびのびとバレーができる環境にあればいいなと願うことしかできなかった。
「………、」
はじめて見た時からそのプレースタイルが目に焼き付いて離れない。純粋に、かっこいいと。あんな風になりたいと思っていた。話す様になってから彼を知れば知るほどに。
だから、あまり悲しそうな顔はしないでほしい………なんて。
「………はっ」
なんか、熱いな。そう思いながら熱っぽい息を吐いた。
「櫻井ー?そろそろ………って、顔赤いよ!?」
「あ、中野先輩………」
「っ……!櫻井って、ひょっとして、Ω?」
「え、」
どうしてそれを、なんて思う暇もなくタオルを頭からかぶせられた。
「匂い。ちょっと、私αだから…………キッツ……!」
山下ーー!!監督ー!!と、華と監督を呼ぶ中野先輩は鼻を摘みながらも私の腕を引いて医務室に駆け込む様に話す。
ああ、試合前なのに。なんでこんな時にヒートがきてしまうんだ。そう思いながら薬は?と聞かれエナメルの中、ポーチ。とだけ答える。
ヒートが起こると特殊なフェロモンを発して番のいないαやβを無意識に誘惑してしまう。だから私はきっと今回の大会にはもう出られない。隔離されて、ヒートが治るまでそのままだ。
「中野せんぱ………、ごめんなさっ………!」
「〜〜〜〜!!櫻井は悪くない。
悪くないから、安心して行っておいで。大丈夫だから」
勝ちますって、言ったのに。悔しいのに、どうしようもないくらい悲しいのに体は熱くて脳が溶けそうで、体が疼く。
本当に私って、どうしようもない。
医務室で抑制剤を飲むと少しだけ落ち着いたものの、Ωだと自覚してのヒートははじめてだしきっとこれからだということから、少しの問診をした後開放していない部屋に移動することになった。私の他にもΩの選手はいるので、こう言った状況になっても困らない様控え室は使用禁止にしているらしい。
ベンチの上に布団を敷いて横になり、試合が終わるのを待つ。
観客が帰らないとホテルに移動もできないし、明日以降はホテルに篭りっぱなしになるのだろう。
苦しい、きつい…………人肌恋しい。どうしようもなく悔しくて仕方がないのに、もうそればっかりしか考えられなくなって。そんな自分が嫌だ。
勉強も、スポーツも、全部できる様に努力してきた。そうしないと並べなかった。追いつけなかったから。
結果を出すために頑張ってきたのに、その機会に立つことすら許されない。
「クッソ……………!う、あぁ…………んっ」
少し怠いくらいで特に劇的な変化を感じることはない?そう言って、思い込もうとして、元の日常に戻ろうとしていた。
自分の体が急激に作り替えられていく様な感覚に嫌気がさす。自分でも聞いたことのない様な悩ましげな声と衣擦れの音しかしないはずの更衣室の中に、閉ざされた扉の外から聴き慣れた声がした。
「櫻井」
なんで、どうしてとか考えるよりも先に彼の存在を意識してしまって体がカッと熱くなる。
「な、んで………若利が」
「櫻井が、いると思ったから」
「、は……」
「いや、違うな………櫻井には、俺が必要だと思った」
若利が触れたからか、ドアノブが少しだけ動いた。
ああ、会いたい。欲しい。
「っ………こないで」
「櫻井、」
「帰って、おねがい………」
唇を噛み締めて自分の体を守るかの様に両腕をぐっと掴む。
今若利を招き入れたら、どうするの。何をするの。
「俺は………」
「私は。今、若利に会いたくない。………ごめん」
「………」
若利は無言になり、迷った様に「落ち着いたら、会おう」とだけ言って今度こそ部屋の前から離れていったみたいだった。
本当は、今すぐにでも鍵を開けて彼のもとに行きたい。体が熱くて、疼いて仕方ないから。
名前を呼ばれただけで心を揺さぶられて、身体中が歓喜に震えた。理性も常識も吹き飛んで、どうしようもなく求めてしまう。端正な顔をじっと見つめて、薄い唇にキスを落として。無骨な手で触れて欲しい。ユニフォームの下って、どうなってるんだろう。………きっと、すごく鍛えてるんだろうな。大きな背中に縋り付いて、壊れるくらい激しく…………
「…………抱いて欲しい」
口から溢れた本音が空気に溶けて耳に届いたと同時に、背中を嫌な汗が伝う感触がした。
第二性の差別なんてバカらしいと思っていた。生まれた時から決まっていて、自分にも他人にも動かしようもないものだからと。でも、こうなってしまったからわかる。
だって、こんなのすごく気持ち悪いじゃない?
「………っ、」
血が出るほど強く唇を噛み締めて、声を殺して泣いた。
私が、こんな淫らな人間だなんて思っていなかった。ただの友達である若利とセックスすることしか考えていない。
* * *
「ねぇ聞いた?櫻井さん、Ωらしいよ」
「ええ?ウッソー!いつも表彰とかされてるから、絶対αだと思ってた!」
「ね〜!でも、いつもハイネック着てるしなんか納得」
「アンニュイな感じとか、たまんないよね〜!」
元々隠していただけあって、女子バレー部全員に広まることは早かった。そして、そこから学校中に噂として出回ることも。夏休みが終わってからそこまで日が経っていないのに、不躾な視線を感じる。
「さーくらーいさん!ねぇ、今どう?」
「………どうって、何が」
「Ωなんでしょ?番なしの」
「俺たちの相手してよ〜」
そして、こんなことを囁いてくる男に絡まれることが増えた。私は自分のこの体質を嫌っていて、彼らが私をどんな目で見ているかも想像できる。だからこそ腹立たしい。
「誰にでも股開くΩのくせに、お高く止まってんじゃねぇよ」
そう言って私の肩に手を置いた瞬間、思いっきり足の甲に踵を落として、手が緩んだ瞬間に顔面目掛けて拳を振るう。
「ヒッ……!」
「…………この程度で日和るようじゃ、私の相手が務まるとは思えないけれど」
正当防衛。二度目はないぞと言い残してその場を立ち去る。
廊下のど真ん中でやってたからか、二人は周囲の人に最低と視線を向けられていた。それでも、止めようともせず見物決め込むあたりどいつもこいつも同罪って感じがするけれど。
「〜〜!!ヤることしか頭にないΩのくせに!!」
そんな一言も無視をして、教室に戻らず保健室に直行した。保健医に気分が悪いと言ってベッドで休ませてもらう。
今後はボイスレコーダーでも持ち歩こうかな。ああいう発言だけでも訴訟はできると聞くし。
そう思いながらも言われた言葉が胸を抉って悲しくなる。
自覚しているからこそ、嫌だった。
「櫻井さんがΩでもなんでも、関係ないよ。ただ、まぁ………自主練できなくなるのは、少し、アレだけど」
「寂しいって正直に言えよ」
「うっ岩ちゃん!!」
及川と岩泉に事実を教えると、二人は揃って「櫻井の口から聞けて良かった」としか言わなかった。
練習も、もうできないから突然だけど今日で最後だと伝える。寂しがっていたけれど、どうしようもない。私だって嫌だけど、自分と周囲を守るためだ。
練習を終えて片付けると、それぞれ体育館の更衣室で着替える。始まりは突然やってきた及川だったけど、なんだかんだここ数ヶ月は充実していたなと思い返した。
でも、全部仕方がない事なんだ。
体育館の鍵を閉めて職員室に返して帰ろうとすると、校門で及川がポツンと立っていた。
「岩泉は?」
「帰ったよ。櫻井さんに話したいことがあったから」
話したいこと?と聞き直すと、及川は改まった様に真っ直ぐに私を見た。
「廊下で、言い寄られてるの見てた。
ああいうの、嫌だって思ったけど……櫻井さんが全部諦めた様に相手してるのも嫌だって思って」
「………で?」
「俺はβだから番にはなれないけど、彼氏にはなれる」
「…………」
及川が言わんとしていることはわかった。とにかく彼は今日の様に私がΩだからと蔑まれているのが気に食わないらしい。
「及川のことは好きだけど、それが恋愛なのかはわからない。それに、迷惑はかけられないよ」
「…………そう」
気持ちだけ受け取っとくね。と伝えると、少しだけ悲しそうに顔を伏せる及川がいた。でも、それも一瞬のことでパッと表情を変えると「お迎えが来るんだよね?」と話題転換する。
「ああ、うん………あ、来た」
「そっか。じゃあ………また明日」
「うん、」
また明日、か。部活後の自主練しか及川との接点は無いのに、またあの体育館で明日も会える様な気がしてならない。
彼を悲しませたかった訳じゃない。でも、どうしようもない。
確実に変わってしまった生活に別れを告げるように、迎えに来てくれたお父さんが運転する車に乗って家に帰った。
一つだけ、嘘じゃないけれど建前の中に本心を隠した。
例えば私と及川が付き合うことになったとして、校内でああいった絡まれ方をすることはなくなるのだろう。
でも、私たちは番になれるわけじゃないと知っている。将来及川に好きな人ができるとして、普通に別れるんだろうけれど。それでも一度私と付き合っていたという過去は消えないだろうし私は及川を利用したくない。
私の心の中には、もう一人しかいなかったから。
『………六ヶ月前、か。何かあったっけ』
『一年の時でしょ?六ヶ月って確証もないし覚えてない』
あの時はそう幸に言ったけれど、今思えば初めて若利と話した時期に当てはまる。
半年に一度という私の発情期の期間は全国大会がある周期と、丁度かぶっているのだ。強いαに当てられてそうなった可能性もある。でも、私はそれ以前から彼のことを知っていたし尊敬していた。
「…………まさか、ね」
家柄的にも、若利はαでほぼ間違いはないと思う。空井さんがどうかは知らないけれど、母方に引き取られたということは多分そういうことだ。
もう若利のことを考えるのはやめようと思考を切り替えて、あまり話すことはないと思うけど及川がさっきのこと気にしてたら嫌だな……と思った。
それから修学旅行を挟んで、冬。
部活中にこっそり及川に話しかけられたかと思うと、部活が終わったら体育館に残って欲しいとのこと。バレーで聞きたい事でもあるのかと聞けば、そんなとこと返された。まぁ、私と及川って本当にバレーしかないしな。
そう思っていたのに。
「………櫻井さんの運命って、牛島?」
制服に着替えて体育館へ向かうと、既に及川がいた。何の用だと聞けば、第一声はそれだった。
どうしてそんなことを聞くのかとか、もっと言い方があっただろうに私は呆然と口を開ける。それは可能性が最も高いもので、いち早く考えることをやめたものだった。
「なん、で…………ソレ………」
「………本当なんだね」
後天性Ωになるための条件の一つでありながら、最も可能性が高いもの。世界に一人だけ存在する『運命の番』と出会う事だ。でも、それは都市伝説なのでありえないと思っていた。
………ありえないと、思いたかった。
普通に考えればすぐに判る。選手や関係者、応援に来た大勢が集まる混雑した会場から隔離された控え室まで来られる?
分厚く中も窺えない扉の前で、どうして中にいるのが私だとわかった?
考えない様にしていた。でも、思春期のΩにとって『運命の番』の話題はつき物で。私がそんな視線を向けられる度に考えさせられる。思い出させる。
『櫻井には、俺が必要だと思った』
あの時確かに感じた、若利の熱を。
「………俺はまた、アイツに奪われるんだね」
「おい、かわ………?」
「させない。絶対に、櫻井さんだけは」
大股で私に詰め寄った及川は、急に強く私を引き寄せた。爪が肌に食い込んで痛い。振り解けない。だけど、それよりも、及川が私を見る瞳がどこまでも暗くて、そんな表情を見たことがなかったから怖くて仕方がない。
逃げないとと腕をどうにか振り解こうとした。
「及川、離して」
「嫌だ」
「おいか、………やめ、っ!誰か」
足を振り上げようとした瞬間、間に及川の足を入れられてもつれる。体育館の床にお尻をぶつけて、痛みが走った。
「いっ………!」
「誰かって、なんでそんな逃げるの。
やっぱり櫻井さんもアイツを選ぶの」
「そんなんじゃない!私は、私の好きなように生きる!!
パートナーくらい自分で「俺を選んでよ!!!!」
私を体育館の床に押し付けた及川は、これでもかっていう位眉間に皺を寄せて、泣きそうな顔で叫んでいた。
及川は、きっと私を助けるために彼氏になることができるなんて口にしたわけじゃないと、今になってわかった。
「櫻井さんに運命がいるとしても、俺は君のことが好きだよ」
「………は?」
「毎日……あんなに、近くにいたのに。
何も見えてなかったんだね」
そう口にした及川は悲しそうに眉を下げていて、それでも歪に笑っていた。
私は何も言えず、驚愕と混乱で思考が止まる。それを狙ってか、及川は私の体を反転させた。
「待って、何する気!」
「させないよ、絶対………絶対、渡すもんか………!」
怖い。何これ。こんな人、知らない。
「オーイ及川、そろそろ………」
「助けて岩泉!!!!!!」
及川を呼びに来たらしい岩泉の名前を必死に呼ぶと、体育館にすっ飛んできた。
「櫻井………っ及川!?
テメェ何してやがる!!!!」
最後に聞こえたのは岩泉の焦った声で、肌を突き破る硬い感触を感じながら体温が急激に冷えていくのを感じた。
ああ、本当にどうしようもなく汚いな。私は。
* * *
病室のベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返し穏やかに眠る律をじっと見つめて、私はどうしようもなく泣きたくなった。
「いつもごめんね?華ちゃん」
「いえ、来たくて来てるので……」
おばさんにお茶を渡されて、それをありがたく受け取る。
一口だけ口をつけたけれど、飲む気分になれなくて備え付けられているローテーブルに置いた。
部室の施錠をして帰る時だった。岩泉君の叫び声に、何事だと体育館へ向かった。喧嘩かな、なんて野次馬目的もあったかもしれない。
でも、その光景を見てそんな考えは一瞬で消えた。
頬に痛々しい殴られた跡がある及川君に跨って胸ぐらを掴み揺さぶる岩泉君。そして、彼らのすぐ横にはうつ伏せに寝転んだままピクリとも動かない律がいた。
喧嘩する二人を止めるために体育館に踏み込んだ。それから律を起こそうとして、首元で短く切りそろえた髪の隙間から血が滲むほど強く噛まれたとわかる歯形が見えて血の気が引いた。
声も、出なかった。
騒ぎを聞きつけた先生が救急車と警察を呼ぶほどの大事になって、私は及川君と岩泉君と聴取を受けることになった。
知っていることと見たことを全部話して、とりあえず公言しないことを約束されたのが五日前。
あの日から、明日で一週間が経つ。
「櫻井さん、少々よろしいでしょうか」
「あ、はい………華ちゃん、少しだけいいかしら」
「………はい」
おばさんに返事をして、話が終わるまで待っていようと廊下に出る。
岩泉君から、及川君が律に好意を持っていたと聞いて驚いた。
一緒に自主練をする事になったとは律に聞いていたけれど、そんな様子は全く無かったから。そして、律がΩだと広まってからは性的好意を示唆されるのを見ていられなくて、本人にそれとなく交際関係を持ちかけたことも聞いた。
でも、それならどうして突然及川君は行動を起こしたのか。その時は考えてもわからなかったけれど、三日経てば勘付いてしまった。
私は律の幼なじみで、家族間でもそこそこ交流があるし同じバレー部員だから律はどうしているかと聞いてくる人が増えた。
そんな中で、「まだ目が覚めないのか」と焦った様に聞いて来たのは幸だった。
「お見舞い、一緒に行く?」
「いい………合わせる顔がない」
「………は?」
幸は眉間にしわを寄せて、固く噛み締めた唇を開いて言った。その声は、どこか嫌悪を含んでいて、懺悔にも聞こえた。
「及川に、律の運命の番が若利だって教えたの………私なの」
「え…………何、ソレ」
「だって、私の方が、先だったのに………!」
詳しく聞けば、幸は牛島君と一時期婚約関係にあったらしい。
幸がαで裕福な家庭であると知っていたけれど、まさか牛島君とそんな関係があったなんて知らなかった。
でも、それは本当に一時期だけ。幸は牛島君のことを好意的に思っていたものの、彼はそうでは無かった。
婚約と言えば堅い取り決めの様に聞こえるものの所詮親同士の口約束みたいなもので、牛島君はそれを突っぱねたのだと。それでも親同士の関係は良好で、今は無理でもいつの日かそうなるだろうと信じていた。
そんな時、牛島君の運命が現れた。
「それで、及川君を嗾けたって言うの………!?」
「嗾けたなんて、そんな!」
「嗾けたんじゃん!!
牛島君と律がくっつくのが嫌で、及川君に話したんでしょ!牛島君を敵視している及川君に!!!」
幸が牛島君のことを好きだとわかっていても、どんな思いでいるのかなんて考えることもできなかった。止まらなかった。
「律は、それで死にかけてるんだよ………?」
私がどれだけ怒ろうと、周囲が鎮まろうと、律が目覚める事はない。
何もできない歯痒さとやるせなさに押し潰されそうで、もう今日も帰ろうかと思い扉の前から立ち去ろうとした時だった。
「傷も既に塞がりつつあり、ここまでくると精神的ショックとしか……いつ目が覚めるのかも………」
そう、悲痛そうに告げる医者と泣き声を抑えようとするおばさんの声が微かに聞こえた。
清潔を保つ漂白剤や消毒液、石鹸の匂いが嫌に鼻につく。
「………っ」
気付いたら、涙が溢れていた。
* * *
「若利、最近無理してないか?」
「平気だ」
「………そうか?ならいいけど」
いつもと何ら変わらない練習中だった。主将としてチームを引っ張る存在になり、慣れないながらも日々を過ごしていた。そんな日に瀬見に声をかけられて、疑問符を浮かべる。
「なんか暗いっていうか、落ち着かないっていうか。そんな風に見えて………なんて言えばいいんだろ。悪いな、突然」
その一言に、動きを止めて驚いた顔で瀬見を見た。
「………調子が歩いということはないが」
「?」
「どこか、ざわついて…………」
数日前から何となく不安に思うことがある。
ただの思い過ごしだといいが、と答えていると監督に名前を呼ばれた。すぐに駆け寄ると、そこにいたのは事務員と一人の女子生徒だった。知らない、しかし見覚えがある制服の彼女に周りからも視線が集まるのを感じた。
「確か、櫻井の幼馴染みの………」
「山下華です………突然ごめんなさい。牛島君に来て欲しいところがある……できれば、今。すぐに」
肩で息をして、寒いにもかかわらず上着を腰に巻いて汗をかいている彼女は強い視線で俺を見ていた。その申し出を邪険に思ったのは監督で、鋭い視線を彼女に向ける。
「……それは、事前に連絡をするものじゃないのか?」
「す、すいません鷲匠先生……!
この子が駆け込んできたもので………」
事務員に急かされる様に腕を引かれるものの、それすらも気にしないと言った様に彼女は俺だけを見ていた。その目は涙をいっぱいに溜めていて、震える唇を噛み締めていた。
「お願い………!もう、君しか頼る人がいないの!
今すぐ律のところに行って」
「っ櫻井が、どうかしたのか」
溢れた涙を必死に拭いながら彼女が言った言葉にガツン、と頭を殴られた様な感覚に陥った。
「律は、六日前から意識不明で。いつ目を覚ますかもわからないの」
「…………は、」
「牛島君が律の運命なら、起こしてみせてよ……!
もう、このまま………このまま、律が一生目を覚さなかったら、どうしよう……っ!!」
何を言っているのかわからなかったけれど、脳裏に最後に見た櫻井がチラついた。
『ん、私も見てるよ』
そう、柔らかい表情で言っていた櫻井が………?
途端に、足元がガラガラと崩れていく様な感覚がして、ふらついた。
「若利!」
「大丈夫、です」
監督に腕を引かれてハッとする。俺は白鳥沢の主将で。でも、俺は………
「櫻井に、会いたい………」
ぽろっと、意識もしないうちに本音がこぼれ落ちてハッとした。
でも、それを聞いた山下は嬉しそうに笑っていて、もう一度深く頭を下げた。
「突然押しかけてしまい、ごめんなさい。北川第一中学校二年の、山下華です。
私の幼なじみの子が…………その、事故に遭って。どうしても牛島君の力が必要なんです」
「事故……?」
「………後天性Ωで、その………」
「ああ、すまん。言わなくていい」
事故という言葉に第二性が関わってくるなら、誰かに襲われたのか。………噛まれたのか。
そう思うと、腹の奥が熱くなるような、今までに感じた事のない怒りが湧いた。
「彼女の言う幼なじみが、俺の運命の番です」
「、」
「行かせてください」
「………わかった」
心の奥で確信しつつも誰にも言えなかった言葉が口から滑り落ちた。様子を窺っていた部員が少しざわつくのを感じるが、それでもそちらに気を回せないほど混乱していたのかもしれない。
「瀬見、少し抜ける。……頼んだ」
「おう!安心して行ってこい」
とんとん拍子で話は進み、コーチが運転する車内で詳しい事を山下に聞いた。病院についた頃には辺りは暗くなっていた。
面会時間は過ぎていたものの、特例ということで短時間だけ許可をもらい一目だけ会うことにした。
俺と眠ったままの櫻井しかいない病室の中では心音を伝えるビープ音しか聞こえず、静かだった。
純白で揃えられたベッドの上で静かに眠る櫻井はそのまま消えてしまいそうなほど弱々しく、固く目を閉じて眠っていた。細い腕には点滴と胸膣チューブが繋がっており、首には包帯が薄く巻かれているのが見えて痛々しい。
「………」
横にあった椅子に腰掛けて、チューブが繋がれた手を握る。
櫻井に故意に触れたのもこれが初めてだなと思ったけれど、その手は嫌に冷たくて、生きた心地がしなかった。
………あの日、大会の時。本当は無理やりにでも扉を開けてしまいたかったと言ったらどんな表情をするんだろうか。
寝顔なんて見たこともなくて、いつだって真っ直ぐに前を見据える彼女の横顔が好きだった。直向きに突き進んでいく姿に焦がれた。
「起きてくれ、櫻井………」
どうして、反応してくれないんだ。頼む、起きてくれ。
俺はお前がどんな姿になろうと、お前のことが好きだ。
一生このままかもしれないけれど、俺にはお前しかいない。
言っただろう「櫻井には俺が必要だと思った」と。俺もだ。俺にも、お前が必要だ。
コンコンとノックが響いて控えめに病室の扉が開く。
「すいません、そろそろ………」
「、はい………」
また来る、とだけ言い残して、深い眠りにつく櫻井をもう一度見て病室を後にした。
* * *
暗闇の中で、一人立っていた。前も後ろもわからなかったからその場で、何をするでもなく。足元がひんやりして、水面に立っていることだけはわかった。
『いつまでも綺麗で、特別でいられるなんて思ってるの?』
自分とそっくりな顔をした何かが、ゆっくりと語りかけてくる。
『誰かにとっての唯一になりたかった?誰でもない自分だけの特別が欲しかった?
好きな人に、愛されたかった?
もう、全部おしまいなのに』
けらけらと笑うそいつを冷ややかに見て、口を閉じた。
奴の言う言葉はきっと私の本心で、どうしようもない事実だ。
どれだけ努力しても私が望んだものは手に入らず、彼に触れることもできない。
私は醜くて、汚れていて。どうしようもない劣等種だ。
それでも。それでも………見てるからなと言ってくれたから。私から諦めるわけにはいかない。
「わ、かとし………」
「っ!櫻井」
目を開けると病室で、ベッドの脇には若利がいた。
彼が目に入った瞬間どうしようもない安堵と不安が押し寄せてきて、もうダメだった。
「わたし…………、っごめん」
「、」
「ごめん、私………もう、若利と並べないかもしれない……
ごめん、ごめん……っ!」
流れる涙は止まらず、ただひたすら誰に向けてかわからない謝罪と嗚咽をこぼす。若利は何も言わず私の手を握っていた。
ずっと、憧れていた。彼の様なバレーをしたいと思っていた。私も、隣に立ちたいと思っていた。
でも、その努力も試合に出ることさえできなくなって意味がなくなって。今まで必死になって積み上げてきたものが突然音を立てて消えた。
悔しいのに、悔しくて悲しくて仕方がないのに体は番を求めて疼いて。
多分、私はずっと前から………はじめて彼を見た時から、
「ごめん………好き」
繋がれた手が熱い。体は全く動かせないのに、もっとくっつきたくて離れたくなくて。
「謝るな」
「っ」
「俺も、お前のことが好きだ。
………目が覚めてくれて、よかった」
その言葉が嬉しくて仕方がなくて、体が震えた。起き上がろうとしてもう片方の腕を動かそうとしても無理で、ただ涙を浮かべた目で訴えながら彼の名前を呼ぶ。
「…………櫻井、」
「ん、っ」
両手を重ね合わせてベッドに縫い付けられると、ゆっくりと若利が近づいてきたのでそのまま目を閉じて受け入れた。はじめてで、拙いながらも不思議と安心するキスだった。私の不安を拭って、丁寧に触れ緊張を緩めていくかの様で。不安でいっぱいだった心が満たされていく気がした。
気恥ずかしいけれど離れ難くて、それどころかもっともっとと求めてしまう。
薄く目を開けると目を閉じた若利の顔がすぐそばにあって、少し照れ臭かったけれどなんだか見ないのももったいない気がしてそのままぼんやりと見つめていた。
「はっふ………」
「フ、ぅん……ッ」
空気を取り込もうと口を開くと、控えめでも確かに舌が差し込まれた。歯茎を撫でてねっとりと絡んでくるそれにクラクラする。段々雰囲気に呑まれて頭の中が溶けていく感覚がした。
ぼんやりとした思考の中で、ただただ好きだなと。底知れない感情が渦巻いているのを感じていた。
「ふ、ぁ…………」
「悪い」
「、謝らないでよ」
触れ合っていた唇を話すと混ざり合った唾液が伝っているのが目に入ってしまい、目の毒に思う。それでもまだ離れ難くて、私は彼の背中に腕を回してギュッと抱きしめた。肩甲骨や背筋の隆起を感じて、大きな背中だななんて思った。もっと近づきたい。首筋に頬を寄せて肌の匂いを嗅いだら、私の中が満たされていくのを感じた。
もう一度だけ触れるだけのキスをねだって、誘惑するかの様に首に腕を回し、正面から彼を見つめる。
「私、若利の番になりたい。………ダメ、かな」
彼は一瞬目を見開いて、柔らかく笑った。
「俺も、櫻井がいい」
「よかった………嬉しい」
私が倒れてから二週間経っていたらしく、病室でも学校でも目が覚めたと大騒ぎだった。検査の結果は良好で後遺症もなく、傷が塞がれば元の生活に戻るだろうとのことだった。
頸を噛まれたと聞いたけれど、その前後の記憶は抜けていてあまりよく覚えていない。思い出さないほうがいいと悲痛そうな表情で華や岩泉が言うものだから考えない様にした。
中二の冬という中途半端な時期だったものの、事件の大きさを鑑みて転校も視野に入れていた。
けれど、行きたい高校は決めていたから保健室通いをしつつそのまま北川第一を卒業した。
「櫻井さん、若利君の運命の番だってホント?」
「…………天童君のそういうハッキリ聞きに来るところ、影でコソコソ言われるより好感が持てる」
「そう?ありがとう。で、事実は?」
「若利に聞いたの?」
「ウン。昨日、寮で」
「知ってるんじゃん。ウケる」
天童君は同じクラスにいる唯一の男子バレー部員で、若利と私が廊下で話しているのを見かけてからは頻繁に若利の話をしに私のもとへ来る様になった。
外部入学だから中等部からエスカレーターで進学した人と比べると親しみ辛いだろうし、この性格と首元のチョーカーが相まって少しだけ馴染めずにいたので天童君と話すのは楽しい。幸いにも話題は尽きることがなく、若利の話以外にもバレー部の同級生の話や試合のこと、色んなことを話してくれる。
「でも、櫻井さんって試合見にきたりしないよね」
「ああ…………だって、決勝は青城と当たるでしょ?」
「ウン、まぁ」
「行けないんだ」
「どうして?」
「青城には、及川がいるでしょ?
………及川とだけは、もう会えないから」
天童君は詳しく聞きたがっていたけれど、こればっかりは私も何も言えないのだ。
ただ、及川とはもう顔を合わせたらダメだと周囲からキツく言われている。それが私の抜けた記憶に関わることだと気づいているし今の状況を崩したくないからしたがっている。
「律」
「、若利」
廊下側の一番後ろの席だから、休み時間はよく若利が訪ねてきてくれる。授業とか、最近読んだ本の話をすることもあればはじめて会った時と変わらずバレーの話もするので天童君以外にも度々男子バレー部が話しかけてくる。
「若利君の話してたんだよ!かっこいいネって」
「………そうか」
「ふふ、うん。まあね」
彼はどこにいても目を引くんだなぁと、白鳥沢の中でも群を抜いて秀でていることを知った。だから、バレーを辞めても彼のそばにいられることが嬉しい。
『一つだけ、約束してほしい』
『?』
家や学校関係のゴタゴタがなくなって、私が若利の家に泊まりに行った時だった。
隣同士に並べられた布団に座って、両手を繋いでこれからのことを話した。この先死ぬまで二人で生きていくと決めたけれど、私たちはまだ自立した大人じゃなくて学生だから。運命の番でもちゃんとやるべきことをして、手順を踏んで大人になっていこうと。
学校生活とか、発情期とか。どうしようもないことやままならないことはこれからもたくさんあると思うけれど、私が彼に望んでいることは昔から一つだけだ。
『自由に、のびのびとバレーをしていてね』
親や周囲の期待が大きくて、プレッシャーに押しつぶされそうになる時もあると思う。それでも好きなことだから我慢しろなんて言う気はないけれど。それでも、私が憧れた彼だからいつだって楽しんでいてほしい。
世界で一番、幸せであってほしい。
若利は口元を手で覆って視線を外したかと思うと、一つ咳払いをして私の頭に掌を滑らせた。
『お前の、そういうところが好きだ』
『、』
『必ず俺が幸せにする。だから、辛いこととか苦しいことは隠すな。だから………幸せになろう』
ああ、困るな。本当に、眩しくて仕方がない。
『うん、よろしくお願いします』
終わりじゃなくて、これからだ。これから、幸せになりにいくんだ。
Ωの櫻井さん
憧れが発情期を経て愛へと変わってしまった。
きっと誰よりもオメガバース性が嫌い。
最初っから最後まで若利のことを考えている。真人間。
αの若利くん
初めて見た時から櫻井のことが気になっていて、佐久早の話をしてるところで恋心を自覚していた。でも、櫻井がオメガだとは思えないし、運命ではないのだろう。でも、好きだなって思ってた。
及川が想像を超えたクズになってしまった………
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