私が私でいる為に

 流れる雲に乗るみたいに、過ぎていった白い鳥。あの鳥の名前はなんというのだろう。ぼうっと眺めて、はあ、とひとつため息をこぼす。
 私はほんとうに知らないことばかりだわ、と外の世界を知れば知るほど自身の無知具合を実感する。鳥の名前どころか、この国に定められたルールでさえ、ほとんど知らなかった。
 彼と共に生きていくと決めたからには、恥のない程度には知識を蓄えておく必要がある。ただ、ディルック様の旅路の邪魔はしたくなくて、もちろん離れるなんていう選択はもっての外だから。だから、離れなくても知識を得ることができる手段を取りたくて、提案をした。
「本が欲しい?」
「はい。この国は本がたくさんあると聞きました」
 今滞在しているスメールという国は学問が栄えた国らしいから、得たい知識は豊富にあった。どうかこの国にいる間、できるだけたくさんの本を読んでいたいのです。何十冊、何百冊、何千冊でも読みましょう。幸い文字を読むことはできるから。
 ディルック様に自分の意思を伝えれば、彼は僅かに考え込んで、それから表情揺らがすことなく口にする。
「構わないが、君はもう自由だ。縛るものなんてないのだから僕の許可なんて取らず好きに動くといい。僕に着いてくる必要だってないんだよ」
「いいえ。ディルック様の側からは離れたくはないのです。ただ、……近くにいるには、私は、その。」
 足手纏いすぎます。どんなに知識を得たとしてもディルック様の足元にも及ぶわけがないけれど、だからといって現状のままで満足なんてできなかった。遠く離れた距離をほんの少しでも埋めるためにも学ぶ時間をいただきたい。
 俯いて、小さな声で本音を口にすれば頭の上にぽんと温もりがひとつ。ディルック様のあたたかい手のひらが滑り、頬の位置で止まった。
「ディルック、さま、あの」
 触れられた頬に熱が集まる。あつくて、とけてしまいそう。どうしましょう。どんな顔をすればいいの。
 顔は冷静を装いつつも心の中は大慌て。そんな私を見通しているのかはわからないけれど、ディルック様は微笑を浮かべながら口を開いた。
「……君と過ごし始めてから、怪我をすることが減ったんだ。小さな傷でさえ、眠っている間に消えている」
「それは」
 はく、と口を開けば唇に指をそっと当てられる。言わなくていいと指先で言葉の静止。そんなことをされてしまったら弁解も何もできなくて、黙るしかない。
 旅のはじめ、むやみに元素の力を使わないほうがいいとおっしゃられたのはディルック様。僕のことは放っておいてくれと。私はそれを守っていなかった。少しでもディルック様の力になれば、と、こっそり治癒を施す夜は毎日のこと。
 生きるために、生き抜くために、身体の傷を癒やすことのできるようになったこの力すべて、私のものだから。ディルック様に使ったって何も悪くない。
「もちろん僕にも治療の知識はあるが、君のようにすぐに治せるものではないんだ。騎士団にいた頃は医務官が別にいたから、大きな治療は任せきりでね」
「そう、なのですね……?」
 騎士団。医務官。そういうひともいらっしゃるのね。どういう仕事をなさる方なのかしら。誰でも知っているような知識もない自分自身に少しばかりの恥を感じて、ほんの僅か表情を曇らせてしまう。私の表情の変化を察したディルック様は、私の頬から手を離して、そのまま腕を組んだ。
「……どう捉えたかはわからないが、僕が言いたかったのは君は足手纏いではないということだ。本当に足手纏いになるのならとうの昔に置いていっている」
 だから自信を持ったっていいんだよ。そう言ってディルック様はふ、と笑った。
 ディルック様に着いていくと決めたのは私なのに、置いていく、だなんてそんなこと。そんなの。まるで、今後も一緒にいてもいいのだと言われているようで。こういうことをディルック様の口から告げられたのは初めてだった。こんなの、どうしましょう。嬉しすぎます。じんわりと滲んでゆく涙を隠すようにぐっと眉間に力を込める。
 でもそれなら尚更のこと。これからも一緒にいるために、ディルック様の隣に立ち続ける自信をつけるためにも、やはり知識はつけておく必要がある。
「やっぱり、それでも。学びたいです。少しでも自分に自信をつけるために。」
「そうか。君のこれからの人生のためにも、知識はあるに越したことはない。確かスメールには図書館がある。今日はそこに向かおうか。僕もちょうど調べたいことがあってね」
「…! はい!」
 ディルック様は、素っ気ないように見えて、とても、とても、お優しいひとだと思う。彼の優しい提案に頷いて、その背についてゆく。この旅がいつまで続くかわからないけれど、どうか彼が目的を達成し、旅を終える決断をするまでには、彼に頼っていただけるほどには成長していたいと思うのです。