(その日は昼からなら大丈夫です、と)
最後に宛名に打ち込まれた『家入硝子』という文字を確認してから『決定』ボタンを押し込む。「送信完了しました」と表示されたのを確認して携帯をバックに押し込んだ。
次の電車を知らせるアナウンスを聞きながらホームに設置されている固いベンチから立ち上がる。
夏休みも終盤、6時過ぎだがまだまだ明るい。いつもの呪術高専での修行を終えて帰路に着きながら私は家入さんに返事を返していた。
踊り場での邂逅から程なくしてして家入さんはまた校内を散策していた私に声をかけてくれた。そのときに連絡先を交換したのである。
内容は今度お茶する予定についてだ。今から楽しみである。
改札を抜けて右に進む。わたしの家があるのは商業施設や区役所で賑わう西口ではなく、あるものといえば少し廃れた商店街と区立図書館しかない東口にある。
バス停を抜けてシャッターだらけの商店街。寂れたこの雰囲気も嫌いではない。お店の人は大変だろうけど。
最近は呪力のコントロールもうまくできてきて、今日は夜蛾先生にも褒められた(正確にいうと「悪くない」と言われただけだが普段の言動からしたらだいぶ褒められている、はず)。商店街のプロムナードを進む歩調も心なしか調子づいている。
(あ、卵安い)
途中目についた十個入り89円の卵もゲットした。うーん今日はなかなかいい日かもしれない。
家まであと5分。
浮き足立って商店街のアーチを抜けたわたしの目に飛び込んで来たのは私の『最悪』であった。
「…は、アンタなんで」
「アンタじゃなくてお父さんだろ?」
ニタリと笑う。それは父だった。今は母にたかる寄生虫だ。
顔を伏せて横を通り抜ける。ここにいるということは家にいるお母さんが心配だった。はやく帰らなければ。
「待て、よっ!」
「っ」
腕を掴まれる。太い指に黒の細工が入った趣味の悪い指輪が目に入る。妙に温かい体温に鳥肌が立つ。どうせまた酒でも飲んでいるのだろう。
(きもちわるい)
「何ですか…もうあなたとは関係ないですから。近づかないでください」
「アイツとおんなじこと言うんだな。声も似てきたんじゃねぇの」
──やっぱり母さんに会ったのだろう。とにかく早く帰りたかった。
「お前、高校推薦で奨学金使って入るんだって?」
「は…?」
「アイツ昔からユキは絶対高校までは行かせるって息巻いて金貯めてたろ?あの女中卒でバカだから高校に憧れてるんだよ」
「…何が言いたいんですか」
息が荒くなる。アンタに殺されかけて私を産んだお母さんの何を知ってると言うのだこの──。
「だから──奨学金で行くなら金余るだろ?」
言葉を失う。文字通り暫く口からおおよそ言葉と呼べるものは出てこなかった。浮腫んだ顔に浮かぶ笑顔に殺意が湧く。もう何度この男を頭の中で殺しただろうか。
「っ、」
手を振り払うが大きな手は離れない。むしろ更に強く掴んでくる。金余るだろ?何が?何を?金が浮くなら俺に渡せと言いたいのか。怒りでまぶたが痙攣したのが分かった。
「優秀なんだろうなぁユキは」
するりと掴んだままの親指が動いて二の腕をなぞる。全身を悪寒が走った。
「優秀なユキにこんなクソみたいな父親がいるってバレたら進学も就職も大変だろうなぁ」
恐らく脅している。このクズの血が流れていると思うだけで喉を掻き毟って死にたくなる瞬間がある。もう一度手を振り払うと今度はあっさり離された。
ジンジンと痺れる腕を押さえながら距離を置く。
改めて目の前の男を見た。
高めの背に以前に増して肉のついた腹を灰色のスウェットで覆っていた。膨れたズボンのポケット。きっとレシートでいっぱいになった二つ折りの財布が入っているのだろう。
「…私の入る高校はアンタみたいなのが来たところで別に私の評価を下げたりしないし、就職だって父親が犯罪者だからって不当な評価をしない仕事を選ぶ」
「…そんなところねぇよ」
「…ある」
「ねぇよ! そういう目で見られるに決まってんだろ!」
「あるから! もう近寄らないで!クズ!」
「っくそが!」
浅黒い手が降ってくるのがスローモーションのように目に映る。左手の青色の盤に黒の針が動く腕時計は母がいつの日かプレゼントしたものだ。
(コイツ、プレゼントだったなんて忘れてるんだろうけど──)
振るわれる手が顔面に入る直前、そんなことが脳裏に浮かぶ。嗤ったのが分かったのか父の目がさらに吊り上がる。
父親の目の中の私は口の端だけ上げて笑っている。
「あ?」
ふと、そんな声が聞こえた。
それは私でもましてや目の前の男の声でもない。声の主を追う。
黒いスウェットに黒い髪、黒い目。まるでシルエットのように黒い男が立っていた。
私を殴ろうと構えた父の肩が当たったのだろう。底の見えない黒々とした目が父をじっと見ている。
「なんだよその目は」
「ちょっとやめて!」
この人に落ち度は完全にない。喧嘩腰で振り向いた父を止める。
「あー?あん?あぁ…」
たった今父の攻撃対象となった男は興味なさげに後頭部をガリガリとかくとモーションもなくその手を父の顎に入れた。
「は?」
飛んだ。
何って父が。
瞬きの間に視界から消えた父は駐車禁止の札のついた自転車を巻き込んで伸びている。目測でも90キロ近い父は軽く5メートルは吹っ飛んだ。
数秒フリーズしたが慌てて近寄った。意識はありそうだが、黒目がガクガクと定まっていない。
「…知り合いか?」
「…いえ、絡まれてただけです」
上から降ってきた声はじゃあいいかと言うとそのまま駅のほうに歩いて行ってしまう。ふらふらと歩く背中が離れて行く。
「え、あっ、ありがとうございました」
男の人は返事もせず、手を挙げて応えることもなく廃れた商店街に小さく消えていった。
男の人を見送った後、はっと気づいて家に駆け出す。
途中転けて卵が潰れた音がしたがそんなことは気にしていられなかった。
(はやく、はやく)
アパートの階段を半ば四つん這いになりながら駆け上がる。部屋の前で鍵を出した。
震える手で何度も外しながら鍵を差し込んでそのまま玄関にに転がり込む。お母さんはソファの上でクッションを抱いてそれに顔を埋めていた。
「お母さん!」
「ユキ…」
顔を上げたお母さんの顔には焦燥の色が浮かんでいる。顔も土気色だ。母さんの仕事用の高いヒール靴が散乱した玄関を抜ける。
脱ぎ忘れた靴を廊下の道中に落としながら駆け寄った。
「怪我してない?なんかされた?部屋に上がってきてない?」
「大丈夫。部屋に入れてないから」
「そっか…」
ひとまず息を吐いた。
「でもなかなか帰らなくて…」
「…お金渡したの?」
こくりと頷く母はかなり疲れているように見えた。事実そうなのだろう。
「ユキは?何もされてない?」
「…大丈夫だよ。すれ違っただけ」
「一応あの人が帰った後連絡したんだけど出ないから心配で心配で」
ポケットから携帯を出すと10分前から立て続けに着信が入っていた。駅の改札を出た頃だろう。
──お金を渡してしまってはまた味を占めて来る。悪手であるが、暴力を振るわれていた母からすれば帰ってくれるならお金を差し出す方がずっと簡単なのだ。
「お母さん…」
「…うん?」
「見てこれ」
「うわっ、卵爆発してる」
「まだ無事なのあるから今日はオムライスにしよ?あと卵スープも」
「…そうね」
ぎゅうと抱きしめてくれた母の身体からは化粧と煙草と甘い匂いがした。