有川さんはカフェを含めたこのビル全体の経営管理をしているとのことだった。そしてビルのオーナーは昨日のあのモッズコートの男だという。彼女の父親が作ったという借金100億――正直、耳を疑うような金額だ――をカフェの売上から少しずつ返済し、つい最近になってようやく完済したらしい。
「それ、本当の話なの?」と訊きたい気持ちはあったが彼女が嘘をついているようにはどうしても見えなくて、「大変でしたね」としか言えなかった。
ただそんな話が私と何の関係があるのかはわからない。ここまで私を連れてきたあの男もいつの間にか姿を消していた。
「それで、返済は終わったんですけど、カフェの営業は今も続けていて……。で、借金取りさんから、『今日来る人を、事務でも雑用でもいいから雇え』って言われてて」
「……は?」
「えっ、あれ? 聞いてないですか……?」
「これも渡すように言われてて」と言いながら彼女が取り出したのは一枚の紙。そこには『同意書兼契約書』と書かれていていくつかの文が箇条書きで並んでいる。その右下には私の名前がすでに誰かの字で記入されており、さらにその横には私の苗字の印鑑まで押されていた。
見事なまでの偽造文書だ。十中八九、昨日のあの男の仕業だと察しはつく。が、借金のことを考えれば怒る気にも抗議する気にもなれなかった。
――私に拒否権がないことなんて、最初からわかっている。
「借金取りさんは、『雇用契約書みたいなもんだ』って言ってましたけど……」
「ああ、いえ、すみません。ここで働きます」
「ほ、本当ですか……? よかったぁ……」
安心したように微笑んだあと、有川さんは分厚いファイルを取り出して、ビルとカフェの概要を説明してくれた。私は相槌を打ちながら聞いていたけれど、どう聞いても普通のカフェ経営の話にしか思えない。接客して夜に引っ張ってこれそうな客を捕まえてこいなんてことも言われないし、任されるのは聞く限り事務や雑用といった普通の仕事だけだった。
だからこそあの男たちの狙いが見えず、不気味さだけが募っていく。ここまで来たらやるしかないとわかってはいても、不安は消えなかった。
「あの、私、こういう仕事したことないんですけど……」
「大丈夫ですよ! ほとんど私のお手伝いみたいなものなので、わからないことがあったら何でも聞いてくださいね!」
ドンと胸を叩いてそう言う有川さんは、きっと私より年下だろうに、妙に頼もしく見えた。その姿を見てなぜか急に虚しさがこみ上げてきた。
彼女もまた、親の借金を背負わされた人間なのに――どうしてこんなにも、生きる世界が違って見えるんだろう。どうしてこんなふうに、明るくいられるんだろう。
この人は、自分の親を殺したいほど憎いと思ったことが、ないのだろうか。
「――有川さんは、お父さんのこと、恨んでないんですか」
気づけば、そんな問いが口をついて出ていた。
きょとんとした顔をする有川さんを見て、私は思わず手で口を押さえた。なんてことを聞いてしまったのか。謝ろうとしたそのとき、彼女が「そうですね……」と口を開いた。
「嫌いなところもあるし、散々困らされてもきましたけど……でも、このビルのこととかはある意味父のおかげでもあるし……。
それに……あんな人でも、父親で、家族ですから」
眩しいくらいに笑ってそう言う彼女を前に、私はただ虚しさしか感じなかった。
彼女の笑顔の理由はきっと私には一生わからないことなんだろう。
「優しいんですね」
捻り出した言葉は我ながら驚くほど温度のない言葉だった。でも彼女は「そんなことないですよ」と照れたように笑っていて、私はもう、どうすればいいのか分からなくなっていた。
*
一通り仕事内容を確認したタイミングで、部屋のドアが開いた。
「……あ、そろそろ話し終わりました?」
「ニカさん! どこ行ってたんですか?」
「ちょっと若のところに。――で、大丈夫そうですか?」
「仕事の説明はだいたい終わりましたよ」
男が私に向かってうっすらと笑う。この「大丈夫」は仕事内容だけじゃなく、いろんな意味を含んだ問いなのだろう。たとえば、「逃げられないって分かってるよな」とか。
「とにかく、真っ当に働いて返せってことですよ」
――耳を疑った。ヤクザまがいの人間が、何を言ってるんだろう。何も言えずに黙ってしまったが男は気にする様子もなく、有川さんと話を続けた。
「とりあえず借金は、毎月の給料から天引きって形になるんで」
「借金取りさんから聞いてますよ。――あ、会計とか雑務はニカさんにお願いしてるんですよ」
有川さんが補足するように私に伝えてくれる。男もそれに「そうそう」と続けた。
「ニカも基本的にはこのビルの仕事に入ってるんで。よろしくお願いしやす」
「ニカさんってこのビルの手伝いをしてもらう前は借金取りさんと一緒に働いてたんですよ〜」
――そういうことらしい。
既にいろいろと話が決まっているところを見ると、いったいいつから私の処遇は決まっていたのだろう。しかも天引きってことは、借金を返し終えるのは何年先になるのか。それまで本当にこの仕事が保証されるのか。男が来るまでの間有川さんの話を聞いていたが彼女は休学しながらこのビルを経営しているらしい。ということは、この子の気分次第で急に終わる可能性も否定できないのだ。やっぱりそれも想定して、夜はいつもの通り店に出た方がいいかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら頭の中で計算していると、「ああ、そうそう」と男がこちらを向いた。
「あんたが所属してた店、連絡して籍抜いてもらいましたから」
「……は!? いつの間に――」
「あと、若から伝言。『勝手に仕事始めたら、どうなるか分かってんだろうな』……以上」
「な……」
「? 副業ですか?」
疑問符を浮かべる有川さんに本当のことを伝えるのは憚られて「そ、そんなところです」と曖昧に笑って返す。この反応を見る限り彼女はそういう仕事とは無縁だったのだろう。なんとも羨ましい話だ。
男は相変わらずニコニコしていて悪びれた様子もない。ふつふつと怒りがこみ上げてくるがぶつけるわけにもいかず、一度だけ睨んでから、「……わかりました」と呟いた。
「それじゃあ早速、お仕事お願いしたいんですが――ちょうどよかった。ニカさんのカフェの在庫確認に行きましょう」
「え?」
「ん、じゃあ一緒に行きやしょうか」
「は?」
「あれ、言ってませんでしたっけ。2階のカフェは、ニカがメインでやってるんで」
「うわ……」
胡散臭い笑みを浮かべた店員がいるカフェ。多分、女性客が途切れないんだろうな。私が考えていることが分かったのか、男はますますその胡散臭い笑みを深めた。
「そういや、自己紹介まだでしたね。気軽に“ニカ”って呼んでいただけたら」
「……」
「ね」
「……はい」
二人についていくようにして部屋を出る。何やら資料を見ながら話している二人の背中を見て、果たして本当にやっていけるのだろうかと不安しかない。
そういえば「基本はビルの手伝い」「以前はあの男と働いていた」という情報を聞くに、有川さんは、彼らが昨晩繁華街であったようなことをしていると知らないのだろうか。
するとその男――ニカが急にこちらを振り返った。そしてすべてを見透かしたような顔で、「しー」と口元に人差し指を当てた。
ああ、そういうことか。――しょうもない。