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朝起きたらベッドで寝ていた。
いつも通りのなんら変わりのない朝だけど、私の記憶が正しければ安室さんに膝枕をした状態のまま寝落ちした覚えがある。
まさかの夢落ちだろうか、と一瞬疑いはしたもののそれはすぐに否定されることとなる。
そう、私の体に起きた名残のせいで。
……こう言うと何か色めいたものを感じるが、実際のところは朝になっても抜けない足のしびれである。
私の足が安室さんの重みに耐えきれず今の時間まで痺れているのか、それとも私が目覚めるほんの少し前まで安室さんが私の膝で寝ていたのかはわからない。
とりあえずソファで寝ていたはずなのにいつの間にかベッドに運ばれているという事実からは目を逸らすことにしよう。
寝ぼけた目をこすりながらテーブルを見れば、ご丁寧に朝食が用意されていて思わず二度見する。
おもむろに近づけば『昨日は突然押しかけてすみませんでした。朝食はきちんと食べること』という内容の書置きと共にトーストと小さめのオムレツ、サラダがプレートに乗って準備されていた。
材料もそうだがこの見覚えのないプレートはいったいどうしたんだろう。
買いに行くにしてもまだ時刻は朝でお店なんて開いてないだろうに。
いや、深くは考えまい。
あの人はヘアピンや針金なんかで容易に部屋の鍵を開錠出来てしまう人だ。
元々そう鋭い方ではない私の目を盗んで何かをする、なんて簡単なこと。
もしかしたら盗聴器とかを設置されている可能性があるかもしれないけれど家で何をしているか思い出してもそうたいしたことはしていないので『まあいいか』と流すことに決めた。
とりあえず用意された朝食は美味しかったです。
残りは晩御飯にしようと思います。


今日も今日とて散歩がてら喫茶店ポアロへと向かえば、見覚えのある少年とこの喫茶店に来るにしては少し珍しい少女の姿があった。
昨日映画版が終わり、映画版の知識はなかったものの安室さんがなんだかとても大変だったということは理解していたので今日安室さんの姿がないだろうということは予想していた。
今日はカウンター席ではなくテーブル席の端の方で、同じ年頃の少女……昨日も見かけたがあれはおそらく哀ちゃんだろう。
紙面やテレビから抜け出して実際に目の前に現れるとイマイチ自信がなくなるが、声で判断する限り彼女であっていると思う。
その二人が何か難し気な表情を浮かべながらあれこれと会話をしていた。
もしかしたら昨日映画版で何か大きな事件があって、それにコナン君は勿論のこと哀ちゃんや安室さんが関わっていたのだろう。
いつもならば喫茶店のドアを開けた瞬間に目敏く私の存在に気づくコナン君が今日は珍しく気付く様子がない。
梓さんの『いらっしゃいませ』という声と共に案内されるまでもなくいつものカウンター席の端っこにお冷の準備をされたので慣れた足取りでそこに座る。


「今日も安室さん、お休みなんですよ」
「私別に何も聞いてませんし多分そうだろうなとは思ってましたし」
「へえー?」


二言目に飛び出してきたその言葉に思わずそう突っ込めば、何故かにやにやとした笑顔を浮かべている梓さん。
これは深く追及すると面倒くさいやつだと察知した私は久しぶりにメニューを開き、梓さんを見上げて注文を口にする。


「アイスコーヒーで」
「あら、珍しい。今日は紅茶じゃないんですね」
「前に気分転換に安室さんがいる時コーヒーを注文しようとしたことがありまして」
「え?ええ」
「そしたら笑顔で『胃に悪いのでまた今度』って」


何とも言えない表情で、もごもごとそう告げる私に梓さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべたもののすぐにおかしそうに肩を震わせ始める。
私もね、どうかと思うんですけどね。
普通喫茶店の店員が客の注文を却下するものかな?って食い下がろうとしたんだけど、先読みしたらしい安室さんが『友達の体調を案じるのは普通の事でしょう?』とこれ見よがしに言うものだから従わざるを得なかったのだ。
あの人友達だから、って言えば大体許してもらえるとでも思っているのだろうか。
いやでも多少原作を知っている身としては、便宜上とはいえ今彼の友達と言っていいのは私だけなのではとか考えちゃうとつい許してしまう。
勿論彼は私がそんな事情を察していることは知らないだろうから、推しに弱いやつだくらいに思って良そうな気がする。
梓さんは私が再度声をかけるまで声もなく笑っていたが、去り際に


「じゃあ今日のことは安室さんには内緒ですよ?
ちゃんとミルクとシロップもつけておきますね」


と微笑んでカウンター内へと消えていった。
最近安室さんの私に対する過保護さがデフォルトになりつつあるような気がしてならない。
まあきっと安室透という人間がそもそも世話好きだろうから仕方がない、とお冷を口にしながら何気なくテーブル席へと目を向ければコナン君たちは依然難しそうな表情でひそひそと何かを話し合っている。
よくわからないけどその話って阿笠邸では出来ない話なんだろうか。
それとも安室さんを訪ねて来たのか……、いや哀ちゃんがいるからむしろ逆かな。
あまり表情の冴えない二人の子供らしからぬ雰囲気に、あまり外でそういう表情しちゃうのはよろしくないんじゃないかなぁ中の人の事情的に。
と、いらないことを考えつつふと二人の飲み物が空になっていることに気づく。


「お待たせしました、アイスコーヒー……とミルクとシロップです」
「梓さんそれ最後に付け加えた情報いったかな?」
「私はあくまでもなまえさんの健康に考慮しました、っていうことをアピールしなくちゃいけないかなって」
「アピールが必要な人は今日お休みなのに?」
「でも気づいたら情報を掴んでそうな気がしません?」
「……わーい、私ミルクとシロップたっぷりのアイスコーヒーも好きー。
でも一番は安室さんが淹れてくれる紅茶かなー今日は飲めなくて残念だなー」
「見事な棒読みですね」


添えられたミルクピッチャーから多めにミルクを入れ、シロップも心持多めにアイスコーヒーに投入する。
ストローでかき混ぜ、そうして出来上がったものをアイスコーヒーと呼んでいいものか。
ここのマスターがコーヒーはブラックで飲んでこそ、というこだわりを持った人だったらどうしようかと店の奥にいるであろうマスターを覗き込めば口パクで『胃は大事に』と告げられ笑顔で頷かれた。
いいらしい。
それなら、まあいいかとアイスコーヒーに口をつけながら私はふと思い立って立ち去ろうとする梓さんを引き留める。


「あの、梓さん。ちょっとお願いが」






「お待たせしましたー!
アイスコーヒーのお代わりと、レモンパイです」
「え?」
「梓さん、僕たち頼んでないよ?」
「うふふ……あちらのお客様からです」


そう言いながら視線を向けられた私は、昨日と同じように軽い笑顔を浮かべてひらりと手を振ってみせた。
コナン君は驚いた様子で『なまえさん!』と口にしていたことから本当に私が来ていることに気づいていなかったようだ。
今の時間帯お客さんもそう多い方ではないし、いいかとカウンター席に座ったまま二人に向けて言葉を投げかけた。


「よくわからないけど何か二人して難しそうな顔してるからさ、甘いものでも食べて癒されたらいいと思うよー」


メニューを眺めていた時にふと見つけた珍しいメニューが頭の端に引っかかっていたことも手伝って、ついお節介をやいてしまう。
レモンパイなんて普通の喫茶店じゃまず見当たらないし、記憶が正しければコナン君の……というよりも工藤新一君の好物がこれだったような気がする。
普通のショートケーキやチーズケーキなんかもメニューにあったのに、何故わざわざこれを選んだのかと追及される可能性も頭を過りはしたもののもし何か言われたら『珍しかったからつい選んじゃった』とでも答えよう。
私の言葉に二人は驚いたように一瞬目を見開き、そして即座にコナン君が持ち前の上等な猫を被り私の近くまで駆け寄ってきた。
うわ、嫌な予感。


「ありがとうなまえさん!
ねえねえ、僕なまえさんと一緒がいいなぁ」


上目づかいで私の服の袖を控えめに引く、という芸の細かさを披露したコナン君。
彼はいつか世の人間が全員純粋な目で子供を見ているわけではないということを理解すべきだとほんの少しだけ心配になったものの、博士から貰った数々の道具があればどうにかなるだろうと思いとりあえずは今この瞬間を切り抜けるべきと現実逃避しかかった頭を無理やりコナン君へと軌道修正させる。


「うーん、気持ちは嬉しいんだけどコナン君今日お友達と一緒でしょ?
突然そういうことするの駄目だと思うな」
「あら、私は構わないわよ?」
「えっ」


思わぬところから援護射撃がきて私は思わず声の主を勢いよく見た。
そこには相変わらずのクールな表情で、けれどほんのりと笑みを浮かべた哀ちゃんが『ありがたく頂くわね』と一言私に断ってからアイスコーヒーに口をつけている。
安定のミルクなしシロップなしのブラック仕様です。
おそらくコナン君もそうだろうから、一番年上である私がミルクとシロップ入りであるという何となく恥ずかしい状況が出来上がってしまう。なんということだ。
昨日も思ったことだが、私の中で哀ちゃんはあまり人付き合いが好きではない印象があったのだが私の思い込みだったのだろうか。
それともアニメや原作の話が進んでいて少し性格が丸くなったのか。
哀ちゃんの言葉にこれ幸いとコナン君が私の腕を引くし、梓さんがご丁寧に飲みかけだったアイスコーヒーを二人のテーブル席まで運んでくれるしで私に逃げ場などなかった。


「……えーと、もしかして何か話でもあったの?」
「なんでそう思ったのかしら?」
「ええ……?いやぁ、だってなんか邪魔しちゃいけない雰囲気だったのに呼ばれたから」
「いつもはなまえさんの隣に座ってるから近くにいないと何となく落ち着かなくて!」


そう言いながらもコナン君はにこにことした笑顔を浮かべていて。
浮かべたまま、アイスコーヒーを両手で持ちながら小さく首を傾げてみせた。


「そういえば、なんでアイスコーヒーだったの?
この前も似たようなこと聞かれたけど僕別に飲めるだなんて言ってないのに不思議だなって」
「なんでと言われても……」


レモンパイの方を突っ込まれるかと思っていたけれど、アイスコーヒーの方を突っ込まれたか。
言われてみれば笑って誤魔化された覚えはあるもののハッキリと『飲める』と明言された覚えはなかったな、と今更ながらに思い出す。
しかしながらよくそんな細かいやり取りまで憶えているものだ。
こういった記憶力が日頃のあの推理力に一役買っているのだろうと思うと何となく感心してしまう。
今の会話を聞いてなおコナン君の隣で優雅にアイスコーヒーを飲んでいる哀ちゃんに突っ込みたい気持ちはなくもないが、あまりのナチュラルさに私は大人しく視線をコナン君へと戻した。
というかそもそも飲み物については、


「梓さんに『さっき二人が飲んでた飲み物と同じもののお代わりと、このちょっと珍しいレモンパイも一緒に運んであげて』って頼んだだけだったからなぁ……」
「へ?」
「そしたら二人のところにアイスコーヒーが運ばれていくものだから驚いたよ。
本当に飲めちゃうんだねえ……私よりもずっと大人だ」


なんて自分の飲みかけだったアイスコーヒーを軽く揺らしてみせればコナン君はすぐに黙ってしまい、笑って誤魔化しにかかった。
もののついでとばかりに次に突っ込まれそうなレモンパイについても付け加えて言えば、コナン君は可愛らしい声で『わあ!レモンパイだー!僕レモンパイ大好きー!なまえさんありがとう!』なんて言い出したので私は素直にどうしたしまして、と彼の言葉に乗ることにする。
哀ちゃんがそんなコナン君を見て少し呆れた表情を浮かべているのが何だか少しおかしくて、つい見過ぎていたのか当の本人と目が合ってしまった。


「君と会うのは二回目かな?
私はみょうじなまえ、ちょくちょくこの喫茶店に来て安室さんの美貌に手を合わせてる人だよ」
「なまえさんその自己紹介はどうかと思うよ」
「ご丁寧にどうも。灰原哀よ」


コナン君曰くのどうかと思う私の自己紹介を華麗にスルーしてみせた哀ちゃんは、私の記憶にある通りのクールさでもって自己紹介を返してくれた。
これでうっかり名前を呼んで訝しがられることはないだろう。
彼女の自己紹介に『哀ちゃんだね』と言った私が一瞬何か言いたげな視線を向けられ慌てて『灰原さん』と言い直せばため息をつきながら名前で呼んでもいいとの言葉を頂きました。
察しの悪い大人で申し訳ない。
しかし二人とも見た目に反して食事の仕方が綺麗だ。
子供のフリをするといってもさすがにこういう細かいところまでどうこうするのはしんどいよなぁ、と勝手に観察しながらアイスコーヒーを飲む私にコナン君がふと思い出したかのように私を見上げる。


「そういえばなまえさん、あれから安室さんと会った?」
「ん?会ったよ?」
「そっか、会わなか……は?」
「会ったよ」


相手がコナン君だし安室さんの事情は知ってるだろうし別に隠すことでもないし良いかな、と判断してあっさりと返事を返せばどういうわけか固まってしまった。
何かおかしなことを言っただろうか。
不思議に思いながら首を傾げれば、言葉が出てこないらしいコナン君の言葉を哀ちゃんが継いだ。


「……ちなみにそれは何時くらいのこと?」
「何時だったかなぁ……結構夜中だったような気がするんだけど」
「……えっと……何か約束でもしてたの……?」
「ううん、夜中に玄関から物音がしたから見に行ったらいた」
「えっ」
「彼に合鍵でも渡してたの?」
「渡した覚えはないなぁ、ピッキングとかじゃないかな?」


得意そうじゃない?そういうの。

そう言いながら、やっぱりミルクもシロップも入れないんだなぁとコナン君のアイスコーヒーを眺めながら上手く混ざり切らなかったらしい自分のアイスコーヒーをストローでぐるぐる混ぜれば二人が頭が痛そうにしていることに気づく。


「あれ?どうしたの?」
「……なまえさんはさぁ……もうちょっと防犯意識とか危機感とか持った方が良いと思うよ」
「ああ、安室さんも同じこと言ってたなぁ。今度うちの部屋の鍵を安室さん直々に強化しに来るそうだよ」
「……一応聞くけど、貴方あの人と付き合ってるの?」
「友達になろうとは言われたけど」
「どこにそんな過干渉な友達がいるんだよ……」
「まあ安室さんだし悪いようにはしないだろうからいいかな、って」
「私には貴方がいいようにされているようにしか思えないんだけど」
「否定はしない」


きっとコナン君は安室さんが無事に帰れたかどうか気になって一応私にも話をふってみただけなんだろうに。
二人の何とも言えぬ顔を見てあまりにも安室さんが堂々としていたせいかうっかりこれが普通なのかもしれないなんて思いかけていた私が少しずつずれてきていることに気づいた。
ああ、やっぱり普通に考えたらおかしいよねえ。
でも『安室透』を知っているせいかそこまで危機感は感じないし、若くて可愛い梓さんとか美人で色気のあるベルモットとよく接している安室さんが私をどうこうするなんて思えないのである。


「……貴方ね、何かされたらどうするの……」
「うーん……安室さんそこまで困ってないと思うよ?」


別に危機感のない鈍い人間であるつもりはない。
ただ、今現在黒の組織なんて危険なところに潜入中である警察官が万が一にでもそんな迂闊なことはしないだろうと思うし、安室さんが私に求めているのは『安室透の友達』だろう。
フレンドリーで気さくな安室透に友達が一人も存在しないというのはおかしい。
それゆえの私だ。
しかしながらそんなことを口に出すことが出来るはずもなく、最終的に哀ちゃんを筆頭にコナン君と二人がかりで危機感を持つべきであると説教をされる羽目になるとは思わなかったし、それ以来哀ちゃんが私を見かけると『最近は何も危ないことなかったでしょうね』なんて声をかけてくれるようになるなんてこの時はまだ思いもしなかった。
哀ちゃんの私を見る目がまるで出来の悪い妹を見るような眼差しのようだ、なんてきっと私の気のせいだ。