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「わあ、お兄さん凄くイケメンさんですねえ。
褐色の肌に色素の薄い髪とか凄くセクシーだし、青灰色みたいな目がとても綺麗」


初めて来店して、今ではもうすっかり『いつもの注文』となったハムサンドとミルクティーを注文したあの人は営業スマイルを振りまきながら料理を運ぶ安室透にそんなことを口走った。
安室は自分が喫茶店ポアロでアルバイトをするようになってから、このような声をかけられることは珍しくなかった。
けれど、その女性は恋愛感情や下心のようなものが一切混ざっていない純粋な賛辞を送ってくるのでほんの少しだけ戸惑ってしまったことを今でもまだ覚えている。
三つの顔を使い分け、あれこれと仕事をする自分とは反対に毎日ふらりとやってきてはのんびりとして去っていく彼女が未だにどういう人間で何をしているのかを安室は知らない。
彼女がみょうじなまえという名前で、自分が来ていなくても毎日来ていて、大体同じ席に座っては自分や梓を褒めるような言動を繰り返す。
それだけしか知らないのだということを、今更ながらに知ったのだ。


「いらっしゃいませ……ああ、コナン君」
「こんにちは、安室のにーちゃん」


今日は梓がいるからか、子供らしい笑顔で挨拶を返すコナンに似たような笑顔を向ける。
仲が良いわね、なんて微笑ましそうな声が聞こえてきてその声に照れくさそうに笑って答え、カウンターの席へと案内する。
『僕、オレンジジュースね!』
座って早々にメニューも見ずそう告げる子供に心得たとばかりに手際よく飲み物を用意する。
カウンター内で作業を進める安室の前で、コナンは横目で隅の席に視線をうつす。
そこは誰も座っておらず、コナンはすぐに視線を安室へと戻した。


「ねえ、安室さん」


声を潜めて呼ばれた名前はあどけない子供としての呼び方ではなく、少年が時折垣間見せる大人びた思考をする時のものだ。
僅かに視線を上げれば、少しばかり真面目な表情を浮かべたコナンが口を開いた。


「最近なまえさんって来てるの?」
「……僕が知っている限りでは、会ってないよ」


安室とて、いつでもポアロでアルバイトをしているわけではない。
今までも会う日があれば会わない日もあった。
それでも彼女がポアロを訪れる時間さえずれていなければ、アルバイトに出た時ほぼ必ずといっていいほど彼女とは遭遇していた。
出勤する度に、いつも彼女が好んで座っているカウンターの一番隅の席を見てしまうからか梓までもが「今日もなまえさん来ませんね……」なんて言葉をかけてくる。
彼女は梓とも仲が良く、元からそういう性質なのか意外と目敏いところのあるなまえは梓が少し髪型を変えたり化粧を変えたりするたびにいち早く気づきよくその事で盛り上がっていた。
大抵そうして彼女が話を振るのは店が忙しくない時ばかりで、あまりしつこく引き留めることもないのでいつの間にか良い息抜きの時間として定着している。
あまり店内には顔を出さないマスターまでもが、時折顔を覗かせては彼女が定位置にいないことを確認して残念そうに顔を引っ込めている。
聞けば、コーヒーがあまり得意ではないらしい彼女が以前
「ミルクが入ったモカであれば飲めるかもしれません」
と雑談の中で言っていたことを覚えていて、次に来た時コーヒーの美味しさに目覚めるような一杯を用意しようとこっそり企んでいるのだと告げた。


「……何か事件にでも巻き込まれたのかな…」


独り言のように小さな声で呟いたコナンに、安室はふと目を瞬かせる。
出来上がったオレンジジュースを彼の前に差し出せば小さくお礼を言って受け取るその姿を確認して、安室はふと沸いた疑問をそのまま口にする。


「このお店に飽きてよそに行ってる、とは思わないんだね」


普通いつも来る客が来なくなった、と聞いて一番に思いつく可能性はそれだ。
当たり前だが絶対にこの店に来なくてはいけないという決まりなどはない。
彼女には好きに行動する権利があるし、ある日突然この店に来なくなったとして心配するほどのことではないはずなのだ。
それでも当たり前のようにそんな言葉を口走った少年に、安室はそう問いかけずにはいられなかったのだ。
コナンは安室の言葉に不思議そうにした後、何を言ってるんだといった様子で続ける。


「なまえさんが?飽きる?まっさかー!そんなわけないよ!」


殊更子供らしい口調で笑いだしたコナンに、今度は安室が不思議そうにする番だった。
何を根拠にそんなことを言うのか理解できない。
顔にそう書いてあったのか、それとも予め言うつもりだったのかはわからない。
コナンの手の中にあるオレンジジュースの氷が、涼し気な音をたてるのが店内に響く。


「だって外であれだけリラックスしながらのんびりする人って珍しいと思うよ?
飽きるとか、飽きないとか、多分なまえさんにとってそういう次元の話じゃないんじゃない?」


まだ一か月ちょっとしか来てないのに、すでに常連と認識されている彼女はポアロに来てはまるで自宅にでもいるかのようにのんびりとした空気で寛ぐ。
軽い調子であれこれこちらを褒め称えてくる様子に呆れはするものの嫌悪感は感じさせず。
気づけば『安室透』としての顔ではなくほんの少し浮上する降谷零としての自分に驚いたことは一度や二度ではない。
彼女の気安い様子に、今はもういない友人達との軽いやり取りを思い出して懐かしい思いにさせられるのだ。
はじめは安室透として、彼女の言葉に少し照れくさそうな笑顔で返していたけれど今では呆れたような言葉をつい口にしてしまうし、慇懃無礼な対応をすることもある。
それでも気にせず笑ってみせる彼女が来店するのを心待ちにするようになっていたのはいつからだろう。


「なまえさんってさ、ちょっとのんびりしてるところがあるから何かに巻き込まれてたりとか。
……ねえ、安室さん。
彼女は組織とは関係ないんだよね?」
「あると思うかい?」
「ううん、全然」


あっさりとそう返す少年に、そういえば彼女のことは何も調べていないなと思い至る。
毎日のように喫茶店に顔を出しては自分たちを褒めちぎる。
調子の良いことをよく口にしている、ただそれだけの常連客だ。
動きや視線から考えてもただの一般人としか思えない。
それどころか、ただの一般人よりも体力的には劣るくらいだろう。
彼女が組織の関係者であるという心配は一切していない。
していない、が。


「……むしろそれよりも気になることはあるけどね」
「気になること?」


毎日彼女を見てきて、その様子を観察していてふと気づいたことがあった。
自分の予想が正しければ彼女は何かに巻き込まれて店に来ていないというよりは。
そこまで考えてから、しかし自分がそこまで彼女の事情に踏み込んでしまってもいいのかという思いが顔を出す。
おそらく自分の考えは当たっている。
けれどそれがどれくらいのものなのか、どういったものであるのかは流石にわからない。
安易に問いただして彼女を傷つけてしまう可能性がある。
そして自分はそれを問えるほどの関係なのかと返されてしまえば、引き下がるしかない。
それでも。


「ねえ、コナン君。
彼女がまたうちに顔を出したら少し協力してほしいんだけど」
「え?」


目を丸くさせる少年を前にして、安室はにっこりと微笑んだ。
問いただせるような関係ではなかったとしても、どうしてだろう。
彼女はあっさりと許してくれるという自信がある。
一切の根拠はないけれど、不思議とその光景は目に浮かんだ。

少なくとも自分の知らないところで見知った誰かを失くすのはもうこりごりだ。
自分からこちらに声をかけてきた、その責任はとるべきである。
彼女の浮かべる緩い笑顔を思い出しながら、安室はさてどうしてやろうかと頭の中で画策する。
彼女がいつもの場所にいないと調子がでない。
だから早く来ればいい。
早くここに帰って来い。
無意識にそんな事を考えていた自分が、安室透としてではなく降谷零としての本心であるということにその時はまだ気づけずにいた。