10.5



ポアロに来て早々、回れ右をして扉を閉めたくなる衝動に駆られたのはこれが初めてのことだ。
江戸川コナンは後に灰原哀にそう語った。


その日コナンは学校帰りに何気なくポアロへと立ち寄った。
以前までならば安室に用事があって、だとか休憩するために立ち寄っただとかきちんとした理由があったけれど最近ではポアロを見て今日はなまえが来ているだろうかなんてそんなことを考える。
年が近いわけでもなければ話が合うわけでもない。
けれど不思議なことになまえのある種独特ともいえる雰囲気が、不思議とほっとするのだ。
きっとそれは安室も同じであり、その日まだなまえが来ていないであろう日は時折ポアロの入り口に視線を向けている時も少なくはない。

さて、思わず見なかったことにして帰りたくなったコナンだったがそうするよりも前にうっかり原因である安室透と目が合い笑顔で『いらっしゃい、コナン君』なんて普段通りの完璧なスマイルで出迎えたものだから入らざるを得なくなった。
ごく自然に普段なまえが座っている場所の一つ隣に案内されたということは、まだ今日はなまえがポアロに訪れていないということなのだろう。
安室はコナンがカウンター席に座り、客が少ない時間帯であることをいいことにその手の中にあるものについて言及するか否かで少し悩む。
何となく予想はついてはいるものの、指摘するとややこしいことになりそうな気しかしない。
わかりやすく視線を逸らし続けているコナンを見てか、


「ねえ、コナン君。これどっちが良いと思う?」


安室は崩れることのない笑顔でその手の中にあるものをコナンにだけ見えるように掲げてみせた。
そこは空気を読んで大人しくしまっておいてほしかった。
けれど、こちらがそれについてスルーをした結果なまえに何かあってもそれはそれで寝覚めが悪い。
安室の手の中にあったものは複雑な構造の鍵がいくつか乗ったパンフレットだ。
そしてその手の下には隠す気があるのかないのかわからないが堂々と所持していていいものではない類の資料がある。


「あのね、安室のにーちゃん」
「ん?なんだい?」
「その鍵ってどうする気なの?」
「なまえさんが住んでいる部屋の鍵が僕でも開けられるくらい簡単なものだったからね。あれでは危ないだろうから新しいものに付け替えてあげようかと思って」
「うん、そっか」


安室の言葉にコナンは色々と突っ込みたいことがあったけれど、そちらに気を取られている場合ではない。
おそらくあの東都水族館での事件があったその日の夜に安室が部屋に来たとなまえが言っていたのでその時のことを言っているのだろう。
ピッキングで勝手に部屋に入った人間に『こんなに簡単な鍵がついている部屋に住むなんて』と言われるなまえの心中を勝手に察しながら、コナンはやや躊躇いながらも安室の手の下にある別の資料について口を開いた。


「……で、さ。
安室のにーちゃんの手の下にあるそれ、どうする気?」
「これ?」


コナンの言葉に安室はきょとんとした表情を浮かべる。
比較的童顔である安室がそういった顔をすると更に幼く見えるな、とどうでもいい感想を抱きながらコナンは安室の手元にある資料……いくつかの種類の盗聴器が載った資料に思わず口元が引きつった。
安室はそんなコナンの表情に気づいているだろうに、それはもう至極あっさりと。


「ついでになまえさんの部屋に仕掛けようかな、って」
「僕それはアウトだと思うな降谷さん」
「ここで敢えてそちらの名前を持ち出してくる辺りが君だよね」


当たり前のようにそんなことを言ってのけた彼に対してコナンは即座にバッサリと切り捨てた。
何やってんだ現役警察官、といった含みを盛大に込めて。
安室はコナンのそんな皮肉をしっかりと読み取り、理解しているにも関わらずやはり悪びれた様子を見せない。
もしやなまえに組織の影でもちらついているのだろうか。
彼女が組織の人間であるということはありえないだろうということはわかっているが、安室透の友人だということで組織の手が及ぶ可能性が無きにしも非ずだ。
いざという時に人質にとられたり、脅されて協力させられそうになるかもしれない。
それを回避するために盗聴器を仕掛けようか迷っている。
コナンは最大限に好意的な解釈でもって弾き出された答えとそのままそっくり同じ返答が返されることを期待していたのだが安室の口から語られるのは予想外の言葉だった。


「……正直なところね」
「うん」
「彼女があの部屋で一人暮らしをしているところを想像すると、どうしても結構な確率で部屋の中で倒れていそうな気がしてならないんだよ」
「……うん?」
「熱を出して動けなくなっているんじゃないか、とか。
うっかり相手が誰か確認もせず部屋の扉を開けてしまうんじゃないか、とか」
「……うん」
「まさかとは思いつつもどれもこれも容易に想像が出来てしまって心配になるんだ……」


正直ここまでするのは相手のプライバシーもあるし、どうかとは思うんだけどね。
そう言いながら神妙な表情を浮かべている安室を見て、コナンは相槌を打つ以外の返事が返せなかった。
なまえさんなら確かにありそう。
ついそう思ってしまったのは仕方がないことだとコナンは思う。
別になまえとて警戒心がないわけではない。
少し前に街中で遭遇した時、怪しげな男に声をかけられたなまえを見て助け舟を出すべきかと様子を窺っていたがなまえは笑顔のままでのらりくらりとかわしつづけ最終的には相手を逆上させることなく穏便に話を終わらせていた。
こんな一面もあるんだな、と驚きながらなまえに
「なまえさんってああいうの苦手そうなのに凄いね」
と思ったままの感想を口にしたコナンに少し照れくさそうに笑いながら
「あのくらいの人なら以前勤めていたところの上司やクレーマーよりもよほど優しいし話も通じるから大したことないよ」
なんてさらりと言う姿にコナンが知らない彼女の苦労を垣間見てしまい思わず労わるように背中を叩いてしまったのはまだ記憶に新しい。

そう、警戒心はある。
ただしコナンが見ていた範囲で言うならば彼女は気を許した相手であればその警戒心がゼロに等しくなるのだ。
常日頃事件に巻き込まれ誰かを疑ったり組織の人間ではないかと気を張っているコナンや安室に対して、信じて疑わないような安心しきった笑顔を向けられると嬉しさを感じると同時にこの人はこんな感じで大丈夫なのだろうかという不安がこみ上げてくる。
また、以前に働いていた場所の後遺症なのかすっかり体の免疫力が低下して未だに健康であるとは言いにくい彼女が、それなりの頻度で熱を出しているということを知っていた。
微熱程度だから大丈夫だと笑う彼女を安室と二人で家に帰したことは一度や二度ではない。

ここで一応述べておくならば、けしてなまえは無防備であるというわけではないのだ。
ただそれはまだ名探偵コナンの世界となまえの世界が融合するまでの話。
元々なまえが生まれ育った世界と、名探偵コナンの世界でも特に犯罪率が高い米花町に住む人間で比べると『危機感』という意識には天と地ほどの差があった。
世界が融合したと気づかずにそのまま暮らしている人間は、自分でも知らぬ間にその危機感がある程度備わっているのだが世界が融合したという自覚があるなまえに至ってはそれらは備わらなかった。
更になまえにとってコナンや安室達は安全な人間である、という原作知識からの前提があり日頃の彼らとの交流を踏まえたうえでの警戒心のなさなのだが二人がそれらの事に気づくことはおそらくこの先訪れることはないだろう。

そんなわけで、深刻な雰囲気で安室の口から飛び出した言葉にコナンが


「……一応なまえさんの了解をとってからにしたら?」


なんて言葉を返してしまうのはある意味仕方がないことなのかもしれなかった。
現に今現在工藤邸に住んでいる住人は、隣に住む少女の安全を考慮した結果盗聴器を仕掛けていることを知っているコナンにとって安室の提案にその実それほどの抵抗はない。
それらを仕掛ける理由がストーカーのようなものであったならば全力で阻止するつもりであったが。


「……さすがに嫌がるだろうなって思いながら一応言ってみたんだよ。
そしたら『別にいいですよ』って……」
「前から思ってたけどなまえさんなんでそんなに安室さんに対してノーガードなの?」
「さあ……?信用されているのは嬉しいけど、多少嫌がったり否定してくれた方が安心できるんだけどな」


もういっそのこと手元に置いて囲っておきたい気分だ。
ぽつりとそう言った安室の目は本気だった。
放っておいたら知らないうちに倒れてそうだ、というのはなまえに対する共通の見解である。
とりあえず鍵はこの最新式のやつに付け替えて……と吟味する安室を見てなんとなく合鍵は自分が持ちそうだなと恐らく正解であろうことを思った。
何なら自分の分と、ここ最近「彼女元気そうだった?」と安室を警戒して滅多にポアロに訪れることのない哀の分も欲しいくらいだ。
そして勝手にそうしたとしても怒ることもなく少し驚いた表情を浮かべるだけであろう彼女が更に心配になったりするんだとコナンは思う。


「そういえばさ、なんでなまえさんと友達になったの?」


話を聞いてもらったお礼なのか、何も注文していないはずのコナンの目の前にオレンジジュースが運ばれる。
小さくお礼を述べてからストローに口をつけるコナンは、ふと前々から気になっていたことを口にした。
安室は店内に客が増え始める前にと手元にあった資料をまとめてカウンター下に仕舞っていたが、その言葉にふと手を止める。


「……なんでだろうね。僕にもよくわからない」


気さくでフレンドリーな安室透に友達が一人もいないというのはおかしい。
そう思った時に一番初めに頭に浮かんだのがなまえだった。
後ろ暗い事情が何もなく、あれこれ理由をつけて最近調べた彼女の経歴は平凡な一般市民そのもので自分が知る中で一番日常という言葉が似あう彼女が都合がいいと思っていたのは間違いではない。
それなりに気さくで、けれど踏み込んでほしくない部分は言及してこない彼女の存在が心地よいものであると感じていたのはきっと随分と前からだ。
黒の組織のバーボン。
私立探偵にして喫茶店ポアロでアルバイト中の安室透。
そして本来の顔である公安警察所属の降谷零。
三つの顔を使い分けていると、時折自分が何者なのかわからなくなる。
そんな時に日常そのものであるなまえを見ると彼女のような善良な国民を守るのが自分の仕事であり使命だと改めて思わされるのだ。
だからこそ彼女を見るとつい何かと構ってしまうし、世話をやいてしまう。
過保護すぎるかもしれないと思わなくもないが目の前の少年も似たようなものだろうとここ最近では開き直りつつある。
コナンは安室曖昧な答えに不満げにする様子もなく、ただ一言「そっか」とだけ返した。