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「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」


作ってもらったお粥を完食することは出来なかった。
安室さんもそれは予想していたのか、最初に少な目に盛られたお椀一杯分を完食しただけでも頑張ったと私のお椀を一瞥しながら言う。
残りは明日にまわして下さい、と初めからそのつもりであったらしい安室さんはそう続ける。
これが噂のスパダリというやつか。
将来安室さんのお嫁さんになる人は幸せだろうけど大変そうだ。
いや、そこは安室さんだから抜かりなくスパハニをつかまえることだろう。
是非数年後くらいに年相応に年齢を重ねた安室さんと幸せそうに微笑むお嫁さんの図を見てみたいものだ。
余興とかやるから知り合い枠で結婚式とか呼んでくれないかな、駄目かな。駄目か。

食べ終わった食器を片付けようと立ち上がる安室さんを慌てて制止する。
流石にそこまでさせるわけにはいかない。
高い食器でもなく、万が一落とした時のことを考えていたのか陶器製の食器もそれなりにあったのにプラスチックのお椀を選んでいた安室さんのおかげで重ねて運ぶことができる。
シンクまで持っていって洗い始めたはいいけど、安室さんなんで私が食器運ぶところちょっとハラハラしながら見てたんです?
一人分の食器くらい落とさないですよ、と言えばおそらく『椅子からは落ちましたけどね』と返ってきそうだったので開きかけた口をそっと閉じた。


「ああ、なまえさん」
「なんですか?」
「洗い物が終わったらここに来て下さい」


私が洗い物を終えるところまで遠くから見守っていたらしい安室さんが、手を拭く私に向かってそんな言葉を投げかける。
ここ、と言いながら自分の正面を指さす姿に不思議に思いながらも近づいた。
なんだろう肩たたきでもはじまるのか?
良妻は私を子供扱いしているわけじゃなくて老人扱いしていた……?
新たに浮かび上がる疑惑に私は一人考え始めたが、安室さんは何かを手に取りながら少し言いづらそうに告げる。


「正直、妙齢の女性相手にこのようなことをするのは気が引けるんですが……」
「え?私何されちゃうんです?」
「椅子から落ちた時に背中を打ち付けていたでしょう。
今でも庇っている様子からみると、痣になっている可能性があります」
「ああー、そうでしょうねえ。
今日はうつ伏せで寝るかーって思ってましたし」
「別に今から他の誰かを頼ってくれても構わないんですが……。
背中に湿布を貼っても大丈夫ですか?」
「ん?」


後ろから私の視界に入るようにして湿布薬を見せてくる安室さん。
躊躇いながら口にした様子の言葉に私は思わず振り返る。
何とも言えず微妙な表情でいる安室さんは、どうやら怪我の心配はしているものの服を捲り上げて湿布を貼るという行為をしていいものかと思っているらしかった。
多少顔見知りでよく話す仲であるとはいえ、肌を晒すほどの仲ではない。


「別に友達に頼んで貼ってもらったりすれば」
「それなら今すぐ電話して頼んでください」
「ええー?」
「だって貴方、面倒だからやっぱりやめた、とか言って放置しそうですし」
「…………」


同じ言葉を言う自分がいともたやすく想像できる。
私がわかりやすいのか安室さんが人の本質を理解するのが得意なのかはわからないけれど、とりあえず黙り込んだ私を見て『いいから黙って怪我をしたところを出せ』と言いたげな雰囲気の安室さんに私は項垂れた。


「……お願いします」
「はい、お願いされました。
ちょっと失礼しますね」
「あいたたた、お手柔らかに」


私にも一応羞恥心は存在する。
多少交流のある相手、それもあの安室さんに治療のためとはいえ肌をさらすのは抵抗があるけれど相手はきっとなんとも思っていないだろう。
何ならハニートラップとかでもっと凄い美女をたくさん見てきているだろうしまあ大丈夫だろう。
不思議な安心感のもと、言葉を返した私に安室さんは躊躇いなく私の服の背中側を捲り上げる。
打ち付けたのは丁度肩甲骨の下辺りで、私の背中を見たらしい安室さんが小さな声で『椅子から落ちたにしては結構な痣になってるな』と呟く。
今の言葉が何となく本来の彼が思わず口にした言葉のように思えたので、聞こえなかったフリをする。
安室さんと比べて降谷さんの言葉はいつもよりも少しだけ声のトーンが低い気がするなぁ、とどうでもいいことを考えていた私だったが唐突に訪れる冷たい感覚に思わず小さく悲鳴をあげた。


「つめた!!」
「我慢して下さい。
というか貴方本当にちゃんとご飯食べてます?
背中薄すぎじゃないですか」
「ううう……胃が受け付けないのでちょっとずつ食べてますよぉ」
「いきなり沢山食べろとは言いませんから、消化に良いものを毎日少しでも食べて下さい」
「さっきも聞きましたよ……」
「一度じゃ理解しなさそうだから言ってるんですよ」


そう言いながら私の服を戻していく安室さんにやはり照れは見当たらない。
むしろ医者の様な目で私の背中を見ている節がある。
安室さんの前に正座で座り込んでいた私は、ふと私の後ろに座っている安室さんも同じように正座をしていたということに気づいて何となくおかしくなった。
そもそも安室さんが床に座り込むというイメージがあまりわかない。
せめて椅子にでも座れば良かったか、と思ったけど誰か人を招くつもりがなかった私の部屋に椅子は一つしか存在しない。
豪奢な椅子に腰かけて悠然と微笑んでいる姿が似合いそうな彼を床に座らせてしまったことがなんとなく申し訳なくなり、すみません、と軽く謝れば別に構いませんよと返ってくる。
恐らく手当のことだろうと解釈したんだと思うがとりあえず伝えられたならそれでいい。


「いやぁ、本当に何から何までありがとうございます」


そう言って頭を下げながら両手を合わせて拝み始める私に、安室さんは『またかこいつ』という目を私に向けてくる。
僕を拝んだところでご利益なんてありませんよ、と困ったように苦笑していた初期の安室さんはもういないのだ……と少しだけ寂しく思う。


「それにしても安室さんは本当に面倒見が良いですよね」
「そうですか?」


私の言葉に不思議そうに首を傾げてみせる安室さん。
なんだその仕草、あざとい……。
この29歳可愛いぞ……?
とまじまじと眺めてから更に続ける。
私から見られることに慣れ切っている安室さんは今更私から視線を感じたところで動じないのである。


「ただのよくお店くるだけの人間相手にここまでしてくれるとかそうそうないですよ。
前世は天使だったとかそういうことなんですか?」
「え」
「ん?」


相変わらず後半部分はスルーされるだろうけど、それでも言わずにはいられなかった。
いつもの調子で話す私に安室さんがどうしてだか目を丸くさせている。
そのまま暫く固まっていたけれど、やがてそっと私から視線を逸らした。
なんだなんだ。


「どうしたんですか?まさか本当に天使だったとか……?」
「違います」
「あっはい」
「……それなりに、」
「はい」
「それなりに気安い仲だと思っていたのは僕だけですか?」
「えっなにそれ可愛い」
「なまえさん」
「すいません」


本心からの言葉なのか、それとも安室透としてそういうキャラ付けを印象付けたいのかはわからなかったけれど考えるよりも先に口から飛び出してしまった私の言葉によって台無しになったことはわかる。
安室さんといい、コナン君といい、人の名前を呼ぶだけで怒りを表現できるとか器用過ぎないだろうか。
察してすぐに謝罪の言葉を口にする私も私だけど。
何も知らなければきっと素直に喜んだだろう。
しかし私の中にある異世界融合トリップ前の『安室透』としての知識がそれを阻む。
安室透は、降谷零が作り上げた顔の一つである。
その事を知っている私からすれば何を言われてもいまいち信じ切ることが出来ない。
適度な距離感で、アニメで見た顔だー、なんてゆるい感じで楽しめればそれでいい。
特にそれ以上近づくつもりなんてなかったのに。
彼が何を考えているのか私にはさっぱりわからない。
近づいて得をするような能力も情報も持ち合わせていないぞ、と心の中で呟きながら先ほどの私の言葉によって少し不貞腐れたような雰囲気の安室さんを見上げる。


「また何か別の日にお礼でもさせてください」
「お礼、ですか」


まあ、私に出来ることなんてたかが知れているけれど。
金銭面での無茶は言われないだろうし、力仕事を頼まれることもそうないだろう。
有給消費中の身であるので時間は余っている。


「何か適当に考えておいて下さい」
「ではお願いがあります」
「考えるの早くないですか!?」


別の日にご飯を奢るとかそういうことを想像していた私は、思わず突っ込んでしまった。
私の態度に安室さんはおかしそうに笑いながら私の肩に手を置いた。
スキンシップというよりも逃がさないという圧力を感じるのは気のせいだろうか。
何を言われるのかとひきつった笑顔を返しながら安室さんが口を開くのを待つ私の耳に飛び込んできたのは、思わず耳を疑うようなものだった。


「なら僕と友達になってくれませんか?」
「ともだち」
「初めて聞いた単語みたいな反応しないでくれます?」


予想外の言葉に眉間に皺を寄せる。
安室透というフレンドリーそうな人間に友達の一人や二人いないのは不自然だとでも思ったのだろうか。
丁度喫茶店の常連客でちょろそうな私が目の前で軽率なことを言いだしたものだから鴨が葱を背負って来たみたいな感覚なのかもしれない。
きっと一時的な関係になるだろう。
それでも突然予想外の、異世界融合型トリップなんてものを体験してしまった私は決めたのだ。
普段とは何も変わりはしないし一方的に見知った人間が増えるだけ。
あれこれ考えるよりもいっそのこと楽しんでしまった方がずっと楽だろう、とベッドの上でぼんやりとテレビを眺めながら考えていた。
きっとタイムリミットは黒の組織が壊滅するまで。
安室透、という人間はそれ以降いなくなり降谷零に戻るのだろう。
けれど私が友達になるのはあくまで安室透だ。
つまりそういうだろうな、と納得して私はいつも通りのゆるさで


「安室さんとお友達とか正直輝きで目が潰れそうな気がしますが、私で良ければ喜んでー」


と軽い調子で了承する。

名ばかりの『友達』だろうと思っていた私が、それ以降あれこれと私に干渉し大義名分を得たとばかりに世話を焼いてくるだなんてこの時の私は全く予想していなかった。
こうして私は喫茶店ポアロの常連客から安室透の友達へとランクアップしたのである。