ゆびきりげんまん





兄が死んだ。

兄と言っても血の繋がった兄ではない。
死んだ両親に代わり私を引き取って育ててくれた人たちの子にあたる。
だから正しくは『兄』ではなく『義兄』だ。
一応親戚という間柄ではあるものの、突然現れたであろう年の離れた義理の妹という存在。
きっと戸惑わなかったはずはないだろうに義兄は私に優しかった。

あまり表情の変わらない私を両親を亡くしたショックでそうなったのだと勘違いしている節はあったが、自分のことを兄だと呼べと言って笑った時の顔が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
結局引き取ってくれた人達も私が来てから数年でこの世を去ってしまい、呆然とする私の手を握りしめながら自分の方がショックを受けているだろうに私と目線を合わせて眉を下げて笑いながら「二人きりの兄妹なんだ、これからは二人で一緒に生きていこうな」なんて言ってくれた義兄は相当なお人好しなのだろう。
自分が引き取ったわけでもなく、可愛げがあるわけでもない子供を孤児院に放り込むこともせずすでに成人して働いていた義兄は自分の腕一つで私を育ててくれた。
何の仕事をしているのかは教えてもらえなかったけれど、困ったように笑いながらこっそりと教えてくれたことは義兄が『正義の味方』であるということ。
けれどとてもとても悪い人達を捕まえるために世間を欺かなければならないので他の人達には秘密にしてほしいということ。


「約束できるな?」


と小指を差し出した義兄の目は私の様子を見逃すまいとした鋭さを内包していたけれど、そんなことを言う友人もいなかった私はあっさりと頷いてその小指に自らの小指を絡めた。
昔からある歌を口ずさみながら絡まった指を小さく揺らす義兄は『嘘ついたら、』とそこまで歌って暫く沈黙する。
不思議に思って見上げれば、感情の読めない目で私をじっと見下ろした後に取り繕うように笑顔を浮かべて


「そうだなぁ、嘘ついたら」


耳に馴染んだ低い声でそっと続きを囁いた義兄の言葉を私は今でも忘れられずにいるのだ。
それからも義兄は中々家に帰ってくることができず、私は引き取ってくれた人たちと義兄の思い出が詰まったあの家でひとかけらも思い出を壊すものかと様々なものを手入れしながら暮らした。
小学校に通う年齢の子供が一人きりで大きな家で過ごしているという事実に見知らぬ大人から事情を聞かれたこともあったけれど、聞かれるままに事情を話せば気の毒そうな表情を浮かべながら納得してくれた。

義兄は滅多にとれない休みの殆どを私にあててくれていたのだろう。
たまに帰ってきたかと思えば両手いっぱいにプレゼントを抱えて、やれ『これが似合うと思った』だの『将来着てほしい服なんだ』だの。
私をその場で着せ替え人形よろしくあれこれ着せては嬉しそうに笑ってみせたり、中身を見せてもらえなかったいくつかの箱を悪戯っ子のような表情で大人になるまでのお楽しみだと私の手の届かない場所に片付けたりと中々に忙しい。
まだまだ下手くそな私の料理を美味しいと言って食べ、料理上手な友人がいるのだと笑いながら教わったいくつかのレシピを私に教えてくれたりとまるで実の兄妹のように過ごした。

だからいつも通りあの家で義兄の帰りを待つ私に、警察の人間だと名乗る男性が現れて深く頭を下げながら言った言葉に目の前が真っ白になった。

呆然とする私をよそに形だけの葬儀が行われた。
形式的に置かれている棺桶の中身は空で、聞けば義兄の死体も残らなかったらしい。
空っぽの大きな箱といつだか最後に私と撮った笑顔の兄の写真が引き伸ばされた額縁を片手に黒いワンピースを着た私はぼんやりと座り込んでいた。
義兄の職業の関係であまり人は呼べないのだと、義兄の仕事の関係者であるらしい男性が言った言葉に私はなるほどと頷く。
私のその様子を見て男性はわずかに眉間に皺を寄せながら義兄の仕事について知っているのかと私に訊ねたが、あの日義兄と交わした小指の約束を思い出し緩やかに首を振る。
私を見下ろす男性はしばらく探るように私の様子を眺めていたけれど、どちらに転がったとしても子供である私に何ができるわけでもないとただ一言ぽつりと「そうか」とだけ言い私の前から立ち去った。
男性は気難しそうな印象だったけれど、やはり悪い人ではないのだろう。
幼い私の代わりに義兄の葬儀をすすめてくれたらしいその人が全てが終わった後私に声をかけてくれた。
君のお兄さんはまわりから慕われていた、君の話はよく聞かされていたし、まるで惚気話でも聞いているかのような心地だったと苦笑しながら私の知らない義兄の様子を言葉少なに語ってくれた男性に私は深く深く頭を下げた。

私はこれからどうなるのだろう。
両親を亡くし、私を引き取ってくれた人達や義兄まで亡くした私を親戚たちを遠巻きから眺めひそひそと『疫病神』だの『死神』だのと噂しているところを見るにおそらく今度こそ孤児院に放り込まれるのだろう。
私としてもその方がいっそ気楽でいい。
それに両親が死んだ時も、引き取ってくれた人たちが死んだ時も、義兄を亡くした時も涙一つ零さず無表情で葬儀が行われる隅っこで座り込んでいる子供を引き取らせるのは酷だろう。
そうして葬儀が終わり、私に声をかけることなく姿を消した親戚たちをぼんやりと見送りながら気難し気な雰囲気でありながらも私に声をかけてくれた兄の職場の男性に頭を下げて私は一人になった。
しんと静まり返った家の中で、私はモノクロの義兄の写真を抱きしめながらいっそこのまますべてが終わってしまえばいいのにと考える。
どれくらいそうしていただろうか。
不意に玄関の戸が開けられる音がして私は緩慢な動作で視線をうつした。
ゆっくりとこちらに向かってくる足音に、強盗か何かが来たのだろうかと自暴自棄になりながらただただ音の主が姿を現すのを待つ。
そうして現れたのは強盗でも死神でもなく、けれどまるで死んだような目をした青年だった。
褐色の肌に色素の薄い髪、普段であれば甘い笑顔でも浮かべていそうな整った顔立ちの青年は座り込む私の姿を見てゆっくりと近づいたかと思えば、その場で腰を下ろしおもむろに頭を下げた。
今日一日ですっかり慣れてしまっていた私は正面で同じように頭を下げて、本日はお悔やみ申し上げますという言葉がかかるのを待ったが一向にその言葉はかけられず不思議に思いながら顔を上げる。
感情の全てを押し殺したように無表情を貫く青年は、ただただ黙ったまま私の抱えている義兄の写真を見つめていた。
表情の変わることのない私と、同じく無表情である青年。
まるで鏡合わせのようだと場違いに思う。
けれど青年が私と違うところは、激情を押し殺して、それでも消しきれなかったであろう目だ。
ゆらり、ゆらりと揺れる目はけして私を直視しようとはせず。
また噛みしめられた口は一向に開くこともない。
どうしてそんなことをしたのか、今でも私はわからない。
それでもふと過ったその言葉を私は何も考えずに口にしたのだ。


「……今日、せめて雨でも降れば良かったですね」


唐突に私の言葉に、義兄の遺影から目を逸らさなかった青年がゆっくりと私を見る。
不意に伸びた私の手に青年は一瞬だけ身を固くさせたけれど、すぐに緊張を解き目を閉じた。
私の行動をどう思ったのかはわからなかったけれど、嫌がられていないと判断した私はそのまま青年の目元をそっと撫でる。


「そうしたら、全部、雨のせいにできたのに」


泣くことができない私。
そして目の前の青年は私とはまた違った意味で、泣くことができないのだろう。

あまりに唐突できっと意味もよくわからないだろう言葉を、それでも目の前の青年は正しく読み取ってくれたようで。
ほんの僅か見開かれた目が苦し気に細められたかと思えば、私の視界は青年のスーツで埋め尽くされた。
ぎしぎしと自分の骨がきしむ音がして私は一瞬遅れて青年に抱きしめられているのだと気づく。
首筋を撫でるような青年のさらさらとした髪がくすぐったかったけれど、まるで縋りつくような両腕と擦りつけられるかのような私の肩口に押し付けるような青年の頭を、拘束からどうにか両手を引き抜いた私は抱き締めるように撫でた。
青年の大きな体を子供の私が受け止めきれるはずもなく後ろに倒れそうになったけれど、青年は私の体を片手で受け止めて自分の膝の上に乗せてそうしてまた強く強く抱きしめる。
私よりもずっとずっと年上で、大きな男性がまるで小さな子供のように感じられてそっと頬を寄せた。
せめて今だけでも、ほんの一時だけでも青年が感情を出せればいい。
抱擁は私の意識が途切れるまで続いた。

これが私、みょうじ なまえと降谷零との出会いだった。