恋するカメラ。 
 カチリとライターで煙草に火を付けて、口にくわえたままパイプ式の水道管が繋がるコックを捻った。お湯が湯気を立てて勢い良く流れ出す。ヘコんだ浴槽の底にお湯をためながら、着ていた黒のワークジャンパーを脱ぐ。浴槽の縁のタイルの部分に、古ぼけた旧式のラジオを置いてチューニングを合わせた。
 ざざざ。ひび割れた雑音のみが流れ出した。
 石鹸を手に取り手のひらで泡立たせる。用意をしていたブラシで、脱いだワークジャンパーを軽くお湯に浸してから、袖をガシガシと強く擦った。
 何回か繰り返してから、シャワーで石鹸と泡を洗い流す。

「落ちないな……」

 口の中でゴチて、相変わらずにざざざと雑音のみを流すラジオの電源を舌打ちをしながら切った。腰かけていた浴槽の縁から立ち上がり、中のシャツも脱ぐと浴室の戸を開けて適当に放る。
 後でまとめて洗濯機に放り込めばいい。
 だがワークジャンパーは手洗いじゃないと駄目だった。
 以前、それを知らずに洗濯機に放り込んで、買って一週間と経たない内に着れなくしたことがある。

「ちょっと先生。お湯の出し過ぎじゃないですか!? 振動が凄いですよ。こっちまで響いてますって。それでなくてもここのアパルトマンは壁が薄いんですから。またお隣から苦情が来ても知らないですよ」
「…………」

 浴室の戸を開けて綺麗に眉をしかめた助手の顔が覗いた。仕方なくコックを少し絞める。

「うわっ。けむいー。よくこんな場所で煙草なんて吸えますね」

 ちゃんと換気して下さいよ。と念を押して引っ込んだ。
 いちいちうるさい。再び口の中で舌打ちをして、短くなった煙草を灰皿代わりのビールの開き缶に揉み消した。言われたそばから新しい煙草に火を点けると中断していたワークジャンパーを再び洗い始める。
 脂性が染み込んだ部分が、色が変色してしまっていた。
 これは洗って落ちるどうこう前に、色が剥げていやしないか。

(…………)

 だから嫌なんだ。カメラが恋した相手にしか被写体にはしたくない。もう二度とごめんだ。
 長年の相棒である愛機が恋をする相手は様々だ。前回ドタキャンは免れたが遅刻をした恋の相手は片胸を失った娼婦。今回、無理やりの相手は有名な老画家だった。しかも恋をした相手ではない。
 それがひどく面倒で苦痛だ。
 なぜ好きでもない相手を嫌々と撮影をしなければならない。

 仕方がないですよー。先生はプロのカメラマンでしょ!? お仕事でお金を稼いでいるんですから文句は言っちゃいけません。それが社会の現実です。恋人じゃない相手ならば尚更、恋人のように接してあげて下さい。じゃないと被写体はおろかカメラも拗ねてへそを曲げちゃいますよ。

 カメラは被写体に恋をする。

 ただそう思ったことを答えただけだ。ほんの数秒間。しかもミオウを介したインタビュー。それだけでもマスコミは異様なまでに食らいついた。稀代の謎に包まれたカメラマン。一躍ついた代名詞がそれだ。まったく世の連中はどうかしている。

SSS