運命はその手の中に



【一日目】

その日私は衝撃を受けた。
青天の霹靂。昨日読んだ本に出てきたそんな言葉が頭を過る。
気づかなければよかったような、今気づいて良かったような。
人生何が起こるかわからないなぁ、なんて現実逃避をしながらも理性の部分はしっかりと仕事をしているのか私は自分の状況を本当は理解していた。

まるで漫画か小説の様な話だが、どうやら私は

▼いわゆる、転生トリップをしたようだ
 名探偵が主役のアニメの世界にいるようだ


そして更に奇妙なことに、

▼私の体は少女程の年齢になっていた
 とあるキャラと関わりがあるようだった


【二日目】

転生トリップ。

話には聞いたことがあったけれど、まさか自分が体験する羽目になろうとは。
死んだ魚の様な目をする幼い子供の姿は周囲の目にはかなり異様にうつっただろう。
……そう、『幼い子供』だ。
ふと自分が転生トリップというものを果たしたのだと自覚した私はまず自分の年齢に膝から崩れ落ちた。
背中に背負ったランドセルをあと2,3年で卒業できるかどうかという年齢だ。
せめて幼女の段階で自覚していたのなら好き勝手振る舞うことも出来ただろうに。
できれば何も思い出すことなくこのまま今世を全うしたかった。
しつこく繰り返すが転生トリップだ。
転生だけでも荷が重いというのに、トリップまでくっついている。

「まさかの名探偵……ばーろーの世界……」

アニメで考えれば大体週に1人ずつくらい人が死んでいくやつじゃないですかーやだー。
とある探偵のお孫さんが活躍している世界よりは死に様はマシだろうけど、それでもやたらと被害者が出ているのは事実。
更に私が住んでいる場所は、日本のヨハネスブルクと名高い例の街だ。
詰んだ。
純情無垢な少女の身分なので誰かに恨みをかったり、悪いことをした覚えはないけれどこれからどうなるかは保証できない。

「うう……やだ…もうやだ……」

床に蹲ったままだったので、膝が痛くなってきた私は這いずる様にして部屋の隅へと移動する。
タンスと本棚の間にある丁度すっぽりおさまるサイズの隙間に入り込んで膝を抱えた私は如何にしてこの先を生き延びていくか、ということで頭がいっぱいだ。
しばらくそうして膝を抱えながらじめじめとした雰囲気をまき散らしていた私だったが、しんとした部屋の静寂を破るかのように開け放たれたドアにゆっくりと顔を上げる。
その人物は部屋の主がいないことに不思議そうな表情を浮かべたけれど、視線を彷徨わせた先にいた家具の隙間でコンパクトになっている私を見て驚いたように目を見開いた。
この人物こそが私が転生トリップを果たしたということに気づいた原因であり、この世界の主要人物の一人と言っても過言ではない存在。
姿を視界に入れた後、膝に顔を埋めた私に何を思ったのかその人はおもむろに近づき――そして私に声をかけた。


 「そんなところで何をしているんだ」
 「ほら、さっさと出て来い」
▼「どうしたんだ?何かあったのか?」
 「……何をしている」



【三日目】


「どうしたんだ?何かあったのか?」

そう言いながら心配そうに私の頭を躊躇いがちにそっと撫でてくれる見覚えのあるその人。
私が相手の立場だったらタンスと本棚の間に挟まってじめっとしている子供が目に入ったら見なかったことにしてそのままそっと部屋を出る。
きっと私の姿を見て驚いただろうに、声をあげることもなければ気味悪がるでもなくわざわざ私の視線に合わせるように膝をついて覗き込むその人は根っからの善人だ。

恐々と前髪の間からそっと彼の様子を窺えば、それ以上は私の反応がない限り何かを言うつもりはないのか黙って一緒にいてくれている。

彼の存在があったからこそ私はこの世界のことを思い出してしまった。
私の記憶の中にある彼の姿は、猫を思わせるような釣り目と短く切りそろえられた灰色がかった黒い髪。
そして特徴的だった髭は、今はまだない。
当たり前だ。
まだそんな年齢ではないのだから。

「……なんでもないよ」
「なんでもないのに、こんな隙間に入り込んで小さくなってたのか?」
「ちょっと人生について嘆いてたところ」
「その年でか…?なあ、辛いことがあるならいつでも聞いてやるから言えよ?」

私の適当な言葉にも真面目に返してくれるその人を、私は便宜上『お兄ちゃん』と呼ぶ。
別に一昔前のハーレムものアニメに出てくるような主人公を血の繋がりもないのにお兄ちゃんなんてあざとく呼ぶロリをリスペクトしているわけではない。
初めて出会った時、私は確かに彼の名前を彼の口から聞いた。
聞いたはずなのに私の耳に届いたのは、

『初めまして、俺の名前は■■■■だ』

というノイズがかったものだった。

何度聞き返しても結果は同じで、しまいには困った顔でからかっているのかと叱られてしまう。
どうしても聞き取れないその名前に困惑する私を見てどう思ったのか、その人はにっこりと笑いながら

『まあ、気軽にお兄ちゃんとでも呼んでくれていいぞ?』

と言ってくれたのでそれ以来ありがたく呼ばせてもらっている。
言った本人はまさか本当に呼ぶとは思っていなかったようで、数日間は呼ぶたびに戸惑った様子を見せていたものの今ではもう慣れっこで何の疑問も持たずに返事を返してくれる。
何かと私の面倒をみてくれる優しいその人の名前が、何故聞き取れないのか理解できなくて初めは耳が悪くなったのかそれとも頭かと随分悩んだものだ。

それからしばらくが経ち、母親と一緒に訪れたスーパーで一つだけなんでも好きなお菓子を買っても良いという言葉に喜びながら駄菓子コーナーへと向かう私の目に飛び込んできたのはその途中にあったお酒のコーナー。
母親はお酒を飲まないし、父親は日本酒派だ。
見たことがない洋酒の瓶が並んでいる光景が珍しくて、私は少し大人になったような気分でそれらを眺めながら歩いていた。
そして、ふとあるお酒に目が留まったのだ。

――Scotch

まだ英語も習っていないはずなのに、私はどうしてだかその文字が読めた。
読めてしまった。
スコッチ……そうだ、スコッチだ!
その時私はようやく優しい『お兄ちゃん』の正体が誰なのか理解して、それと同時にこの世界がどこの世界なのかを思い出したのだ。
死亡フラグが至る所にあるようなところにいられるかー!
と、セリフ自体が死亡フラグの塊であるような言葉を叫びながら慌てて家へと帰った私を心配した母がお兄ちゃんを差し向けたのだろう。
ここ最近では両親の言う事よりもお兄ちゃんの言うことの方がよく聞くということを知っているので、その行動は早かった。

強引に聞くでもなく、ただ静かに一緒にいてくれる『お兄ちゃん』
こんな呼び方をしているが彼は、


 私とは血の繋がりがない。
 少し前に引っ越してきたお隣さんだ。
▼私の従兄にあたる間柄だ。


【四日目】


そう、おじさんとおばさんの子にあたる彼は私にとって従兄にあたる存在だ。
あまり頻繁に会うことは今までなかったものの、何かの時に顔を合わせる度に自分よりも年下である私の面倒を率先してみてくれる優しいお兄ちゃんである。
それなりに成長しているし、スコッチとしても面影はある。
しかしながら彼は今まだ高校生だ。
私が知っている原作軸よりもずっとずっと前。
ああ、けれど。
私の脳裏を過るのはいつかの前世本で見たお兄ちゃんの最期。
彼はいつか死ぬ運命にあるのだ。

思い出して来たら泣けてきた私は、ようやっと顔を上げたかと思えば自分を見て更に泣き始める姿を見てぎょっとしている。

「本当にどうしたんだ?」

今までも彼の前で泣くことは何度かあった。
けれどそのどれもが泣き叫びながら彼に突進して、支離滅裂ながらもその理由をしゃくりあげながら言うというものばかり。
だからこんな風に答えはするものの、声もなくただ涙を流すだけというのは初めての事だった。
私の様子にさっと真剣な表情になった彼は私を隙間から引っ張り出して危うげなく抱き上げる。
それでも黙ってじっと彼の顔を見つめる私の背中をそっと撫でてくれた。
優しい人だ。
本当に、優しい人なのだ。
できれば生きていてほしいし、死ぬというならば大好きな誰かと共に幸せに生きて家族に囲まれ80年後くらいに看取られて欲しい。

はらはらと涙を流しながら緩慢な動きでお兄ちゃんの首に抱き着いた私に、彼は何故か一瞬だけ固まったがすぐに囁くような優しい声で話を促してきた。

「あのね」
「ああ」
「夢を見たの」
「……夢?」

何を言われるのかと身構えていた彼が私の言葉に不思議そうな声を返す。
私は抱き着いていて表情こそは見えないものの、きっと目を丸くさせているだろう。
彼の首にすり寄るように頬を寄せれば少しくすぐったそうに身じろぎされる。

「すごく怖い、夢を見たの」
「どんな夢か教えてくれないか?」
「……私が言っちゃったら、お兄ちゃんまで怖くなっちゃう」

嘘だ。
今ここで私が彼の未来を口にして、私が知っている未来からずれてしまうことが怖いのだ。
もし私が今その事を彼に言って未来が変わり別の方法で助けることができる可能性が潰えてしまったのなら。
私を包み込むように抱き上げてくれている温かい彼が冷たくなってしまったら。
顔を青くさせながらそれ以上の言葉を口にすることが出来ない私を見てお兄ちゃんはそっと私を支えていない方の手で私の頬に触れた。

「なるほどな、怖い夢を見たのか」
「……うん」
「だったらなおさら、俺に教えてくれないと」
「え」

言われた言葉に驚いて思わず顔を上げた私に、酷い顔だなんて笑いながらハンカチでそっと私の顔を拭いてくれる。
されるがままの私が続きを催促するように彼の袖を掴めば

「怖い夢でも二人で分けたら半分になるだろ?
それに、お前の夢に誰が出てきたとしても……俺が守ってやるからな!」

そう言って笑いながら私の額に自分の額をくっつけた。
まるで幼い子供の熱を測る母親のようだ、なんて関係のないことをつい考えてしまう。
さあ言ってみろ、と目で促すお兄ちゃんに私は――


▼言う
 言わない


【五日目】


「……あのね、聞いてくれる?」


私はお兄ちゃんに伝えることにした。
まだ怖さは払拭できていない。
それでも、口が触れ合いそうなほどの距離で私の考えを見透かすかのようにじっと見つめてくるお兄ちゃんに嘘がつけるとも思えなかったのだ。
だから恐々とそう言った時、お兄ちゃんは嬉しそうに破顔して

「ああ、お前の話なら何でも」

なんて言うものだからじわじわと顔に熱が集まってきてしまう。
くそう、さすが未来の潜入捜査官。
なんとなくハニートラップと聞くと将来彼の相棒になるであろう男性が思い浮かんでしまうけど、この人もかなり侮れない。
そもそも泣いている子供をあやすためだとはいえ、そんなまるで蜂蜜のような甘ったるい笑顔を向けなくて良くないか……?
お兄ちゃんの表情に一瞬怯んだものの、私はあくまでも夢の話として彼の未来の話を口にしたのだ。


「……なるほどなぁ、俺が死ぬ夢」

お兄ちゃんが警察官になって悪い組織に潜入捜査をする辺りまではどこか面白そうに聞いていたけれど、自分がNOCであることがばれてしまった辺りから難しい表情になった。
それはそうだろう。
その『悪い夢』はあまりにも具体的すぎたし、大まかな年数も言ってみせた。
子供の戯言だと一笑しなかったのは安心したけれど、むしろそこまで真剣になって考えてくれるお兄ちゃんに驚く。

「……あの、お兄ちゃん?」
「ん?どうした?まだ何かあるのか?」

考え込む彼の意識を自分に向けるために声をかければ、すぐに柔らかい表情になって私に向けてくる。
なんだその表情の差は。
呆気にとられる私に話の続きを促すように優しく背中を叩かれて言おうとしていたことを思い出す。

「私のただの悪い夢だよ?
なんでそこまで真剣になって考えてくれるの?」

正直、話を聞いてくれるだけでも収穫だろうと思っていた。
頭の良い彼のことだ。
いつまでこうして構ってくれるかはわからないけれど、将来何かの時にふとこんな話をしていた子供がいたなって思い出してくれたらそれでいい。
今はまだ受け流すように
『それは怖かったな、きっともう怖い夢は見ないさ』
なんて言われそれでおしまい。
そうなるだろうと思っていたのに、だ。
私の疑問にお兄ちゃんは不思議そうに首を傾げてみせると、まるで当たり前のことを言うかのように話しはじめる。

「だってお前が飛びついてこなかったから」
「……ん?」
「今までもお前は怖い夢を見た時、すぐ俺のところにとんできただろ?
それなのに今回に限ってあんな風に思いつめてた」

そりゃそうだろう。
今までの怖い夢なんて、夢の中におばけが出たとか嫌いな食べ物を延々食べさせられる夢を見たとかその程度のものだった。
今回のこれとは話が違う。

「自分のことでもないのにあれだけ泣いてた可愛い従妹の言うことだ、信じるよ」
「え」

お兄ちゃんの言葉に固まったのは私の方だった。
何故今ここで私が見た『悪い夢』の話が、信じる信じないという話になったんだろう。
ぽかんとしながら彼を見上げる私は相当間抜けな顔をしていたようだ。
少しおかしそうに肩を震わせながらお兄ちゃんは更にこう続ける。

「俺にもよくわからないんだけどなぁ……。
でもなんとなく、お前が見たその悪い夢。
本当に起きるんじゃないかって思うんだ」

その言葉に私は喉が引きつったような感覚に陥った。
わかりやすく顔に出ているらしく、お兄ちゃんが宥めるように私の頬に触れる。
私はその手に縋るように自分の手を上から重ねて、お兄ちゃんを見上げた。
これは、チャンスかもしれない。
これから先もしかしたら言う機会は訪れないかもしれない、最後のチャンスだ。
あの時彼を信じて言うことに決めた自分の判断は正しかったのだ。
彼がこの先も覚えてくれているように。
昔自分に懐いていた年の離れた従妹がいたことを忘れてしまったとしても、せめてこれだけは覚えていくれているように。
そう願いながら私はお兄ちゃんの目をまっすぐに見た。

「お兄ちゃん、約束して」

今までにないくらい真剣な眼差しは、きっと私の今の年齢らしからぬものだろう。
お兄ちゃんも同じことを思ったのか戸惑ったような雰囲気をみせたけれど、それでもしっかりと聞いてくれる。

「もし危ない場面になっても、絶対死なないで。
自分から死ぬことを選ばないで」
「……お前、」
「絶対に大丈夫だから。
だから、約束して」

ほら、指切り!
うっすらと顔を出した前世の私の顔を引っ込めて、子供らしく小指を突き付ける私にお兄ちゃんは何か言いたげにしていたけれど結局何も言わずに自分の小指を絡めてくれた。
指の中では一番小さくて細いのに、それでもお兄ちゃんの指は私のものよりずっとずっと大きかった。
私の指は彼のものに近づくまで、近づいてもずっとずっと生きていけますように。

「ゆーびきった!」

勢いよく絡めた指を解く私はどこかやり切ったような気持だった。
今日の約束を覚えていてくれますように。
いや、きっと彼は覚えてくれているだろう。
彼は、お兄ちゃんは私との約束を破るような人ではない。
さてそろそろおろしてもらおうと身じろぐ私を遮るように抱き上げられている腕に力が入った。
不思議に思って彼を再び見れば、にっこりとした笑顔を私に向けている。

「え、お……お兄ちゃん…?」
「お前だけ指切りするのはずるいと思うんだよなぁ」

だから俺からも約束。
そう言って再び絡めとられた指を、彼に委ねながら何を言われるのかと窺っているとどこか楽し気な様子で私がしたように小さく手を揺らした。

「そうだなあ、俺からは……。
大きくなったら結婚でもしてもらおうかな?」
「……誰と?」
「俺と」
「……誰が?」
「お前が」
「えっ」
「はいはーい、ゆびきったー」

待って、と言う前に放された指に目を白黒させる私を見下ろすお兄ちゃんは、
『未来の約束があった方が死ぬ気が起きなくなるだろ?』
なんて冗談めかして言うのでそういうものかととりあえず納得した。

ただ、一つ言わせてもらうならば


▼この時の彼の目は本気だった。
 まるで本物の『兄』のようだった。



【六日目】

さて、あの約束から十年近い月日が流れた。
あれ以来今まで以上に私に構うようになったお兄ちゃんは、原作の流れ通り警察学校に合格し友達も出来たらしい。
もののついでとばかりにあの時彼らの最期も話してしまったことをしっかりと覚えていたらしいお兄ちゃんは、あれこれと画策しているようだった。
流石に原作を多少知っているというだけの子供が現役の警察官を守るため八面六臂の大活躍をするなんて、そんなどこぞの名探偵じゃあるまいし。
そう頭が良いわけでもなければ武術ができるわけでもない女に無茶を言ってはいけない。

あの時まだ子供だった私はようやっと成人して、その頃にはお兄ちゃんの潜入捜査がはじまっていたのか連絡が途絶えていた。
そもそも、遅くてもお兄ちゃんが警察学校に行くまでには交流は途絶えると思っていたのに予想以上に長く続いたことが驚きである。
時間を見つけては顔を出し、私とスキンシップをしたり遊びに連れていってくれたりと中々に良いお兄ちゃんぶりを発揮していたのだが何となく距離が近い気がするのは気のせいだろうか。

成人した私は、日に日に近づいてくる運命の日に再び怯える毎日を過ごした。
両親たちはそんな私を見て呑気に『■■くんに会えないからって大げさな子ねぇ』なんて笑っているし、相変わらずお兄ちゃんの名前は覚えられないし。
唯一誕生日になる度に届くお兄ちゃんからのメールが生存確認できる要素ではあるものの、私の誕生日を祝う言葉と私の状況を推測したのであろうアドバイスであったり励ましの言葉であったりが続き、その最後には必ず『約束は必ず』と締めくくられている。
それがどちらの約束のことなのかはわからないけれど、今もきちんと覚えているということは理解できた。

せめて私が偶然廃ビルに駆け込んでいく褐色肌のイケメンでも目撃出来たらなぁ、なんて考えながらここ最近痛む胃を擦りながらのろのろと家に帰り自室へと向かう。
大学に進学して卒業論文と戦っている私は、他の大学生のように一人暮らしをしようとはしない。
それと言うのも、一人暮らしをしているよりも実家にいるほうが万が一お兄ちゃんに何かがあった時情報が入ってきやすいと思ったのだ。
警察官で、それも公安ともあれば例え死んだとしても情報は入ってこないかもしれない。
それでも一人別の場所で暮らしているよりはマシだろうと判断しての事だった。

「ただいまー」

今日は両親は二人そろって出かけているらしい。
明日くらいに帰ってくるから!なんて呑気に笑いながら今朝手を振って意気揚々と家を出た姿を思い出しながら私は自分の部屋を開けた。
そうして部屋へと足を踏み入れようとした私は、ふと強い力に引き上げられたような感覚にぎょっとして声をあげる。

「うぇ!?」

地面から足が離れて、視界の端でぶらりと揺れている。
けれどそれ以上に私の視界を占めているのはもう随分と見ていなかった灰色がかった黒髪。
暫く見なかったせいか無茶をしたからなのかはわからないけれど、記憶よりも乱れているそれを見て私はまさかと目を見開いた。
骨が軋まんばかりに、力強く抱きしめられる。
抱き上げながら抱きしめるとかなんて器用なことをするんだろう。
昔は自分の腕に座らせるように抱き上げられていたのに、大きくなったからか横向きに抱き上げられている。
俗に言うお姫様抱っこというやつだ。
その事に多少の気恥ずかしさは感じるものの、それよりも今は大事なことがある。

「お兄ちゃん……?」

ずっと一緒にいた私が見間違えるわけがない。
それでも、会えなかった分の不安ともしかしたら私の都合の良い妄想かもしれないという不安。
そう、それこそ私の『悪い夢』の一部であったり。
そんな思いが声に滲んでいたのか、殊更腕に力を込めてからお兄ちゃんはゆっくりを顔を上げた。

「ただいま」

そう言って笑う彼の姿は、どこからどう見ても前世で読んだあの漫画の彼だったけれど。
漫画では見ることが出来なかった優し気なその笑い方はずっと私の記憶の中にあったお兄ちゃんと何一つ変わらなくて。
気がつけば私の頬を涙が伝っていた。

「相変わらず泣き虫だな」
「これは、仕方ない」

誤魔化すように彼に抱き着いて、力の限り縋りつけば嬉しそうに笑う声が聞こえる。
そっと背中を撫でてくれる手は昔よりも骨ばっているけれど、その温かさはずっと私が求めていたものだ。

「ちゃんと約束守ったぞ」
「うん」
「お前が夢で見た通りだった。
……最後まであいつを、……お前を、信じて良かった」
「うん」

彼の未来の話を悪い夢を見たという形で話してから、本当はずっと不安で仕方がなかった。
本当にあれで良かったの?
私が話したせいでもっととんでもないことになったりしない?
もっともっと最悪な事態を導くことだって、あるんじゃないの?
相変わらずタンスと本棚の隙間に入って膝を抱えても、あの時そこからすくい上げてくれたお兄ちゃんは側にはいない。
メールだって誕生日にならなければこない。
今、本当に生きてるの?

彼がちゃんと生きて自分の目の前にいるということを実感したくて、昔のように首筋にすり寄ればあの時のようにお兄ちゃんが固まった。
そして、深いため息をついたかと思えば私の顔を自分の方へと向けるべくそっと頬に手を添えられる。

「あのな、俺は約束を守ったぞ」
「うん、生きて帰ってきてくれて本当に良かった」
「それで、だ」
「うん?」
「お前も約束を守るべきだと、そうは思わないか?」
「え」

約束。
……約束?
首を傾げて数秒。
ふと思い至ったお兄ちゃんとの『約束』に、今度は私の方が固まってしまった。
ちょっと待った。
だってあの約束は私がまだ小さかったころの話で。
泣く子供をあやすためのおままごとの様なものだろう、と大きくなった私は思っていた。
だからまさか冗談めかすわけでもなく、あの頃と同じような真剣な目で私にそう持ち掛けてくるお兄ちゃんに今更ながら本気だったのだと悟る。

「今更『やっぱり止めた』はナシだからな?
あの約束があったから、意地でも生きて帰ってきたようなもんだ」
「え、あの、本気で……?」

彼の腕の中で、恐る恐る見上げる。
あの時の同じような体勢なのに、その状況はまるで違う。
私の戸惑いを含んだ言葉にお兄ちゃんはそう言われるのを予想していたのか、にっこりとした笑顔を浮かべながら私の手をそっと取る。
ふと、冷たい感触に驚いてそちらを見ればシンプルな銀色の指輪が。
薬指に。

「約束通り、俺と結婚してくれるな?」

それは伺いを立てるようなものではなく、頷く以外の選択肢を与えないものだった。
まったく逃げ場がないようなそんな状況であるにも関わらず、それが嬉しいと思ってしまう私はきっと自覚していなかっただけで随分と昔から理解していたのだ。
私は善人ではない。
だから多少関わりがある、というだけの人間を助ける為にあれほど悩んだりはしなかっただろうし誕生日が来るたびに彼が生存確認代わりに送ってくるメールを心待ちにしたりはしなかった。
じっと答えを待つ彼に、私はあの時と同じように小指を差し出してみせる。

「ずっと一緒に生きてくれるって、約束してくれるなら」

そう言って笑う私にお兄ちゃんは幸せそうに微笑んで、勿論、と指を絡めてくれた。
あの時随分大きな手だと思ったその手に私は少しでも近づくことができただろうか?

これで私が見えない何かに導かれながら幸せをつかみ取るまでの長い話は終わりだ。

蛇足ではあるけれど、

▼それはこの約束のすぐ後のこと……
 それから数年後の話になるが



【七日目(蛇足)】

そのまま勢いで役所に向かいかねない様子の彼に生前記憶の中にあったスピード婚という単語が頭を過った。
流石にスピードが速すぎやしないか。
付き合いだけで考えればそれなりに長いけれど、恋人という関係をすっ飛ばしてプロポーズされてしかもそのまま受けたとか私の新しい人生飛ばしすぎでは。
どうしたものか、とお兄ちゃんの腕の中でぼんやりと考えていた私の思考を遮ったのは聞き覚えのある……いや、今世では初めて聞く声だった。

「お前な……ようやく外に出歩けるようになったと思ったら何をしているんだ」

その言葉にお兄ちゃん事振り向けば、やはり想像した通りの姿がそこにいた。
目を丸くさせながらじっと見つめる私をどう思ったのか、その人は私に愛想よく微笑みながら丁寧に言葉を続けた。

「ああ、突然お邪魔してしまってすみません。
そこの馬鹿を回収しに来ました」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。
それからあんまり見るんじゃない、減る」
「お前以外に誰がいると」

私があまりにもその人を凝視していたからか、お兄ちゃんが面白くなさそうな顔で私の顔を自分の胸に押し付けた。
私に向けた言葉の柔らかさと彼に向けた言葉の辛辣さよ……。
初対面である私相手では降谷零としてではなく、安室透として接するつもりらしいその人は再度お兄ちゃん越しに私へと声をかける。

「詳しいことはあまり言えませんが……。
その男は今のところまだ『死人』として扱われていますので、籍を入れるというのならあと数年は待って頂きたいんです」
「ですよね!良かった!!」
「……それは俺とは結婚したくない、と?」

わけもわからず勢いで結婚とかないわー!
と続けようとした私をお兄ちゃんが遮った。
心なしか抱き上げられている手に力が込められて、少し冷や汗をかく。
あれれ〜?お兄ちゃんの余裕がないぞ〜?
きっと今口にしたところで理解してもらえないだろう物まねを内心で披露しながら、私は僅かに悩んで見せてから彼に聞こえる程度の小さな声で呟いた。

「いや、それはさぁ……。
私だってしたいけど、恋人気分も味わいたいし……」

職業柄ハニトラ慣れしているだろうし、この程度じゃあ絆されないだろう。
そう思いながら口にした言葉だったけれど彼の機嫌を直すには十分だったようだ。
私の言葉を聞いたお兄ちゃんは『確かにな』と納得したような表情で一つ頷いた。
私の言葉が聞こえていたらしい安室さんは、私たちのやり取りに『お前それはちょっとちょろすぎるだろう……』という表情を浮かべていたけれどふと目が合った瞬間に頑張りましたよ!?といった視線を送れば私にだけわかるように同情の眼差しを向けられる。

というか、今の言葉を聞いてようやく今が原作のどの辺りなのかわかったんだけど。

確か記憶にあったスコッチが自害したのが原作の四年前くらいで、原作がはじまって多分名探偵が留年しないうちに組織を壊滅するだろうから……海産物家族方式でループするかもしれないという可能性はこの際横に置いておくことにして。
そうなると心の準備もある程度出来たころに結婚という形になるから丁度いいだろう。
この際お兄ちゃんの年齢は考えないことにする。

きっと本当なら変装して顔を変えるなり、外に出ずに組織が壊滅するまでは潜伏していなければいけなかったのでは。
と、今更ながらにお兄ちゃんを見上げれば輝かんばかりの笑顔を返された。
何してんだこの人。

「そもそも、何脱走してるんだお前……」
「いやぁ……とりあえず早めに言っとかないと、手遅れになったら困るだろ?」

疲れた様な表情の安室さんに、ついお疲れ様ですと口にすれば『貴方も』と返事がきた。
安室さんとお兄ちゃんって確か幼馴染だったような気がするんだけど、もしかしてこのノリでずっと付き合いがあったんです……?
私から見た彼はずっと優しいお兄ちゃんという印象のままなので、よくわからないけど。

「さて約束を果たしたことだし、もう少し仕事してくるな」

ようやく彼の腕から解放され床に足をつけることを許された私は、昔のように大きな手で頭を撫でられた。
前よりは連絡はとれると思うがあまり頻繁に会えないということを申し訳なさそうに告げられたが、予想通りというかそもそも生きてまた会いに来てくれただけで嬉しい。
素直にそう言えば、お兄ちゃんが真顔で私を見下ろして

「……なあ、潜伏するならこいつも一緒に」
「駄目だって自分でもわかってるだろ?」
「だよなぁ……」

俺の嫁が可愛すぎて辛い、なんて言いながらぎゅうぎゅうに抱きしめてくるお兄ちゃんは潜入捜査中何かつらいことでもあったのだろうか。
私の知っている彼よりも何かが吹っ飛んでいる気がしてならない。

「まだ待っててくれるか?」
「当たり前だよ、だからちゃんと帰ってきてね?」

私がタンスと本棚の間に無理やり入ってじめじめする前にお願いします。
そう付け加えれば彼はふっと笑って殊更優し気な表情を作り。

「よし、早めに潰そう」
「深くは聞かないけど不穏な予感」

その表情に似つかわしくない言葉を吐き出した。
私がしたことでもしかしたら、黒の組織の壊滅が早まる……かもしれない。

数年後壊滅と同時に記入済みの婚姻届けを差し出され、再び『早くない!?』という感想を抱くのはまた別の話だ。