7 白驟雨


 今日配付されたばかりの期末テストの結果表を、くるくると丸めて鞄に放り投げる。残念ながら一位にはなれなかったけれど、勉強も熱心にしていなかったのだから当たり前だ。周りのクラスメイト達が、順位が上がっただの下がっただの騒いでいる間も、私は席に座って手帳を開いていた。
 今日が終わったら明日明後日は休日だ。休日に入る前にもう一度三輪君の顔が見たいから、今日は学校が終わったらすぐに会いに行こう。

 最近の私は、昔よりも物事のとらえ方が明らかに変わったように感じる。一番分かりやすい変化といえば、周りに認められるためにやっていたことすべてが、突然味気なく感じ始めたことだ。あれだけ求めていた母からの賞賛の言葉も、テストの順位も、クラスメイトからの評価も、何もかもが面倒くさくなってしまった。
 それと同時に、勉強に張り合いがなくなった私に母はいち早く気づき、いつも以上に小言を並べるようになった。今日もらったテストの結果を見たら、母がどのような顔をするかは容易に想像できる。説教が始まると日を跨いでしまいそうなので、なるべく母に気づかれずに鞄を置いて、三輪君の家へ向かおう。そう決心し、退屈な授業をやり過ごして足早に帰路に着く。

 自宅の鍵を静かに開けると、先ほどまで料理をしていたらしいエプロン姿の母がバタバタと玄関先まで出てきた。音が鳴らないように細心の注意を払ったのに、この地獄耳は何とも恐ろしい。母はそろそろテストの結果が出る頃だと思っていたらしく、帰ってきて早々、配付物を見せるように言われてうんざりする。無言で鞄から結果表を取り出すと、強引に手から奪われ、母は眉間に皺を何重にも寄せた。
「何なのこの順位、ふざけてるの?」
 もっとヒステリックに怒るかと思ったけれど、静かに、腹の底にマグマを抱えたみたいに怒気を込めた声が玄関に響き渡る。
「貴女、最近はお友達と一緒に勉強してるって言ってたわよね。その割にこの順位は何なの? よっぽど頭が良くないお友達なのかしら」
 チクチクと嫌みたらしく並べられる母の言葉も、いつの間にか右から左へ流れるように頭から抜けていく。今までだったらもっと真剣に聞いていただろうけど、今では真面目にその言葉を受け取れず、それどころか耳障りに感じる。
「……しかも、最近三輪さんのところに入り浸ってるそうじゃないの。三輪さんところの息子さん、今は学校に行けていないんですってね」
 三輪さん。その言葉に肩がピクリと上がる。
 私がどこに行っているかなんて母に言ったこともないのに、どうして知っているのだろうか。
「あなた、男の子の家に上がり込んで、一体何をしているの?」
 その言葉を聞いた途端、全身に鳥肌が立ち上るのを感じる。
 母が言いたいことはすぐに理解できた。娘の行動を詮索して、あらぬ妄想を駆り立てているんだろう。本当に気持ちが悪い。私は今まで、母に良いところをみせるためにあんなに頑張ってきたのに、今までやってきたことすべてが母に踏みにじられたような気持ちになった。
「お母さんが心配しているような汚らわしいことは何もないから」
 そう言った瞬間、母の眉毛がつり上がる。私が思い通りにいかないことに腹を立てたのか、期末テストの順位表をぐしゃぐしゃにして床に放り捨てた。
「いつからそんな口を聞くようになったのかしら」
 母の小言を聞き終わらないうちに外へ向かうべく足を動かす。何かを叫んでいるようだけど、玄関から出てしまえばそれもすべて聞こえなくなる。
 無性に、三輪君に会いたくなった。

 ◇  ◇  ◇

 この家のインターホンを押すのは何回目なんだろう。ピンポン、と機械音が響いた後、彼は玄関から顔を覗かせ、「今日は何しに来たんだ」なんて呆れながら言う。私はいつもみたいに笑う余裕がなくて、黙って三輪君の胸に頭頂部をとすん、と当てる。
「……どうした?」
 さっきまでは母の怒りでいっぱいだったのに、三輪君を前にしたら途端に泣きたくなった。そんな私を察してくれたのか、だらんと伸びた私の手を引き、家の中へと連れて行ってくれた。

 リビングに通そうとしてくれたけど、今日は我が儘を言って三輪君の部屋へ案内してもらった。くちゃくちゃに丸まった布団と、綺麗に揃えられた本棚が何ともアンバランスだ。彼がベッドを背もたれにして座ったので、私もその隣に腰掛ける。
 さっきからソワソワと挙動不審な彼の裾を摑むと、大げさなくらいに距離を取られた。少しムッとしたことを顔でアピールすると、ごめん、と小さな声で言ってまた近づいてくれた。
「今日、母親と喧嘩したの」
「……そうなんだ」
「テストの順位が下がったから鬼みたいに怒ってきてさ。なんか笑えるよね」
 私が言った言葉に三輪君は何の返事も返さなかったけど、真剣に聞いてくれているのは分かるからそのまま続ける。
「今までは頑張れてたのになあ。最近張り合いがなくって」
 そう言い終わらないうちに、三輪君の左手が私の頭に触れた。
 おそるおそる、壊れ物を触るかのようにそっと撫でる姿を見ると、私は今までの出来事なんてどっかへ飛んでいってしまって、三輪君のことしか考えられなくなる。
「……三輪君」
 三輪君と向かい合う。目が合う。白く浮き出た喉仏がごくりと動いた。
「私今日、帰りたくない」
 三輪君の心臓の鼓動を聞くように、胸元に耳を当てる。
 そこには、ドクドクと大きな音を立てて動く心臓があった。
 そのままの姿勢で背中に手を回すと、彼の体は一層カチコチに強ばって動かなくなった。

 ◇  ◇  ◇

「あら! 蛇石さん、久しぶりね」
 三輪君が固まって動かなくなった後、何を話しかけても曖昧な反応しかしない彼をどうしようかと悩んでいると、ちょうどいいタイミングで三輪君のお母さんが帰ってきた。首のあたりで切りそろえられた黒い髪と、ネイビーのブラウスを身にまとった姿は、うちの母とは違う「仕事のできる女」像そのものだ。
「いつもお邪魔しています」
「こちらこそ、いつも秀次の話し相手になってくれてありがとう」
 そろそろ暗くなってきた頃だし、家まで送ろうか? 善意百パーセントでそう言ってくれるおばさんの言葉にどう返すか戸惑ったとき、横から三輪君がスッと間に入る。
「今日は家に人が居ないらしいから、どうせなら泊まっていけばって話してた」
 滅多に嘘をつかなさそうな三輪君の言葉に、私は呆気にとられてぽかんとしてしまった。それを聞いたおばさんが、それなら大歓迎! と言って、一階のキッチンへ足早とかけていく間、私はまじまじと三輪君を見つめ続けた。
「……何」
「別に。ただ、三輪君も嘘つけるんだと思って」
「だってそれは、帰りたくないってお前が……」
「ウフフ、ごめんごめん。ありがとうね」
 フン、と言いながらそっぽを向く彼の耳が少し赤くなっていたので、素直じゃないなあ、って小さく呟いたら肘で小突かれた。

 ◇  ◇  ◇

 三輪家の今日の晩ご飯はカレーライスだ。先ほどから自身のスマートフォンの通知がうるさいので、思い切って携帯の電源を切ってしまった。かかってくる電話はほぼほぼ家からだろう。私は今日一日家出をするのだから、そんなことはどうでもいいのだ。携帯を鞄の中にしまい込んで、「ご飯出来たわよ」の合図とともに、私たちは一階へと降りていった。

「初めまして。秀次の父です」
「初めまして。秀次さんのクラスメイトの蛇石といいます」
 話は家内から聞いているよ。そう言って穏やかに笑う父の顔には、三輪君の面影が少し感じられて、当たり前だけど血が繋がっているんだなあ、としみじみする。お父さんはいつも夜の十九時や二十時頃に帰宅するそうだから、今まで会ったことは一度もなかった。少し緊張してかしこまっていると、そんなに気負わなくていいからね、とおばさんに笑われた。
「蛇石さん、とっても優秀だっていろんなところから聞いてるわ。おうちの方もしっかりしてて」
「いえ、……全然そんなことないんです」
 こんなことを言われたら、今までは「優秀で当然だ」なんてふんぞり返っていた私だったけど、三輪君のお母さんに言われると、全力で否定したくなった。
「秀次も真面目すぎるくらいだけど、優しい奴だから。これからも仲良くしてあげて」
 白米をもぐもぐと咀嚼しながら、父が穏やかに笑う。父さん、なんて言いながら眉を寄せ、照れくさそうにしている三輪君を見ていると、何だか自分の家の食卓とはかけ離れているように感じ、少し背中がむずがゆく感じた。

 すっかりお腹も満たされ、おばさんの勧めるがまま一番風呂までいただいてしまった。寝る部屋はさすがに別室を用意してくれたので、眠くなるまでは三輪君の部屋にお邪魔させてもらうことにした。
 私がベッドの上に座ると、三輪君はベッドから立ち上がって座椅子の方へと移動していった。そんな彼の背中に向かって言葉を投げかける。
「ねえ、三輪君の家ってあったかいね」
「……そう?」
「うん」
 優しくて、落ち着いて、ぽわぽわとする変な感じ。こんなところにいればいつまでも眠れる気がするけど、三輪君はそうじゃないんだね。
 その後も、ぽつぽつと、どうでも良いような話を続けていると、途端に眠気が襲ってきてしまい、それから先は何を喋ったのか全く覚えていない。

 ◇  ◇  ◇

 目が覚めると、そこは見慣れない天井が広がっていた。白いシーツと耳元でカチカチ鳴る目覚まし時計が目に入り、ここは三輪君の部屋だと理解する。私はあの後、ここで寝落ちてしまったのか。きょろきょろと周りを見渡し、部屋の主を探しても、ここには誰も居なかった。
 もしかしたらと思い、私が寝るはずだった部屋のドアを静かに開けると、そこにはスウスウと寝息を立てる三輪君がいた。小さく丸まって、まるで猫のように眠る姿が可愛くて、思わず笑ってしまう。この目の下の隈も直に取れるといいのにね。
 ぴょんと跳ねた寝癖を指でつついても、彼はうんともすんとも言わず、ただ眠り続けている。
 私はずっとその寝顔を見ていたくなったけど、そろそろ家に帰らなくてはならない。

「あ、蛇石さんおはよう。よく眠れた?」
「おはようございます。おかげさまでぐっすり眠れました」
 朝から爽やかな三輪君のお母さんと廊下で鉢合わせた。そろそろ家に帰るということを伝えると、おばさんは送っていくとの一点張りだった。
「いえ、そんな、家も近いですし大丈夫です」
「大切な娘さんですもの。送らせてくれないかしら」
 家に誰もいないだなんて嘘をついていることはこの人に絶対バレたくなかったので、丁重にお断りをしたのだが、おばさんによってバッサリと切られてしまった。何度私が取り繕っても自分の意見を曲げないおばさんは、見た目によらず意外と頑固らしい。
「…じゃあ、玄関先まで、お願いします」
 最後に折れたのは私だった。

 三輪君はぐうぐう寝ていたのでそのままにしておいて、私とおばさんは、蛇石家への短い道を並んで歩いていた。
「昨日ね、ご飯を食べ終わって二人が上に上がった後、お父さんがとっても嬉しそうにしてたのよ」
「そうなんですか?」
「うん。どうしたのって聞いたらね、秀次があんなに穏やかな顔してるの、久しぶりに見たって言うのよ」
 私はあの時の三輪君の様子を思い起こす。
「あの子があんな顔するようになったの、蛇石さんが来てくれてからよ」
 その言葉で、私の体は羽が生えたように軽くなる。私が来てから、三輪君が変わった。お母さんの言葉を脳内で咀嚼した瞬間、私は浮ついた気持ちでいっぱいになる。空回りして怒られてばっかりだった日々が懐かしくなって、最初の頃は全然仲良くなれなくて、と愚痴をもらすと、あの子がとげとげしてたからよ、なんて笑って返してくれた。
 住宅地を抜けていくと、次第に自宅が見えてくる。玄関先に植えられた花はいつでも綺麗に咲き誇り、気持ちが悪いくらい手入れされた茂みをみると思わずぞっとする。
「あ、ここで大丈夫です」
 じゃあ、ありがとうございました。そう頭を下げると、また遊びに来てね、と快く手を振ってくれた。

 その時だった。いきなり玄関のドアが開き、私を待ち構えていたかのような母親が、ひどく怒鳴り声を上げた。
「あなた、外泊なんて何を考えているの!こっちへ来なさい!」
 鬼のような形相をした女が早足で近づき、髪をぐっと摑まれる。頭皮が引っ張られてブチブチと音を立て、あまりの痛みに目が潤んでくる。この人の前でこんな姿を見せるなんて最悪だ。
 いつもは体裁を気にして近所にはいい顔をする母も、今はそんなことお構いなしに玄関先で怒りをぶつける。それを制止してくれたのは三輪君の母親だった。
「すみません。娘さんを泊まらせたのは私です」
 凜とした声が頭上で響く。ああ、三輪くんのお母さんには迷惑をかけたくなかったのに、そう思うと泣きそうになる。少しひんやりとした朝の空気は、私の喉底にまで沁みてとても痛い。
「……またお宅なの。桔梗、こっちに来なさい」
 乱暴に腕を摑まれ家の中へと押し込まれる。後ろを振り返ると、心配そうな顔をして制止しようとする三輪くんのお母さんが見えた。
 玄関が閉められた瞬間、母に引っ張られた手は自分でふりほどいた。親に叱責されたことなんてどうでもいいのだけれど、あんなにいい人を巻き込んでしまった自分が嫌でしょうがなくて、その場で泣いてしまいそうだった。

 それからの展開は想像通りだ。
 正座した足の感覚がなくなるほど長い長いお説教を聞きながら、わざとらしいほどのすすり泣きアピールを黙って耐えるだけの時間が続く。この母親は、娘が自分の思い通りにならないことがよっぽど気にくわないらしい。耳にたこができそうなほど聞いてきた言葉を聞き流していると、ヒステリックになった母が急に立ち上がった。
「私は貴女を思って言っているのに!! どうして聞かないの!!」
 そうやってこの人が叫べば叫ぶたび、私の心は遠く離れていく気がした。

 ずっと見ないふりをしていただけだったかもしれない。
 私の家の中を吹く、奇妙な風の正体を。何もしゃべらない父のことを。「いいこと」をしないと褒めてくれない、母のことを。
 三輪君の家をみていると、自分の家庭が普通ではないことに気付かされてしまう。いっそ、知らないままの方がよかったのかもしれない。




 いつの間にか自分のベッドですやすやと眠る蛇石を見て、起こしてしまうのは悪いと思い、部屋から立ち去ろうとすると後ろから服をつままれた。狸寝入りをしているのかと思って、小言を言いながら後ろを振り返ると、スウスウと寝息をたてて眠る彼女がいた。どうやら起きているわけではなさそうだ。起こしてしまわないように彼女の手を離し、その寝顔をまじまじと見つめてみる。彼女のひときわ長い睫毛は蛍光灯の明かりで影を作っており、くるりとカーブした線が何とも女の子らしい。彼女は一体、何の夢を見ているんだろうか。

 彼女が家に帰りたくない理由は一体何だろう。
 人の心配ばかりしていて、自分の弱みは見せようとしない、いじっぱりな彼女のことだ。きっと直接聞いたとしても、彼女は言葉巧みにはぐらかし、この先ずっと話してくれなくなるだろう。そのことに少しむかついたので、腹いせに頬をつねろうと手を伸ばすと、ううん、と声を漏らしながら寝返りを打たれた。予想外の行動に、俺は思わず肩をびくりと震わせた。
 仕方ない、彼女はこのままここで寝かせてあげよう。そう決めて、今度こそ自室を出る。

 俺はそのまま廊下を進み、蛇石が寝るはずだった、父の書斎部屋の扉を開ける。母が用意した来客用の布団に寝転がると、ふかふかの羽毛布団から、ぷしゅう、と空気が抜けていった。
 天井を見上げていると、いつの間にか蛇石のことを考えていた。いつも夜遅くまで起きていると言っていたのに、今日なんて十時頃にはウトウトと眠りについていた。普段は夜遅くまで勉強に励んでいるのだろうか。普段の生活で無理をしているのではないだろうか。蛇石の顔が浮かぶ度、俺は心配な気持ちになる。頑張りすぎなくたって、そのままでいいのに。

 ◇  ◇  ◇

 いつもは寝入りまで何時間もかかるのに、今回ばかりはいつの間にか眠りに落ちており、母に起こされるまでは一度も目覚めなかった。
「秀次、起きて」
「……母さん、何?」
「……おはよう秀次」
 起こされた後、いつもと違いなぜか神妙な顔をしている母を疑問に思い、どうしたのか尋ねる。すると、母は先ほどまでの出来事を、一つ一つ真剣な顔をして説明してくれた。

「蛇石が……」
「蛇石さんが大丈夫なのか連絡したいんだけど、うちから電話をかけると向こうのお母さんが出ちゃうでしょ。秀次、蛇石さんの連絡先知ってる?」
 頭の中で携帯電話のメモリーを思い出す。クラスメイトだってごくわずかの男子の連絡先しか知らないのに、蛇石の連絡先なんて知っているわけもなかった。俺はこの数か月の間で、蛇石のことを少しでも理解している気になっていたが、連絡を取ることすらできないなんて。
「……駄目みたいね」
「ごめん」
「ううん、秀次が謝ることじゃない。 ……こちらから話しにいっても良いけど、蛇石さんに何かあると嫌だものね。どうしようかしら」
 顎に手を添えて考えこむ母をよそに、蛇石が来てくれないと何も出来ない、そんな自分にむかついて、また少し胃がキリキリと痛んだ。




「やっぱり、私立に転校しましょうか」
 正午過ぎ、昼食を食べるためにしぶしぶリビングへ降りてきた私に向かって母が言った。
「桔梗にはあの学校はレベルが合わなかったのよ」
 先ほどまでの怒り顔とは打って変わって、途端ににこにこして話す母にぞっとする。
「嫌だ。絶対に嫌」
「あなたの意見は初めから聞いていないわ」
 すっかり目が据わっている母をみて、これは本気で言っているんだということに気づき、鳥肌が全身に立ちこめる。私はただの中学生で、親の援助なしには生きていけない。そんな現実を突きつけられる。
 もし私立に転校したら、学校での三輪君との接点なんて一切なくなってしまう。それに、自宅から通わせてもらえるかなんて分からないし、放課後に会いに行くことも出来なくなるかもしれない。三輪君と一緒にいる楽しさを知ってしまった以上、今更彼に会えない日々なんて考えられず、悩みに悩み抜いた末、私は断腸の想いで母に縋り付く。
「……お願いします。勉強でも、なんでもする。良い子でいる。だから、だから、今の中学へ行かせてください」
 昔の自分なら、何の抵抗もなく言えた言葉だったかもしれない。でも、今の自分にとっては、母に頭を下げるなんて、屈辱以外の何物でもなかった。
 途端、母がにやりと笑う。
「あなたは口だけ達者じゃない。これ以上失態を晒したらどうするつもり?」
「学年1位だって、生徒会だって、何だってやってみせるから」
 娘に泣いて縋り付かれるのが気分がいいみたいで、途端に上機嫌になった母の目をじっと見つめる。できるだけ必死な気持ちが伝わるように、涙を流してみたりして、迫真の演技を繰り返すと、母は満足そうに私の頬をさする。
「二度目はないの、わかってるよね?」
 不気味な笑顔はまるで悪魔のようだ。私は聞き分けの良い子供を演じ、「ありがとう、お母さん」と一言言うと、母は突然立ち上がって上機嫌に夕飯の支度を始めた。
 こんな怪物に、私は十二年間も従順に生きてきたんだな。そう思うと、今までの期間がひどく空っぽのように思えてくる。
 今は、三輪君がいればそれでいい。そう言い切れてしまう日が来るなんて思わなかったけど、今の自分にはその言葉がぴったりであった。

 ◇  ◇  ◇

 先日の出来事なんて忘れたかのように、今日も蛇石家はいつも通りの朝を迎える。
 家族で食卓を囲み、無言で支度を済ませ、「行ってきます」だけを行って玄関を出る。学校でも授業なんて集中できないのに、学年1位を取ると決めたからには頑張らなくてはいけない。必死に公式を頭に詰め込んで、自分が応用できるまで何度も反芻し、飲み込み続ける。

「蛇石!!」
 授業が終わってからすぐに三輪君の家へと向かった。インターホンを鳴らしてから、彼が玄関に降りてくるのは早かった。あまりの必死さに少し照れくさくなり、「三輪君ってばどうしたの」なんて茶化してみる。
「あのなあ、どれだけ心配したか……」
「やだ、三輪君そんなに心配してくれたの?」
 頭をかきながら家の中へ入っていく後ろ姿は可愛くて、もっといじりたいと思ったけど、そこでやめてあげた。
「あ、それとね、今日からそんなに家に寄れなくなっちゃったの。でも、勉強とかいろいろ頑張れば、また一緒にいれるからね!」
 何でもないことのように話してみても、三輪君はどんどん真剣な顔つきに変わっていき、無理をしていないかと問い詰められる。
「無理なんてしてないよ。私は三輪君に会うためならなんでもするよ」
 私の本心を伝えると、三輪君は静かに俯く。

 そんな複雑な顔をしないでよ。私が好きでやっているだけなんだから。



 蛇石を待っているだけの、そんな自分が嫌いだ。
 会いたいと思っているのは彼女だけじゃないのに、何も伝えず、逃げようとする自分が。世間から、すべての現実から逃げて、ただ守ってもらうだけの自分でいることが、嫌で嫌でたまらない。
 何かを変えたくて、ずっと締め切っていたカーテンを開いてみる。
 眩しい光が差し込んで、思わず目を細める。

 そのまま、ゆっくりと窓を開ける。
 ふんわりと柔らかい風と共に、金木犀の香りが部屋中に立ちこめる。
 この部屋の窓を閉め切ってから、こんなに時間が移ろっていたとは。部屋の籠もりきった空気も一瞬で入れ替わり、少しだけ、息がしやすくなったような気がした。