誰でもよかった、貴方でよかった。





誰でもよかった。


何一つ変わらない毎日を過ごしていた私は、ある日突然異世界へとトリップした。
親し気に話しかけてくる私の『友人』に、初めて通うのにいつも通りであるらしい学校に、私の見知らぬすべてのものに困惑したのは昔の話だ。
おかしくなってしまいそうな世界の中で、ただ一つ変わらなかった自分の家族の存在に私は随分と救われた。
家族達は本来の私たちの世界のことは何一つ覚えてはいなかったけれど、それでも見知った顔が笑って私を出迎えてくれるということが世界が丸ごとすり替わってしまった私にとっての唯一の救いであった。

その家族も社会人になってから事故で亡くなってしまい、正真正銘一人きりになってしまった私はただ一人でいたくなくて誰かの温もりが欲しくて。
だからホテルが併設された見知らぬバーで、偶然隣になって話が弾んだ男性のほんの少し触れた手が温かくて、酔って理性が緩んでいた私は自分から誘ったのだろう。


そして朝になって自分の姿を見下ろして。
おもむろに隣で寝ている男性を見て。
私は深いため息をついた。


私は隣で上半身裸の状態で寝ているこの男性を知っている。
知り合いというわけではなく、私が一方的に知っているだけなのだが。
ある日突然すり替わってしまった世界は私が元の世界で知っていたもので、物心ついたころからすでに漫画はあったしアニメも放送されていた。
この男性を見かけたのはそんなアニメの中でのことだったし、友人に誘われて行った映画での活躍にはあまりアニメに興味のなかった私でも格好良いと思わざるを得なかった。
あどけない表情でうつ伏せになって寝ている男性は安室透だ。
いや、正しくは降谷零といった方が正しいだろうか。
確か黒の組織に潜入している捜査官で、情報収集が得意だとかなんとか。
整った容貌を見る限り女性なんて引く手数多だろうになんでまた私みたいなのに引っかかったのか。

一般人相手であろうとそんな人間が本気で寝入っているとは思えない。
おそらく私が先にここから立ち去るのを狸寝入りで待っている、といったところだろう。

私はそっとベッドから抜け出して、衣服を身に着ける。
だるい体を引きずりながら自分の鞄を手に取ったところで少しだけ思案して、財布の中から数枚の万札とメモ用紙を取り出した。
単純に性欲を発散させたかったのか、それとも自分に誘いをかけたからには何か裏があるのかもしれないと思ったのかはわからない。
けれど、人恋しくて仕方がなかった私にとってすぐ近くに誰かの体温があるという事実だけで随分と救われたのだ。

『昨日はすみませんでした。
ほんの気持ちばかりですが受け取って下さい。
できれば昨夜のことは犬に噛まれたとでも思って忘れて頂ければ幸いです』

簡潔に、そんな文面を書き綴った私は万札と一緒に部屋にあった灰皿を文鎮代わりに乗せてできるだけ音をたてないように部屋を後にした。
記憶が曖昧で昨夜の詳細は思い出せないけれど、ひりつく喉と怠い体、鈍痛がする腰に実はなにもありませんでしたということはないんだろうなぁと思う。
散々焦らされて、散々なかされた、ということまで思い出しかけてこれは忘れた方がいいやつだとわずかに赤くなった頬を冷ますように私は記憶の奥底へと追いやった。




「こんばんは、先日はどうも」

どうしても眠ることができず、ふと気づけば前にやらかしてしまったバーで一人カクテルを傾けていた私はその声に思わず吹き出しそうになった。
許しを得ることもせず隣に座ったその人は、にっこりとした貼り付けた笑顔を浮かべながら笑っていない目で私を見る。
一瞬だけちらりとグラスを磨くマスターがこちらを見たけれど、隣に座った彼……安室透が『彼女と同じものを』と声をかけたせいか視線が合わなくなってしまった。
私は引きつりそうになる頬をどうにか笑みの形に作り上げて、

「ええと……その節は本当にすみませんでした……?」

と申し訳なさで小さくなりながら頭を下げる。
私の反応にも安室さんは態度を変えることなく軽やかな口調で『いえいえ、とんでもない』と答えると私の前に滑らせるように何かを置いた。
動きを追うように目の前に現れた手を見れば、その下には数枚の万札。
記憶違いでなければ私があの時ホテルの部屋に置いて行った金額と同じだ。

「一応言っておきますが、僕は別にそういうつもりではありませんでした」
「はあ、その。私が無理やり連れ込んだとかそういう……?」
「僕が君に金で買われたような状況を勝手に作り上げないでください、という話です」

私たちの不穏な会話に、マスターが安室さんの前にカクテルを置きながらまた一瞬こちらを見たけれど関わってはいけないと判断したのかそっと私たちの前から離れた。
できれば行かないでほしい、と思い反射的に浮いた手は男性らしい骨ばった筋肉質な手によって阻まれてしまう。
そしてそっと私の手に万札を握らせると、

「……貴方ね、本当に悪いと思ってます?」

なんてどこか迫力のある笑顔で凄まれてしまえば私にできることは消え入りそうな声で謝るくらいしかできなかった。



さて、私の記憶が正しければそれからカクテルを飲みながら名前を聞かれ、職業を聞かれ、問われるままに色んなことを話した。
話し上手で聞き上手な安室さんにつられるようにして素直に口を開きながら、これってもしかして事情聴取とかそういうのでは……?と思い至る。
もしかしたらどこぞの組織からのハニートラップである可能性が否めない。
それならばいっそのこと、誑し込んですべてを白状させてしまおう。
きっとそういうことなのだろう。
しかしながら、私をどれだけ調べ上げたところでろくな情報は出てこないだろう。
私は後ろ暗いものと何ら関わりなく育ち、過ごしてきたただの一般人だ。
ある日突然別の世界に家族ともども来てしまったという珍しい特徴はあるものの、私たち一家は生まれてこの方ずっとこの世界にいたということになっていたので何も出てきやしない。

話していても埒が明かない、と判断されたのか『貴方の事が忘れられなくて』なんて言葉と共に再びホテルまでエスコートされた私は押し倒されて散々喘がされる羽目になった。
焦らされ、翻弄されながらも睦言の合間に問われる言葉に『聞いても素直に答えないなら体に聞こうか』なんて副音声が聞こえてきた気がした。
結局私に言えることなんて何もなくて、ただ単純に人恋しかったところに貴方が来たからついといったなんの面白みもない言葉だけ。
用心深そうな彼のことだからきっと今日私に会うまでに私のことを色々と調べているだろうに、なんて疑い深いのだろう。
相変わらず人の体温に飢えていた私にとっては、案外体温が高いらしい彼が触れる手にほんの少し気分が浮上したので願ったりかなったりだったけれど。

そうして朝まで続いた責め苦のような快楽にぐったりとする私とは対照的に、自分だって一睡もしていないはずなのに爽やかな笑顔を浮かべながら『貴方があまりにも可愛くてつい無理をさせてしまいました』だなんて胡散臭い言葉をはく安室さんに

「いや、むしろご馳走様です……」

とやはり掠れた声で返せば、彼は目を丸くさせた後に腹を抱えて笑い出した。
どうしたんだろう、仕事が忙しすぎて疲れているんだろうか。
そこからの彼の表情にはこちらを探るような色は見当たらず、彼の中で私の潔白が認められたんだろうと私は察した。

後腐れがなく、顔も良ければ体の相性もいい。
あの容貌だし職業柄ハニートラップを仕掛けることもあったのだろう。
誰かの存在が身近に感じられるのであればどう扱われても構わない、とすら思っていたのにあれだけ手練手管を見せつけられれば流石としか言いようがない。
この関係が終わってしまうのが少しだけ惜しいと感じた私だったが、その数日後に入ったメールで『今夜暇ですか?』という文面に驚くことになる。
いつの間に私のアドレスを知ったのだろう、と思ったけれどことの最中に意識がとんでいることがあったのできっとその時だろう。
私の疑いは晴れたはずなのに、なんでまた。
いや、待てよ。
黒の組織に、公安警察に、喫茶店のアルバイトをしながらの探偵助手。
色々な欲求を発散させる暇などないだろう彼のところに丁度都合よく飛び込んできた後腐れのない手ごろな女が私だったという話なのではないだろうか。
納得した私は、人肌恋しくなるたびに誰か行きずりの男を誘うよりはマシだろうと判断して了承の返事を返した。



私たちの関係に名前を付けるなら、セフレという言葉がきっと正しい。

安室透という男は思いの外律儀であるらしく、自分の欲望だけを発散させたって構わないというのに自分の持てる技術でもって毎回私を悦ばせようとする。
多少手荒でも構わないと訴える私の言葉を聞く気がないらしい彼は、長い前戯ですでにぐったりとしているところを更に揺さぶって上り詰めらせるのが楽しいようだ。
さすが日頃から三つの顔を使い分けているだけある。
驚きの体力に私は息も絶え絶えになりながら何度も許しを請うけれど、やんわりとした笑顔でそっと私の手に指を絡ませながら

「本当にやめてもいいんですか?」

なんて色気たっぷりに問われれば黙るしかない。
なんてちょろい女だ、と自分でも思うがそれでもやめろと言えるような思考能力が残されていない時に問われるのだから仕方がないだろう。
そして翌朝起き上がれない私を見て楽しそうに笑うのだからなかなかに意地が悪い。
この男まさか一番はじめに万札を置いて部屋を立ち去ったことを未だに根にもっているんじゃないだろうな。
そこまで執念深くはないだろう、と否定しようとしたけれどそういえば安室透はそれはもう執念深く赤井秀一を追い続けているのだったという事実を思い出してしまった。
安室透との関係は、三日ほど間をあけて会うこともあれば二か月以上会うことがない日が続くことも多い。
会わない日が続けばまた私がこの世界で一人きりなのだという事実を突きつけられたような気がして、どうしようもなく誰かの体温が欲しくなるけれど適当にその辺の男をひっかけたとしてすっかり安室透に慣れ切ってしまった私が満足できるかと聞かれれば言葉に詰まる。


そして今回もかなり間が空いて、久しぶりに呼び出されてバーに向かった私を待っていたのは珍しく真顔で機嫌が悪そうな安室さんだった。
私が知る限りかなりの割合で笑顔を浮かべている彼にしては本当に珍しい。
自分を取り繕うことが出来ていない彼に驚いて声をかけるのを一瞬躊躇えば、気配で私が近づいていたのに気づいていたらしい安室さんはやや苛立ったように紙幣をテーブルに置いたかと思えば私の手を掴んでそのままホテルの部屋に連行された。
剥ぎ取るように衣服を脱がされながらベッドに押し倒された私は、見上げた彼の表情がどこか苦し気でその顔が両親を失った時の私と似ているように思えて仕方がない。
だから私の両手が彼の頭に伸びたのは無意識からのことで、まさかすんなりと彼が私に抱きしめられてくれるだなんて思ってもみなかった。
頭を抱きかかえるようにして、珍しく冷え切っている彼に少しでも私の体温が移ればいいと願いながらすり寄れば驚いたような雰囲気だった彼が我に返ったのか普段よりも低い声で

「……なんのつもりです?」

とこちらを窺うような視線で問うてきた。
そうは聞かれても衝動的な行動だったしなぁ。
そう思いながら、きっと拙くなるだろうと思いながらも私は口を開く。

「何があったのか、私はわかりませんけど……。
それでも、こうして誰かの体温が側にあるとほっとしませんか?
別に貴方に手荒く抱かれても構いませんけど、優しい貴方のことです。
きっと後で自分を責めるんじゃないかって」

まとまりのない私の言葉。
けれど安室さんはしばらく硬直した後、私に顔を見られまいとするように顔を伏せる。
ちょうど胸のあたりの位置に顔が埋まるような体勢になってしまい、ある意味痴女のようだ、なんていらぬ心配をした私だったけれど次第に感じる胸元が濡れるような感覚にそっと安室さんの頭を撫でた。

「……しばらく、このままで」
「はい」
「明日になったら僕の醜態は忘れること」
「はい」
「それから、」
「はい」
「……すみませんでした」

何に対しての謝罪なのか、私にはわからなかった。
今までの全てにたいしてかもしれないし、ついさっき乱暴に部屋に連れ込んだことかもしれない。
もしかしたら私に向けた言葉ではなくて、他の誰かに向けたものである可能性だってある。
それでも私はその言葉に小さく返事を返して、幼い子供を慰めるように彼の頭を撫で、大きな背中をそっと叩き続けた。



翌朝、ほんのりと目が赤くなっている彼に起こされた私はかけられた謝罪の言葉に『なんのことですか?』と昨夜の彼の願い通りの言葉を返す。
そのことに何とも言えない表情を浮かべたようだったけれど、気を取りなおしたように私に向けて笑顔を浮かべた。
貼り付けたような笑顔ではなく、私が知っている安室透の笑顔でもない。
はじめて見る類のそれはもしかしたら彼本来の、降谷零としての表情なのかもしれないと頭の隅で思う。

「なまえ」
「えっ」
「なんですか、その顔。
たまには一緒に朝食でもどうですか?
貴方とはお酒しか一緒に飲んだことありませんでしたが、ここのホテルは料理もおいしいんですよ」

くすぐったそうに笑う彼を、少し眩し気に眺めた私はどういう心境で彼がその言葉を口にしたのかわからずただ戸惑いながら頷いた。



あの夜以来、夜に呼び出されるだけじゃなく昼間に
『一緒に出掛けませんか?』
といったたぐいの誘いを受けるようになった。
言った覚えはないけれど私の休日を何故か知っていた彼は、狙ったかのように私の用事がない日にそういった電話をかけてくるのだ。
一度
「家の冷蔵庫が空っぽだから買い物に行きたいので、今日はちょっと」
という断りをしたことがあったけれど、それなら一緒に行きましょう車を出しますから多少買い込んでも大丈夫ですよ、という言葉と共に気がつけば一緒に近所のスーパーで食材を選んでいたし、気がつけば私の家で彼が料理を作っていた。
意味がわからない。
安室さんはそのままうちに泊まっていったし、言葉巧みにうちのアパートの予備の鍵を持っていってからは帰ってきたら安室さんが『お帰りなさい』なんて食事を作って出迎えてくれることすらあった。

反対に『うちに来ませんか?』という誘いをかけられて、潜入捜査官的に大丈夫なのかと思ったけれどきっといくつかセーフハウスを用意しているのだろう。
私を連れてきたのはそのうちの一室で、だからこそ『貴方に持っていて欲しいんです』なんてあっさりと私に部屋の鍵を渡したりするんだ。
もしくはさすがに毎回バーに呼び出して、私の分の代金も支払ったりホテル代を支払ったりするのが面倒になったんだろう。
見る限りお金には困ってなさそうなので理由としてはこちらが近いと思う。
彼の家で、彼の手料理を食べて、一緒にくっついてゆっくりとした時間を過ごし、キスをされベッドまで運ばれて、まるで私を愛しいと思っているかのような目をして触れてくるけれどきっとそうに違いない。
その手に縋りついて、手放せなくなって困るのは自分だ。
もうきっと手遅れかもしれないけど、私の中にある最後の一線を許してしまえばきっと彼無しでは生きていけなくなる。
そう予感している私は、もしかしたら、という思考が浮かび上がる度に消し続けた。


だから『暫く会えない』という電話がきたときに、ああ終わったのかと思った。


予防線をはっていてよかった。
もうきっと、彼から連絡がくることは二度とないだろう。
あの温かな手が私に触れることも、あれ以来私の名前を呼ぶようになった声も、無理やり欲を引き出すようなキスから慈しむように触れるだけのキスをするようになったのも。
私は全部忘れなければならない。
なんということをしてくれたのだろう。
今まで出来ていたことだ、きっとまた元通りの私になれる。
ほんの少しの人肌と、体温があればそれだけで私は生きていける。
だから大丈夫だ。

そう覚悟を決めて淡々とした日常を熟し続ける私は三か月ほど経ったある日、突然きた彼からのメールに驚かされることになる。

『今夜会えないか?』

まるで当初のようなやり取りに、咄嗟に嬉しさがこみ上げたけれどすぐに一番初めのような関係に戻るのだろうと理解した。



「改めて自己紹介をしようと思う。
僕の……いや、俺の本当の名前は降谷零だ。
今まで仕事の関係上偽名を名乗っていてすまない」

呼び出された場所があの時のバーではなく持っていろと渡された鍵で入れる彼の部屋の一つだったことに疑問を覚えながらも、たどり着いた先で私が見たものは高級そうなスーツを身に纏った彼の姿だった。
目を見開く私を見て悪戯が成功したような顔を一瞬見せた彼は、すぐにその表情を引き締めて私に中に入るように促した。
部屋に通され、ソファに座りテーブルの上にお茶を出されて畏まったように切り出された言葉に口に含んだお茶を噴き出さなかった私は偉いと思う。
呆然としながら彼を見れば、その視線が今までの自分の性格と違うからだと思ったようで

「もしなまえが今の俺ではなく、『安室透』を好きだというのならいつでもそうなろう。
だができれば降谷零も好きだと言ってもらえたら嬉しい」
「えっと……」
「なまえもきっと気づいていただろうが、改めて言わせてほしい。
……好きだ、俺と付き合って欲しい」

まっすぐに私の目を見て、そっと手を握りしめながら言う彼に私は思わずぽろっとこぼしてしまった。

「え、あの。
安室さんって私の事好きだったんですか……?」
「は?」
「色々発散させたい時に、近くに丁度いい後腐れのない女がいて。
だから飽きるまではこいつでいいか、お互い良い思いできるんだからいいだろ、とか。
てっきりそんな感じだと」

きっとその時の私は突然の安室さんのカミングアウトに動揺していたのだろう。
だって、安室さん潜入捜査官でしょ?
黒の組織がバックにいるのにそういうこと気軽に言っちゃっていいの?
機密保持とかそういうのあるんじゃないの?
……もう終わりじゃ、なかったの?

混乱しながら、驚きで呆然とする私の耳に惰性で流れていたテレビの声が届く。
『高校生探偵の工藤新一、完全復活!』
その言葉を聞いて私はようやく思い至った。
もしかして原作が終わったのだろうか。
暫く会えない、と言ったのは組織を完全に潰すためで。
あとは事後処理なんかもあったから、だから会えなかっただろうか。
私に飽きたわけじゃ、なかったのだろうか。

ほっとして力が抜ける。
じわじわと目の端から滲んでくる涙を乱暴に拭おうとした手が、何かに阻まれた。
なんだろう、この展開デジャヴを感じる。
恐る恐る顔を上げれば、それはもう恐ろしい笑顔を浮かべている安室さん改め降谷さんがそこにいて私は思わず『ひええ』という声をあげてしまった。

「へええ……?そうかそうか、お前は俺の事をそんな風に思ってたんだな」
「え、いや、その」
「仕事の都合上言葉にするとなまえに迷惑がかかると思って言いたくても言えないもどかしい思いをしていた俺のことを、そんな風に」
「す、すみません」

すっかり震えあがる私だったが、不意に近づいてきた気配に顔を上げれば予想以上に至近距離にあった降谷さんの顔に再び声を上げそうになる。
なんの声も出なかったのは、偏に降谷さんが私の口に噛みつくようなキスをしたからだ。
頭の後ろを手で固定され、体は逃げられないように腰に腕をまわされ。
すっかり知り尽くされている私の口内を蹂躙するかのような降谷さんの舌に、はじめは一方的に翻弄されてばかりだったけれど気づけば応えるように自分から舌を伸ばし、その事に気づいた降谷さんに絡めとられる。
長い長いキスが終われば、すっかり体に力が入らない有様で口の端からわずかに零れた名残を舐めとるように吸い付かれ反射のように喘ぐような声を出してしまった私を見て降谷さんがそれはそれは嬉しそうな表情を浮かべた。

「ちょうどいい、俺がお前をどれだけ愛しているか。
よーくわからせてやる」
「え!?今でさえ腰が抜けてるのになんという仕打ち!!」
「今までは『安室透』だったから手加減していたが、本当はもっとお前が欲しくて仕方がなかった。
言いたくて言えなかった言葉も沢山ある」
「手加減!?あれで!?
待って下さいなんで押し倒すんです!?
せめてベッドで!!」
「待てない」
「せ、背中が痛くなるから!」

私の必死の訴えも空しく、降谷さんは私を抱き上げると向かい合わせになるようにして自分の膝の上に私を乗せた。

「これで、痛く、ならないな?」

もう何も問題はないだろう、と言いたげなその言葉に項垂れるしかない。
最早言葉もない私に、降谷さんは宥めるように私の背中を優しく撫でた。

「なあ、なまえ。
もしお前が誰かの熱が欲しくて、それが誰でもいいって言うのなら俺にしないか」

きっとその時の私は迷子の子供のような顔をしていたのだろう。
顔を上げれば困ったように笑う降谷さんがいて、私の頭をそっと撫でてくれる。

「いつも一緒というわけにはいかないが、出来る限り側にいる。
きっとお前に寂しい思いはさせない。
お前が寝ている時に魘されながら伸ばした手を掴むのは、俺でありたいんだ」

この言葉は聞いたら駄目だ。
もうずっと私の深い場所まできていた降谷さんは、私が大事に守っていた最後の一線をなんでもないような顔で容易く踏み越えようとする。
今突き放さなければ、もう後戻りなんてできない。

「……私、ほんとは結構重たい人間なんです」
「そうか」
「安室さん……いいえ、降谷さん。
それ以上言うと私、貴方なしじゃ生きられなくなってしまう」
「ああ、是非そうなってくれ」

もうこれ以上は無理だ。
言葉に詰まる私に、降谷さんは私を愛しそうに見下ろしてそっと口づけを落とす。

「俺とずっと一緒にいてほしい」

優しく囁かれた言葉に私は気がつけば頷いていた。
誰でもよかった。
体温が感じられて、自分がこの世界で一人きりじゃないって錯覚できれば誰でもよかった。
ただ偶然私の隣に座ったのが安室透だったというだけで。
あの時は本当に焦ったし、今でも正直信じられない気持ちでいっぱいだけどそれでもこれだけは言わなければいけない。
滲む視界で私は手を伸ばして、降谷さんの首筋に抱き着いた。

「貴方で、よかった」

聞こえるか聞こえないか程度の声だっただろうに、それでも降谷さんには届いていたらしい。
苦しいぐらいに抱きしめられて気がつけばその手が服の下を撫でていて。
ああ、きっとまた起き上がれなくなる。
そう覚悟しながら、目の前にいる降谷さんにすり寄った。


次の日起きた私の薬指に嵌っていた指輪に驚き、更に『あとはお前が記入するだけだ』という言葉と共に突き付けられた婚姻届けに降谷さんの本気を知るのはまた別の話だ。