仕事放棄する話



身体の水分不足で頭が回らない。
これを飲んだら帰ろうか。
でも帰ったところで何をするのか。
いや、やることは山ほどある。
サマパラの準備に虎者の稽古の復習に、炎の体育会TVの疲れを回復する。
やることはあるのに身体が動かないのは何故か。
文字通り疲れているからなのか、それとも別の理由か、もう、よくわからないところまで来ていた。

「…はぁー」
「よーこーはーらーは、いない、え、俊介?」
「梅田?」
「残ってたの俊介だったんだ。リハ室の電気ずっと点いてたから横原だと思ってた」
「あー、横原は1時間くらい前に帰ったよ」
「ありゃりゃ、そうなの?」

廊下の向こうからひょこって顔出した梅田の腕の中にはジャケットと何枚かのシャツがあった。
たぶん横原の衣装。
心なしか髪もボサボサで、少しだけ目元に疲れが見える。
そうだ、サマパラに向けて衣装の準備が大詰めで、最近梅田はこの時間まで事務所に残っているんだ。

「…俊介」
「ん」
「まだ帰らない?ちょーっと手伝ってくれない?」

冷蔵庫の前にしゃがみ込んで、取り出した水を開けようともしない俺を見て何かを察したらしい。
手伝ってくれない?なんて梅田からのお願いのように見せかけて、まだここにいたいって空気を出したのは間違いなく俺だった。
あははって苦笑いした俺に、梅田はへらへら笑って手招きした。

「先に言う。散らかっててごめん」
「いやいや、それは大丈夫だけど、え、これどこに何があるかわかるの?」
「わかるわかる。そっちが新の衣装たち。こっち椿くん」
「これはもう梅田にしかわかんないよ…」

元倉庫の狭い部屋にぎゅうぎゅうに突っ込まれたハンガーラック8つと生地が詰まった段ボールと中央に鎮座したミシンがのった机と全身鏡。
サマパラ用に即席で作られた梅田の作業部屋は思ったより散らかってるけど、本人はちゃんと場所を把握しているらしい。
キョロキョロ見てたら地面に落ちてた布を踏みそうになって、慌てて足を引っ込める。
几帳面で綺麗好きで新が散らかした楽屋をよく片付けてる梅田だけど、こういう衣装関係とリュックの中とiPadの中はぐちゃぐちゃなことが多い。
まるで仕舞いきれないアイデアで溢れてる梅田の頭の中みたいに。

「横原帰らないでほしかったなー、試着してほしかったのに」
「お腹空いたから帰るわーってがちゃんと帰っちゃったよ。横原、前に採寸してなかった?」
「うん、したんだけど、P・A・R・A・D・O・Xの衣装試着してほしくて。ほら、あの曲でみんなお腹出すでしょ?でも横原は出さないから」
「え、出さないことにしたの?」
「無理ーって言ってたよ。だから出さなくても色っぽく見えるように衣装で調節しようと思って。うーん、帰ったの1時間前か。近くにいるかな」
「電話して呼ぶ?どうせその辺でごはん食べてるよ」
「……ううん、明日でいいや」

正直、意外だった。
仕事のためだったらこの時間に呼び出すことはあるし、がちゃんとごはんに行ったって言ってもきっとこの近辺だ。
すぐに戻って来られる距離にいるだろうに、梅田は連絡しなかった。
ふと気づく。
そうか、俺がいるからだ。

「少しだけ仕事してもいい?」
「うん。俺何手伝う?」
「じゃあここ座って?」

ミシンの前に座った梅田の隣のスペースがなんとなく開けられたと思ったら、そこをぽんぽんって優しく叩いた。
座って手元を覗き込めば、誰かの衣装の取れかけたボタンを弄る梅田の指先がよく見える。

「これ誰の?」
「これは影山。前に着た衣装なんだけどボタン取れちゃってたからつける。俊介は時計見ててね」
「時計?」
「さすがにここ閉まる時間には帰らないとだから。片付けするから30分前になったら教えてね」
「わかった」
「よろしくー」
「……」
「……」
「……」
「……」
「…え、俺の仕事それだけ?」
「へ?うん、それだけ」

それは仕事とは言わないのでは?
ぽかんってなった俺の顔を見て、梅田が一瞬だけボタンから視線を上げた。

「ほんとは手伝いできる状態じゃないくせに」
「っえ、あー、…ごめん」
「謝らないで。メンタル?フィジカル?」
「……両方」
「そっか、それは大変だ。私にできることある?」
「……肩、貸してくれない?」
「うん、どうぞ」

ふわって笑うから、ああ、俺意外と限界だったのかもってやっと気づいた。
お仕事が増えることは嬉しいことで、元々そこまで繊細な方じゃない。
それでもメンタルもフィジカルも疲れる時は疲れるから。
隣に座った梅田の肩におでこをぐりぐり擦り付けたら、頭がじーんとした。
泣くとか痛いとかそういうことではなくて、なんていうか、温もりがスーって俺の中に入っていく。
さっき冷蔵庫の前で会った時、俺と最初に目が合った時に梅田はもう分かってたんだろう。
俺がそろそろ限界だって、分かってたんだ。

「……」
「…なんか喋ってよ」
「え、喋っていいの?静かな方がいいかなって思ったんだけど」
「ううん、普通にしてて。俺のこと意識しないで」
「あはは、難しいこと言うね。善処する。じゃあ何話そうかな。あ、今迷ってること言ってもいい?」
「なに?」
「前に大河が着てた衣装、そのままだとたぶん着られないんだー。たぶん丈が短くなっちゃってる。この事実を伝えてから丈を足そうか、黙って丈を足そうか今日ずーっと迷ってた」
「がちゃん身長伸びた?」
「うん。みんな成長著しいからねー。サイズ調整が大変。椿くんはどんどんガタイ良くなって厚みが出てきたから、パツパツにならないように調整しないと。あと奏はまーた身長伸びてた!あの子の成長は天井知らずだねー。あ、でもね、意外と影山も伸びてて。そのうち180pいきそう。羨ましいよ。私ももうちょっと身長ほしい」

梅田の声が空気を振動させて俺の耳に届く。
それと同時にその熱が身体を振動させて俺に広がる。
ゆっくり息を吸えば甘い香りがした。
甘いのに甘くなくて、少しだけ、ピリッとした気がした。

「…奏がね、この前すごいこと言ってたよ」
「ん?」
「私が仕事してたら頭撫でてきて、うめめは頑張ってるよーって。頑張ってくれてありがとーって」
「奏が?」
「そう、奏が。びっくりしちゃった。その場ではかっこつけてからかっちゃったけど、嬉しかったな。なんだろう、『俺らのためにありがとう』って言われることって、個人で仕事してたらなかなかないから。すごく、嬉しかったな」
「そっか、よかったね」
「……ねえ、俊介?俊介は頑張ってるよ」
「っ、」
「メンタルもフィジカルも疲れるくらい、すごく、私やみんなや俊介本人が思ってる以上に頑張ってるよ。ありがとう」
「…急になに、もー、やめてよ」
「えへへ、奏に言われてめっちゃ嬉しかったから私も伝えようと思って。年上組でバランサーで平和主義で、あんな個性的な人たちまとめるの大変なのににこにこ笑ってて、いつも、頑張ってくれてありがとう」

ずっと『自分のため』だった。
それが今は『みんなのため』になった。
でもまだ足りない。
ここで終われない。
1日でも早く『グループのため』『メンバーのため』になりたい。
ならなきゃいけない。
境界線がわからなくなる。
先に進みたいから梅田に触れたいのに、先に進みたいなら触れるべきじゃない。
その境界線を、俺らはずっと探してる。

「…梅田、」
「あ!ちょっと待って、危ないから針置く。あと、…後ろより前がいい」

梅田のお腹に後ろから腕を回そうとしたら、慌てた梅田が持ってた針を仕舞った。
仕舞って、机から離れて、俺の正面に向き合って。
腕を広げてにこって笑って。

「はい、どうぞ」
「…これはアウトかな」
「…アウトかも。ちなみに奏とはしなかったよ?頭撫でただけ」
「奏が?」
「奏が。でも私も撫でた。だからそれはセーフだけどこれは、」
「奏がそこまでなら、俺はしてもいいでしょ」
「っ、」

うーんって考え始めた梅田の腰に強引に手を回して正面から抱きしめた。
さっきまで触れてたおでこの比じゃないくらい身体が熱い。
びくって身体が跳ねたのは一瞬で、すぐに力が抜けた梅田も俺の背中に腕を回して首元に顔を擦り付けた。
矛盾してたな。
奏がしたことはセーフ、それ以上はアウト。
そんな理屈だったのに、無意識に“奏は抱きしめなかった”が先行した。
奏が、他の男がしてないことを、触れてないところを、俺だけが触れたい。

「珍しいね。ほんとに弱ってるんだね俊介」
「珍しいかな」
「珍しいよ。珍しく、わかりやすく私に甘えてる。俊介はあざといけど、本当に弱ってて甘えたい顔はあんまり外に出さないから」
「嫌?」
「ううん。前に私も甘えたからおあいこだね」
「……俺、仕事放棄していい?」
「仕事放棄?……あはは、うん、いいよ」

事務所が閉まる時間30分前だ。
俺が任された退出時間のアラート係の仕事は、たった今放棄した。
ここは時計の針の音さえ聞こえない。
好きだって言ってしまったら絶対に聞こえる。
俺が言う前に、梅田の耳に入る前に、その言葉を止めるために、お互い言葉を吐き出すしかない。
それは境界線の向こうだって、それだけは確実に理解しているんだ。

「…あ」
「なに?」
「ごめんダンス踊った後だから汗臭いかも」
「それを言うなら私もずーっとここ篭ってたから汗ばんでる、ごめん」
「そう?そんなことないけど」
「そんなことないって判断できるくらい匂い嗅がないで」
「無理でしょ、こんなに近いんだから」
「…近いって言葉にしないで。ちょっと緊張する」

梅田の右手が頭に触れた。
ふわって撫でられて口元が緩む。
少しだけ遠慮が入ったその手に擦り寄れば、躊躇いがなくなって何度も何度も撫でられる。
同じリズムで左手が背中を優しくぽんぽん叩くから、目を閉じた。
すべてを吸い込んで、満たしていく。


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