1 霖雨


 近界民による大規模侵攻。その標的となった三門市では、総人口二十八万人のうち、千二百人もの人が息を引き取り、四百人は未だ見つかっていない。
 今でも瓦礫が積み上げられたままの道路、跡形もなく潰された家屋たち、そして行き場のなくなった人々が多数存在する。
 侵攻からわずか数日の間で、市内では甚大な被害が広がり、当たり前の毎日が一瞬で壊された私たちは、得体の知れない怪物相手に為す術もなく、ただただ逃げ惑うしかなかった。

 それでも、絶望的な状況が広がる三門市に、一筋の光が差したのだ。
 それは侵攻中に突如現れた界境防衛機関、いわゆるボーダーという組織だった。これらは突然やってきた近界民というものに一太刀浴びせると、たちまち凶暴な怪物たちを撤退させることに成功したのだ。
 甚大な被害を被った三門市だが、このボーダーという組織の助けがなかったら、もっと絶望的な状況になっていたかと思うとぞっとしてしまう。
 その事もあって、三門市の人間は皆ボーダーに感謝し、絶大な信頼を寄せている。

 私、蛇石桔梗もそんな三門市民の一員である。私の居住区周辺は被害が大きかったものの、幸いにも自宅への被害は少なく、家族とともに五体満足の状態で避難することができた。
 そのため、誰かを失ったり、家を失ったりして悲しみにふける人を見ると、心配する気持ちよりも先に、「自分がああならなくてよかった」という浅い考えが先に頭に浮かんでしまう。
 それどころか、まるでテレビの中の世界を見ているように現実味がなく感じられ、自分の身近な出来事とはあまり思えなくなってしまった。
 人の心がないと咎められてしまうかもしれないけれど、これが私の本音であった。

 ◇  ◇  ◇

 シトシトと毎日降り続いていた雨もようやく上がり、青々と緑が一斉に主張しだす季節に移り変わった。ずっと雨に濡れていた紫陽花もようやく太陽に照らされ、いつもよりもしゃんと背筋を張っているように見える。
 梅雨明けと共に、ずっと休校だった学校がようやく再開されることとなった。

 休校前は長袖だったセーラー服も、今日からやっと半袖に変わる。ぴっしりとアイロンがかけられたスカートや靴下を履き、身支度が済んだら、昨日のうちに用意しておいたスクールバッグを持ってリビングへ降りる。

 リビングには既にスーツを身にまとった父親と、朝食を作り終わった母親が並んで座っていた。
 私は母の向かいの席に座り、ちいさくいただきますをする。今日の朝ご飯は白米、かぼちゃの味噌汁、白身魚の煮付けと牛乳だ。ホロホロに煮込まれた白身魚を口に運ぶと、一息ほっと心が緩む。
 テレビからは、今まで散々見てきたような三門市の映像が繰り返し流されている。今日も食卓では、何の会話も進むことなく、ただ箸だけが進んでいく。

 どれだけメディアや街の人が侵攻について騒いでいても、両親はそのことについて一切話題に出そうとしない。まるであの日に何も起こらなかったと錯覚してしまう程に。
 それが奇妙だとは思うが、だからといって別にどうとも思わない。ただ、この家の中だけがどこか浮世離れしているような、三門市にいるのに三門市ではないような、そんな奇妙な雰囲気を感じている。
 今日もいつものように無言で食卓を囲み、唯一発した言葉は、出かける際の「行ってきます」の一言のみ。周りの騒ぎにも流されない、これが蛇石家の日常であった。

 長い通学路を歩き、校門をくぐると、彼方此方で再会を喜ぶ人の声が聞こえる。手を取り合って嬉しそうに笑い合う姿が視界に入るが、誰も彼もどことなく落ち着きがない様子だ。別にそれらに対してたいした興味は湧かず、そのまま目をそらして教室へと向かった。
 昇降口は砂の匂いがして、数か月しか経っていないのに、なんだか懐かしい気持ちになった。

 クラス内はまるでお通夜のような静けさだった。
 それもそのはず、この三門第一中学校は、報道によると三門市の中で一番被害が大きかった地区に建っている中学校だ。休校中にも皆が無事か、学校からメールが回ってきていたりしたが、それに一体どれだけの人が返信したのだろうか。ざっと教室を見渡す限り、いつもの半分くらいの人数しかいないように感じる。
 誰が巻き込まれて、誰が行方不明になったのか、私は何も知らない。今日来ていない中にはもう三門から離れていった人や、怖くて学校に来られなくなった人もいるだろう。正直、それが普通の反応だと思う。
 今学校に来ている連中だって、何を話せば良いのか分からず、阿呆みたいに愛想笑いを浮かべて言葉を探っている。
 それを反映するように、教室の空気もどんどん淀み、息がしにくくなってくる。それは皆も同じのようで、この空気をなんとか打開しようと、なかなか浮かばない言葉たちを必死に押し出しているようだった。

「竹縄くん、まだ見つかっていないんだってね……」
 静けさを壊すように口を開いたのは、クラスカーストでも中間あたりに属する女子だった。一人が話しかけると、隣のもう一方の女子が相槌を打つ。彼女たちのぴっちりと一つに結ばれた髪が、素行の真面目さを物語っている。
 二人のヒソヒソ話を皮切りに、周りではどこの誰が行方不明だとか、もう引っ越していっただとか、そんな噂話が流れ始め、それらはすぐに教室中を埋め尽くしていく。
 もうすぐ始業前だというのに、教室にいる人の数は先ほどと大差がない。ここにいないクラスメイトが誰かすら分からない私は、普段から相当周りの人に興味がないんだと感じ、自嘲気味に笑ってやった。

「ねえ、蛇石さん。竹縄くん早く見つかるといいよね……」
 さっきまで眉をひそめながら話していた同級生達に突然話を振られる。
 私は貴女達と仲がいいつもりなんてないんだけど。そう思いながらも、いかにも心配していることが表情で伝わるように、顔の筋肉に力を入れる。
「本当だよね。すごく心配」
 同級生達は私が同意したことに安心したようで、そうだよね、といいながらまた話を広げだした。
 第一、こんな同意の押し付けのようなことを話されても、「いいや、私には関係ない」だなんて言えるわけないのに。周囲の価値観に自分が沿っていることを確認するために、他人に同意を求めて安心するなんて馬鹿馬鹿しい。
 正直顔も知らない人の話なんてどうでもいいけれど、ここで話から抜けるのは角が立ってしまうのでぐっと堪える。
「そういえば、三輪君のお姉さんも亡くなったって聞いたよ」
「そうなの。だから今日来ていないんだ」
「……こんなことがなければ、今頃クラスみんなで楽しく過ごせてたのに」
「そうだよね」
 私も適当に「うんうん」「分かるよ」と薄っぺらい言葉を並べながら相づちを打つ。
 目の前の二人は心底心配しているような口ぶりで話すけれど、私には「自分じゃなくて良かった」という本心が丸見えに感じ、彼女達の顔がひどく歪んで見える。私の顔も端から見るとこんなに歪んで見えるのだろうか。

 浅はかで中身のない会話にあまり加わりたくないとは思うけれど、話題に上がっている「三輪」の顔が思い出せず、モヤモヤした状態のまま席を立つのはすっきりしない。三輪、みわ、ミワ。名前は聞いたことがある気がするのに、肝心の顔が思い出せないということは、クラスでもそこそこのポジションだったんだろうか。
 考えれば考えるほどわからなくなったので、そこで思考することを諦めた。

 ◇  ◇  ◇

「蛇石、通学路が三輪と同じ方面だろう。悪いが宿題を持って行ってやってくれないか。」
「……はあ」
 下校しようとしたその時、急に担任に呼び出されたかと思ったら、見事なまでの雑用を押し付けられた。そこでも今日だけで何度も名前が挙がっていた人物の名前を出され、それが誰だか分からない私は少しうんざりする。
「この調子だとしばらく授業も進められないし、別にプリントなんて配らなくてもいいと思うが、うるさい親御さんもいるもんでな」
 悪いな蛇石。そういって笑う担任に対して、「これくらいお安いご用ですよ」と心にもない言葉を吐く。
 家が近いって言われたってどこに住んでるのか知らないけど、近所に住んでいるクラスメイトの家すら知らないなんて思われたくなくて、ついつい引き受けてしまう。学区の地図を探せば何とかなるかな、そんなことを考えながら廊下を歩く。

「……もっと長い間休校にしちゃえばよかったのに」
 ボーダーが出てきたからって、まるっきし安全だと判断するには些か早すぎるんじゃないか。
 学校なんて、何も考えていない猿みたいな奴がたくさんいる場所だから、近界民とかいう奴らが来たらひとたまりもない。私はそこに巻き添えを食らうのなんてごめんだ。
「はーあ、つまんない」
 自分のことばかり考えている馬鹿なクラスメイトも、いつものように雑務を押しつける担任も、全部が全部面倒くさい。
 私のことを一番分かってくれるのは、やはり家族だけだ。家族は私のことを正当に評価してくれる。周りの薄っぺらい褒め言葉なんかとは比べものにならないくらい、私のことを褒め称え、認めてくれる。

 こんな猿しかいないようなところで時間を浪費するなんて勿体ないけれど、学校に行かないとそこで人生の選択肢が狭まってしまう。
 良い高校、大学に行って、誰もがうらやむ大企業に就職する。それは耳にたこができるほど聞かされた、母からの言葉だ。
「三輪、秀次……」
 どんな顔をしてたっけ。
 私は思い出せないまま、顔すら分からないクラスメイトのためにプリントを持って下校した。

 ◇  ◇  ◇

 家の玄関を開け、土間に貼ってある学区の地図を指でなぞる。三輪、三輪、三輪……。目をこらしながら確認すると、家から数十メートル離れたところに「三輪」の文字を発見した。
「わ、本当に近い」
 これなら三分もかからないうちに着くだろう。靴を脱ぐのが面倒なので、そのままの格好で三輪家へ足を運ぶこととした。

 十六時過ぎだというのに太陽は一向に休むことなく、私の背中をジリジリと照らしてくる。さすがに立っているだけでは汗は出てこないが、少し体を動かせば、老廃物が押し出されるようにじわじわと全身を汗がつたってくる。
 汗が垂れていくのを我慢し、数分足を進めていくと、やがて、クリーム色した家の表札に書かれた「三輪」の文字が目に入った。玄関前で一度咳払いをして、インターホンに指を指す。
 機械的な音が鳴り響いた後、二拍ほど置いてから「……はい」と母親らしき女性の声が聞こえた。声のトーンは低く、少し暗い印象を受ける。
「私、秀次さんと同じクラスの蛇石といいます。プリントを届けに来たのでポストに入れておきますね」
「……あらまあ、ありがとうね。少しそこで待っていてね」
 私がその言葉に返事をする前に、パタパタと足音がした後、音を立てて玄関のドアが開けられる。
 そこに立っていたのは、少し小柄ではあるが、所々に気品を感じられる、短い髪の女性であった。背中の丸まりと、目の下にこびりついた隈がなければきっと綺麗な母親なんだろう。
 どうして玄関先まで出てきてくれたのか意図が読めず、立ち尽くす私にくすりと微笑み、口を開いた。
「わざわざ届けてくれてありがとう。少し中に入っていかない?」
 女性の疲れきったような顔を見ると、そんなことよりも早く寝た方がいいのではないかと思ったが、せっかく声をかけてもらったのにこのまま帰るのも気がかりに感じ、それでは少しだけ、と家に上がらせてもらうことになった。
 これが全く違う相手だったら即答で断っていただろうが、この人はなんだか、他の人とは違う、何か惹かれるものを持っているような気がし、私は吸い寄せられるように敷居をまたいだ。

「秀次はクラスでどんな感じ?」
 あの子全然自分のことを話してくれないから、三輪の母親はそう言いながら、目を伏せたままコーヒーカップに手を伸ばす。私も同じように、出された真っ白のコーヒーカップに手を伸ばす。
「……秀次君は周りをよく見ているので、いつも大変そうな子に気がついて、さりげなく助けてくれています」
「ふふ、あの子が? ……なんだか嬉しいな」
 正直三輪の顔すら覚えていなかった私だから、三輪の普段の様子なんて知るはずもないけど、親が言われて嬉しいだろうなあなんて言葉をつらつらと並べる。誰も傷つけない嘘なんだからいくらでもついていいだろう。目の前の女性の気苦労が少しでも減るのだったら、それでもいいのではないか。
「蛇石さんはしっかりしてるのね。あなたのところは……大丈夫だった?」
 女性が言わんとしていることはすぐにわかった。私はすかさず、家も、家族も、幸いにも被害は少なかったです、と伝える。
「そうなの、それは安心ね。……それに比べてまったく、こんな見窄らしい格好になっちゃって、私が秀次を支えてやらなきゃいけない立場なのにね」
 秀次の同級生に弱音を吐いちゃうなんて、本当に駄目な母親ね。自嘲気味に無理して笑う母を目の前にして、いつもは感じることのない想いが揺れ動いた気がした。
「お母さんは、別に駄目なんかじゃないと思います」
 これは、先ほどのお世辞と一緒なんかじゃなく、私の本心から思って出た言葉だった。
 それを聞いた三輪の母親は、少し乾燥した唇を一度キュッと紡いだ後、少しだけ口角を上げる。それを見ていると、尚更この人の息子に会いたくなった。
「三輪は……、いえ、秀次君は、どこにいますか?」

 ◇  ◇  ◇

 まだ気が立っているかもしれないけどね、そう気がかりそうに伝えた母の言葉を受け取りつつも、私は内心ワクワクしていた。
 それもそのはず、この扉の向こうには、あの綺麗な人の息子が、そして私のクラスメイトがいるのだ。弾む息を整えようと、扉の前で一つ深呼吸をする。

 三回部屋をノックすると、奥から「母さん?」と、今にも消えてしまいそうな声が聞こえた。
「……蛇石」
 ドアを開けると、真っ暗な部屋のベッドの上に、布団を巻き付かせた状態で座っている男の姿が見えた。
 電気はつけていないけれど、カーテンから漏れ出す明かりで、お互いの顔が認識できる程度には明るかった。
「何しに来たんだ、帰れ」
「三輪、私の名前知ってたんだね」
 私は顔すら思い出せなかったのに。そう心の中で呟いて、目の前の男の顔をまじまじと見る。これだけ間近で見ていても、その顔にピンとくることはないので、私はそもそも三輪の顔をちゃんと見てなかったのかもしれない。
「帰れって」
「お見舞いに来たの。また学校に来れる日を楽しみにしてるね」
「帰れ!!」
 ひときわ大きな声とともに、目の前に目覚まし時計が飛んできた。一瞬時間が止まったように感じ、スローモーションの中、背中を丸まらせながら体を守ろうとする。
 しかし、それを避けることは出来ずに左頬の辺りに直撃してしまった。床に落ちた目覚まし時計が大きな音を立てた後も、彼は何も言わず、しばらく沈黙が続く。
 じんじんと痛む頬からは現実味を感じられず、ああ、投げられたんだ、ということを時間差でやっと気づいた。ちらりと投げられた先を見据えると、ベッドの上に座った彼は、荒い呼吸で目を見開き、いかにも殺気立った様子であった。
 そんな焦燥しきった彼の姿をみていると、心の底から「こんな風になって可哀想」、というような感情がわき上がってくる。
 瞳孔の開いた赤い眼は、真っ直ぐに私を捉えて離さない。
「三輪君、また来るね」
 じわじわ痛む頬を擦りながらそう伝えると、何も言わないまま、鋭い目つきでスッと睨み付けてきた。布団の隙間からこちらを覗くその眼光が鋭くてゾクゾクした。頬が痩けて顔も青白いのに、どこか惹きつけられてしまうのはなぜだろう。
 扉を背にした後も、ドクドクとうるさい鼓動が鳴り止まない。頬辺りに熱が集まるのを感じ、手の甲をそっと当ててみるとひやりとした。
 先ほどの彼の顔が頭から離れず、扉の前から一歩も動くことができない。
 陰気臭い彼の表情も、部屋に広がる男の子独特の臭いも、私の心拍数を増加させるのに十分な材料だった。頬の熱は一向に冷める気配がなく、それは投げつけられた目覚まし時計のせいじゃないことはすぐに分かった。

 リビングへと降りる階段を歩くと、下から心配そうな顔をした三輪君の母の姿がみえた。
「物音がしたけど大丈夫だった?」
「ああ、ごめんなさい。暗くてよく見えなくって、秀次君の荷物を落としちゃったんです」
「そうなの。ごめんなさいねあんまり片付けさせてなくて」
「いえ。突然押しかけましたから」
 それでは帰ります。そう母に伝えると、たいした物じゃないんだけど、と言いながら和菓子店の袋を手渡された。お気遣いなく、と建前を並べて押し返したけど、目の前の女性は決して受け取ろうとはしない。自分がこんなに限界なときにまで他人への気遣いを欠かさないなんて、なんて涙ぐましい母親なんだろう。
「今日は蛇石さんとお話できて良かったわ。誰かと話していないとおかしくなっちゃいそうで」
 玄関先でそう話す姿をみて、先ほどの三輪君から感じた物と近しい感情が上ってくる。自分の母親と同じ年の人に思うなんて変だけど、庇護欲というか、自分が側に居てあげたいと思うような何かが。
「私も、今日はおばさんと話せてよかったです」
 それでは、と一礼し、三輪家の玄関をくぐる。

 三輪秀次。小さく布団で蹲り、私を強く睨み付けてきた姿を思い浮かべる。
 彼を見ていると背筋がゾクゾクしてたまらなかった。その感情とともに、もっといろいろな事を知りたいという探究心がわき上がってくる。
 ねえ三輪君、お姉さんとは一体どんな別れだった? 三輪君は近界民に襲われたりしなかったの? 近界民のことはどれくらい恨んでいるの? どれもこれも聞きたいことばかりだ。

 今まで他人にこんな興味を駆り立てられたことなんてなかった。だって、母の言うとおりに物事を進めれば、それと同等の対価が得られたし、興味を持っても意味がないなんて思っていたから。それも全部分かってるくせに、自分から何かをやりたい、してあげたいなんて思う日が来るなんて。

 どうしようもなく感情が高ぶり、体中をぐるぐると忙しく走り回るのを感じる。
 今にも駆け出したいという欲求を押さえられず、家までの短い距離を小走りで走り抜けていく。たっ、たっ、たっ。リズミカルに足を踏み鳴らし、自らの頭上に目を向けると、入道雲が空を埋めつくさんとばかりに侵食しているのが見えた。
 三門市には、すっかり夏の風が吹いていた。