8 紅雨
インターホンを押せばいつもすぐ出てくるはずの三輪君が、今日に限っては何の応答もない。めずらしく昼寝でもしてるのかと思い、また出直そうと踵を返した瞬間、ジャージ姿で汗を流す三輪君が道路に立っていた。
「あ、蛇石。来てたんだ」
「…え、三輪君? 本当に三輪君?」
いつものツンツンした寝癖もない、つるっと丸い頭のシルエットと、皺ひとつない、しゃっきりとしたスポーツウェア。タオルで汗を拭う姿がとても三輪君に見えなくて、誰か違う人なんじゃないかと思ってしまう。突然の変化に頭が追いつかず、なんて声をかければ良いかも分からないまま、ただ目の前の彼を見つめた。
家に迎え入れてくれた後も、特段三輪君から話をされることもない。この後も、いつものように各々まったりするような光景が浮かんだので、意を決して自分から話題をふることとする。
「……ねえ三輪君、外に出ても大丈夫なの?」
「……意外と大丈夫だった」
彼も予想外だったようで、しみじみとそう話す姿は少し可愛く感じるけれど、なんだか無性に淋しくなってしまう。
私が目をそらしていると、三輪君は黙ってこちらを見つめ続けてきた。一体何を言い出すのかわからないけれど、本能的に、何も聞きたくないと思ってしまった。
「俺、ボーダーに入ろうと思う」
それはあまりに突然の言葉で、頭がその単語を受け付けなかった。
何度も何度も聞き返しても同じ事を言われ、私は固まってしまった。
「ボーダー? 三輪君が? 何で急に、」
「俺のやりたいことは、ボーダーでならできる」
ボーダーという単語が出るたび、私は不快な気分になる。別にボーダーが嫌いなわけじゃない。ボーダーがいなければ、三門市が、いや、全国中が近界民に侵略されていただろうから。
ただ、あんなにどん底まで沈んでいた彼を瞬時に変わらせたという、その事実が私には理解したくなかった。
目の前の彼を見つめる。背筋がぴんと伸びていて、汗を吸い込んだ服からは、ほのかに柔軟剤の香りがする。私の知っている三輪君は、背中がもっとまるっとしていて頼りないし、服もヨレヨレで、着られればどうでもいいとか思っていそうだったのに。しゃっきりと背筋を伸ばして座る目の前の彼は、一体何者なんだろうか。
鬱々とした表情の三輪君が好き。目覚まし時計を投げつけるくらい気が立っている三輪君が可哀想で好き。私が言うことすべてに心かき乱される三輪君が可愛くて好き。それに比べて今の彼は、きっと私が何を言ってもちっとも乱されず、きっと自分の道を貫き通すのだろう。あんなに三輪君に会いたいと思っていたのに、面白いくらいに頭のてっぺんからつま先まで、一気に熱が引き切ってしまったように感じた。
◇ ◇ ◇
私は三輪君の何が好きだったんだろう。コトコトと煮込まれていた想いが、一気に冷水で冷やされたような感覚だ。今までは、早く授業が終わって三輪君に会えないかなあとか、今日は何の話をしようかなあ、なんてこと毎日考えていた。今では、あんな別人みたいな顔をする三輪君と会うなんて気が重い。
私があんなにのめり込んだのは、三輪君が相手だったからだろうか。もし彼と同じ立場に立っている人なら、彼じゃなくても同じような感情を抱いていた可能性はないだろうか。
ただ、「私抜きでは生きていけない」ような人が近くに欲しかっただけなのではないか。
「あんなに好きだと思っていたのにな」
ほろ苦くて、胸がキュッと締まる想いだ。三輪君のことなんてもう考えたくない。
あの時、あんなに三輪君を毛嫌いした母は正しかったのかもしれない。
それでも、コロリと母の元へ帰っていく意地汚さは、さすがに持ち合わせていなかった。
♂
今日も起きたらすぐ顔を洗い、朝食を食べ、簡単な身支度を済ませる。伸縮性の高いスポーツウェアに身を包み、ランニングに行くために玄関へと急ぐ。
先日、ボーダーに入りたいと母親に言ったら、なんとも複雑そうな顔をして「分かったわ」と言ってくれた。その意味深な表情から読み取れる母の想いは、なんとなく分かっているつもりだ。それでも、俺を引き留めることのない母親に感謝し、俺はもう二度と家族を失わないよう、ボーダーに入り、必死で食らいついてやる。
玄関を開けると、柔らかな日差しとともにビュンと強い風に吹かれる。秋は日中の気温差が激しいが、走っていれば体は温まるだろう。
ストレッチをした後、少しずつペースを上げながら走っていると、いつの間にか息が切れて口呼吸になり、体の中からだんだんと火照ってくる。さすがに数ヶ月間引きこもっていたツケが回り、体力は異常になくなってしまったようだ。走ることは苦しいけれど、走っていると頭の中が整理されていくようで気持ちが良い。
住宅地を抜け、川沿いの道までたどり着く。水位はだいぶ低くなっており、穏やかな川に太陽が反射してキラキラしている。そういえば、彼女は、蛇石は元気だろうか。
最近、蛇石桔梗があまり家に来なくなった。というのも、母親の監視の下、クラス順位を上げるため、必死に勉強しているのが関係しているのだろうが。それにしても、ここまで来なくなるなんて、今までの蛇石からは考えつかないことだ。
最後に彼女に会ったのはいつだろうか。
そうだ、俺がボーダーに入るって伝えたときからだった。気を遣って来ないだけなのかと思ったが、きっと彼女はそんな気の遣い方はしないだろう。じゃあ、何か理由があって避けているのだろうか。
考えれば考えるほどによく分からなくなり、いつの間にか遠くまで走っていたことに気づいた。近くの公園で給水を挟み、ぐるりと住宅地を回ってから家へと走り抜ける。すっかりと公園の木々も色づいており、だんだんと冬が近づいてくるのを感じる。
自宅に着いてすぐに洗面所に向かい、手をよく洗う。鏡に映る自分は汗だくだけれど、頬の血色もよくなり、以前のようなやつれた顔はしていない。
汗が引いてきたところで、この間綺麗に片付けた机に向かい、授業で追いつけていない単元の練習問題に取り組み始める。蛇石と出会った頃にもらったノート類を見ながら、自分の頭で噛み砕いていく作業を淡々と続けているが、元々勉強が苦手なわけではないので、その気になればいつまでもやれてしまう。まるで印刷されたみたいに綺麗に整えられた蛇石の字を見ながら、彼女がノート作りに必死に取り組む姿を思い浮かべると少し頬が緩んだ。
「秀次、遅くなってごめんね」
午後七時を過ぎたあたりで母が帰宅した。今日は仕事で遅くなるかもしれないと言っていたから、あらかじめ二合分のご飯を炊いておいたのだ。そのことを伝えると嬉しそうにありがとうと頬を撫でられた。別にこんなのどうってことないのに、母は少し大げさだ。
父はいつもより遅くなるらしいので、そのまま母と二人で食卓を囲むこととした。スーパーで買ってきてくれた新鮮な刺身と、朝から作り置きしてくれた味噌汁、そしてサラダでテーブルが埋め尽くされる。我が家の味噌汁は、いつも具材がゴロゴロ入っているから好きだ。今日は柔らかく下ゆでされた里芋と、歯ごたえのよいごぼうが入っている。シャキシャキとした食感を楽しみながら、どんどんと白米を口に運び、食べ進める。
「秀次、最近頑張ってるみたいね」
「うん」
「やりたいことが見つかったのはいいけど、ちゃんと学校には行きなさいね。せめて高校までは行ってくれないと」
「……分かってる」
そろそろ学校に行かなければならないとは思っていた。自分がこれからボーダーに入るにしても、ずっと勉強もせずにそれ一本でやっていけるのかと言われればそれは難しいだろう。また、親の脛を囓って生きていくつもりもない。
「明日、学校に行くよ」
そう母に伝えると、分かったと大きく頷いた後、味噌汁をズズリと啜りながら笑った。
夕食を済ませた後、母はクローゼットから取り出した学生服を俺の身丈に合わせた。
「結構身長が伸びたんじゃない」
そう嬉しそうに言いながら、母は袖口を合わせる。そういえば、いつの間にか母さんよりも目線が大分上にきたような気がする。
「……母さん、ありがとう」
今まで恥ずかしくて言えなかった言葉がぽろりとこぼれた。
この言葉を、何ヶ月越しに伝えることが出来たのだろう。母さんだって苦しかったはずなのに、そんな素振りを見せようとせずに気丈に振る舞ってきた母親は、俺の自慢の母親だ。
それを聞いた母さんは、恥ずかしそうにおどけた後、目に涙を溜めながら頭を撫でてくれた。俺も少しだけ泣いた。
◇ ◇ ◇
久しぶりに学校の校門をくぐると、周りからの視線を感じてつい下を向きそうになる。
以前、蛇石から生徒の人数が大分減ったとは聞いていたが、それにしても周りの人が多く感じ、視線から紛れるように肩をすくめる。
昇降口に入り、自分の下駄箱に靴を入れる。ところどころ上履きすら置いていないスペースが目にとまったが、これらはみんな、いなくなった人達なのだろうか。
教室のドアをそっと開けた瞬間、先ほどまでは賑わっていたクラスが一瞬で静かになる。
こうなる予想はしていたが、この空気の中には何とも飛び込みづらい。みんな、俺のことなんて無視してくれていいのに。しかし、ここで帰るわけにもいかないので、意を決して教室内へと足を踏み出す。自分の席が分からないので周りを見渡してみると、割と仲の良かった男子生徒と目が合った。
「三輪、久しぶりじゃん!! 久しぶりに会えてめっちゃ嬉しい!」
こいつの一言で、ようやくクラスに走っていた緊張感が緩和されたようだ。最初は恐る恐る俺をみていたクラスメイトも、次第に自然な表情に変わり、思い思いに雑談し始めた。
幸いにも席替えのくじで、友人の一つ後ろの席を引き当てたようで、自分の席に鞄を下ろし、よく回る友人の口から流れる言葉をさらりと聞き流す。
そういえば、まだ蛇石は登校していないのか、教室内には姿が見当たらない。
「そいや、三輪、どうなの?」
コソコソと耳元で小さく話す男の意図が分からず、何が?と聞き返すと、陰で噂が広まってるんだって! ととんちんかんな事を話された。
「だから何が」
「そりゃ、蛇石のことだって! 誰かが三輪の家に入るの見たって言ってたけど、本当?」
そうか、さすがに蛇石のことは噂が回っているのか。それにしても、興味津々でそう聞かれると、何て返答すればいいのかが分からない。本当のことを答えようものなら早速からかわれるに決まっているし、蛇石にも迷惑がかかってしまう。少し悩んだ末、俺は友人の方を向き、質問に答える。
「何回かは来たけど、全部担任から頼まれてただけだし、全部玄関先で帰ってる。というか第一、俺と蛇石に何かあるはずがないだろ」
中途半端に伝えると噂に尾びれが着いてしまうかもしれないと思い、出来るだけキッパリと否定して答える。「なんだ、蛇石とは何もないのかよ!」と大声で彼が話すので、あまり大きな声を出さないように制したが、クラス中の視線を集めてしまった。
まずい、こんなところであまり注目はされたくないと思い、暢気な友人の口を塞いでいると、いつの間にか教室の中には、紫がかった髪色のシルエットが浮かんでいた。
「……蛇石」
俺の声に反応してこちらを見たかと思えば、すぐに首をそっぽに向けて、廊下に向かってズンズン歩いて行ってしまう。
ここで追いかけてしまえば、先ほどの主張だって信憑性がゼロになってしまう。けれど、今はそんなことよりも、目の前で離れていく彼女の方が大切だった。
「蛇石、待て!!」
俺の制止の言葉なんて届かず、終いには廊下を全力で走る彼女を追いかける。しかし、さすがに足は俺の方が速い。すぐに追いついて、右手をとって引っ張ると、スイッチが入ったかのように急にわめきだした。
「何!! 何で急に学校来てるの!! 先に言ってよ!!」
「蛇石が家に来なくなったんだから言いたくても言えないだろ」
「……何、私とは何にもないって何なの」
「さっきの聞いてたのか」
「私と何かあるはずないって何!! むかつくんだけど!!」
まるで子供みたいに大声を出して問い詰める彼女は、普段とは考えられないほど幼く感じて、思わず笑ってしまう。
「……何、笑って。馬鹿にしてるの?」
そう言いながら、蛇石はへなりと床に座りこんだ。先ほどまでの勢いが急にしぼみ、どうしてしまったのかと俺も同じ目線までしゃがみ込む。ここまで情緒不安定な彼女はあまり見たことがない。
「……ばか、三輪君のばか」
「人に向かって馬鹿って言うなよ」
ポカポカと俺の胸板を叩いてくるが、力が弱すぎるから何のダメージも受けない。
「ばかだよ。急にボーダーやるなんて言い出して」
「まあ、びっくりさせたのは謝るけど」
「許さない」
「……」
「……私ね、あの日からずっと考えてて。別に三輪君じゃなくても、他に誰か代わりになる人がいるんじゃないかと思って」
俺は何と声をかければ良いのか分からなくなり、そのまま押し黙る。蛇石はうっすらと目を潤ませながら続ける。
「……でもね、ずーっと三輪君のことばっか考えちゃうんだよ」
もう、どうしたらいいの。
そう縋り付かれた瞬間、考えるよりも先に体が動いていた。
座っている蛇石の右手を引っ張り、自分の方へ引き寄せる。ぐらりと揺らいだ体を抱き留めて、背中まで目一杯腕を回すと、彼女は左肩のあたりを額でぐりぐりと擦った。
「……私なんて何でもないんじゃなかったの」
「さっきのが本心で言ってることじゃないって、蛇石も分かっているだろ」
「そんなの分かんないよ。ちゃんと言葉で示してよ」
「……言葉、」
すっかり拗ねた彼女に困惑しながらも、何て言葉で言い表そうか必死に頭を巡らせる。
「……そんなに困ること?」
呆れた様子の彼女から離れ、向かい合った状態で目を合わせる。また、初めて泣かせてしまったあの時みたいに、涙でぐちゃぐちゃな顔をしている。
「……学校はこれからちゃんと行く」
「……何それ」
「だから、蛇石とは毎日会える」
「……そうだけどさあ」
「でも、今みたいに避けられると傷つく」
「……」
「……俺はもっと蛇石と一緒に居たい」
そう意を決して伝えた言葉は、誰もいない静かな廊下に響き渡る。
口に出した瞬間、急に気恥ずかしくなってしまい、顔から火が出るほど熱くなるのを感じる。目を見ながら言うのはこんなにも恥ずかしいものなのか。せっかく伝えたというのに、向かいの彼女は何にも言い出そうとしないので、どうしたものかともう一度顔を上げると、また静かにぽろぽろ泣いていた。
どうして彼女が泣いているのか全く分からず、何て声をかけようか迷っていると、彼女は下唇を突き出していっそう顔をゆがめる。
「……ねえ三輪君、今のちゃんと聞いたからね」
「うん」
「やだっていっても一生離さないんだからね」
「……一生、か」
「……ねえ三輪君」
「何?」
「私も好き」
涙を浮かべながらもにっこりと笑う姿をみて、俺は心底安堵した。
目の前の彼女が笑うたび、涙を流すたびにドギマギとして、その手に触れたくなってしまうのだ。数か月前まではただクラスが一緒なだけの他人だったのに。ここまで俺の心に入り込んでおいて、ここでさよならなんて許さない。
一生なんて言葉はあまり使いたくないけれど、一生離すことができないのは、もしかしたら俺の方かもしれない。
蛇石の機嫌が戻り、一安心したところで何やら彼女から距離を詰められる。なんだなんだと後ろに後ずさっても、俺の後ろには壁があるのでもう下がれない。
一体どうしたんだ。その言葉が口から出かかったところで、強制的に唇を塞がれる。
初めての柔らかい感触と共に、蛇石の前髪が頬にかかってくすぐったくなる。不敵な笑みを浮かべた彼女の顔が離れた途端、今、この瞬間に何が起こったのか全く理解できず、その場で取り乱してしまう。
「……お、お前、今、」
「へへ。隙あり」
三輪君の初めて奪っちゃった。そう言って彼女はニコニコと立ち上がり、廊下のどこかに消えていく。俺はそこから全く動くことが出来ず、走り去る彼女の背中を放心状態で見つめるだけだった。
今、あいつは俺に何をしたんだ。唇に触れたのは、もしかして、もしかしなくても……。
◇ ◇ ◇
その後、俺は何も考えられなくなるほど頭が回らなくなり、チャイムが鳴るまで廊下で立ち尽くしていた。
やっと二時間目の始まりを知らせるチャイムで正気に戻ったけれど、教室でも勉強のことが頭に入らなくなるくらい、蛇石の顔がこびりついて離れない。窓側の一番前の席の蛇石は、時折後ろを振り返り、こちらを見てニヤニヤと笑いかけてくる。こんなことで動揺するなんて、今までの自分からは想像も出来ない。
それでも、こんな自分のことは嫌いではなかった。