9 甘雨
「三輪君、お弁当食べよう」
そういって弁当を手に持つ彼女は、すっかりと周りの目など気にしなくなったらしい。俺がいくら周りに否定したって、蛇石は堂々と俺に構うものだから、すっかりクラス中に知れ渡ってしまった。まあ、別に知れ渡って困る事なんて、クラスの男子からの冷やかしくらいしかないのだが。
「あ、三輪君のお弁当、グラタン入ってる」
そのグラタンおいしいやつだよね。ニコニコと見つめながら言うのは、俺に寄越せって催促しているのだろうか。彼女の弁当には冷凍食品が一切入っておらず、俺の弁当をみると毎度目を輝かせる。一口ぐらいならいいだろうと思い弁当を突き出すと、彼女は満足そうにそれをすくい、口の中に入れた。
「んー、毎度の事ながら美味しい……」
「満足したか」
「うん。お礼にどれかあげるよ」
そう言って差し出した弁当の中から、美味しそうな卵焼きを選んで口に運ぶ。蛇石の母親の料理の腕前は一級品で、出汁が口いっぱいに広がる卵焼きは、食べる人を幸せな気分にさせる力がある。
「三輪君、今日も放課後は試験勉強?」
「うん。そろそろ試験も近いから追い込みする」
「そっか。ボーダーに入っちゃったらどのくらいの頻度で会えるのかなあ」
以前のように「入らないで」と拒絶することもなく、俺がボーダーに入るのは決定事項のように話す彼女の口ぶりにクスッと笑った。
「三輪君はさ、ボーダーに入ったら何やりたいの?」
「そんなの決まってる。近界民を殲滅するだけだ」
「ふふ、おっかないなあ」
こちらが真剣に返したというのに、ふにゃりと笑う彼女からは、ちゃんと伝わったのか不安になるくらい緊張感が感じられない。そんな俺の考えをよそに、彼女は口を開く。
「ねえ、私を近界民から守ってね」
「……当然だ」
「代わりに私が三輪君を守るから」
あまりにもまっすぐに、蛇石の紫色の瞳が俺を見抜いて離さない。
あ、でも近界民からは無理かもしれないなあ、なんて言ってふざけて笑っているけれど、彼女の目の奥底は全く笑っていない。それが本気の言葉だということはなんとなく察した。
俺は一つ深呼吸した後、目の前の彼女を見つめ返す。
「……分かったよ。俺のことは任せた」
「……何、今のプロポーズ?」
「違う! お前が守るって言ったんだろ!」
「へへ、冗談だってば」
そう言いながらおどけられると拍子抜けしてしまう。まったく、何を思って言ったんだか。
蛇石のせいでまったく弁当が進まない。彼女の笑い声一つに、しゃべり声一つに耳を傾けて手を止めてしまう。彼女を守れなかったら、俺はどうなるんだろう。
(守れなかったらじゃない。守るために、ボーダーに入るんだろ)
ボーダーに入りたい、そう強く感じた一番の動機が頭に浮かんだ。守られてばかりの情けない自分とはここで決別する。
「……三輪君、皺」
その言葉とともに、眉間の間に指を突き刺される。また皺が寄っていたらしい。最近は皺が寄るたび彼女に注意される。
「何考えてるか知らないけど、もう離れていかないでよね」
先に離れたのはそっちだろ。言いかけた言葉を飲み込んで、俺は小さく頷く。
「……絶対守るから」
自分に言い聞かせるよう、かなり小さめに呟いたはずなのに、地獄耳の蛇石には届いていたようでぱちりと目が合う。先ほどまではスイスイと箸が進んでいたのに、それを言った瞬間に、ぴたりと動かなくなり、借りてきた猫みたいに大人しくなった。
「……三輪君ってそんなことも言えちゃうの。なんか悔しいんだけど」
改めてそう言われると途端に気恥ずかしくなる。もう何も喋ってやらないと思い、残った弁当に急いで手をつける。すると、私もボーダーに入ろうかな、とぼそっと彼女が呟いたから、それはやめた方がいいと全力で阻止し続けた。