2 片時雨


 つい数日前にも訪れた、クリーム色の外壁をした落ち着いた家。外壁をよく見ると、ところどころ新しく補修されたような痕が残っている。今日は担任に頼まれたわけではないが、三輪君の席にどんどん溜まっていく配付物が目に留まったので、担任から許可をもらい、クラスの代表として届けに来たのだ。本当はこんなものは口実で、ただもう一度彼に会いたいだけだったけど、その思惑は周りには気づかれるはずもないだろう。
 インターホンの前に立ち、手鏡で自分の身なりを確認する。よし、髪の毛の変な跳ね癖は取れたし、スカーフも曲がっていない。一つ、すうっと深呼吸してからボタンを押すと、静かな空間にインターホンの音だけが響き渡った。

 私はワクワクしながらインターホンをずっと見つめていたのに、何秒経っても何の変化も起きることがない。手持ち無沙汰で持ってきたプリントをパラパラめくっていると、後ろから嫌味のように閑古鳥の鳴き声が響いた。それが何だか馬鹿にされたみたいに感じて、思わず振り返って睨み付けてやると、そいつは大きな音を立てながら慌てて何処かへ飛んで行った。
 改めて玄関先に目を移しても、人の気配どころか、物音すらせずにがらんとしている。前回はすぐに出てくれたのにな。二階の窓にはカーテンがかかっていて、中の様子なんて分かるはずもない。私は一つため息をついた。
 前回はたまたまお母さんが居たから会えただけであって、家に三輪君一人の時はインターホンにすら出てくれないのかもしれない。私はその可能性のことがすっかり抜けていたことに気づき、玄関先で固まってしまった。

 ◇  ◇  ◇

「秀次、インターホン鳴らなかった? 蛇石さんが来てたみたいだけど」
 母が帰宅早々、そう言いながら自室の扉を開けた。そういえば、夕方頃に来客があったのはそれだったのか。インターホンの音は聞こえていたが、この部屋から出る気力なんてあるはずもなく、ただ床に横たわっていた。「寝ていて気付かなかった」と返答すると、母の顔がみるみる曇っていく。
「そんな顔しておいて寝てただなんて嘘でしょう」
 もう、ちょっとは寝てほしいのに。母はそう言いながらベッドの上に紙束を置き、はあ、と一つため息を漏らす。
「何それ」
「これ、蛇石さんが持ってきてくれたみたい」
 そう言って一枚の紙を差し出される。ノートを千切ったようなペラペラの紙には、やけに綺麗に整った字で「また来ます 蛇石」と書かれていた。
「今度来たら、蛇石さんにお礼を言わなきゃね」
「……別に来てもらわなくていい」
「こら秀次、次は無視しちゃ駄目だからね」
 母にビシッと言われてしまうと何も言い返せなくなる。ちらりと紙束に目を移すと、雨にも濡れないようにご丁寧にビニール袋がかけられていて、彼女の徹底した几帳面さが感じられ、思わず眉を寄せた。

 正直に言うと、学校で初めて会った時から、彼女のことは少し苦手だった。
 いつだって張り付けられたような笑顔を振る舞い、成績優秀、おまけに運動神経だって抜群で、周りからの信頼も厚い。そんな嘘みたいに完璧な人間なんてあり得ないだろう、とずっと思っていた。
 一度だけ、学校で彼女と話したことがある。それは、クラスの目立つ同級生に、休日姉さんと一緒に歩いているのを見られて、散々からかわれた時だった。その時の俺は、何でそんなことを面白おかしく言いふらすのか理解ができなかったが、中学生の男子というのは、一般的には家族と一緒にいるところを見られるのが恥ずかしいらしい。俺はそんなこと全然気にならなかったし、ネタにされても別に何とも思わなかった。それでも飽きずに奴らは教室の隅で固まり、俺の話だけでは留まらずに、あいつはああだとか、こいつはこんなだとか、嘘か本当か分からないような話をヒソヒソと続けていた。
 そんな中、ちょうど前の席に座っていた彼女、蛇石桔梗は静かに後ろを向き、俺の眼をすっと見据えた。
「ねえ、何も言い返さなくていいの?」
 いかにも優等生らしい口ぶりで話しかけられたが、それは正義感からくるようなものではなさそうだった。どちらかというと、単純にどうしてなのか、疑問を持っているような、そんな言い方だった。
「別に。本当のことだし、どうしてヒソヒソ話されているのか分からない」
「……真っ直ぐだね」
「何が?」
「不器用なくらい真っ直ぐ」
 なんだかその言葉が、自分を馬鹿にされたように感じて思わずムッとした。薄ら笑みを浮かべるその表情は、普段の張り付けられた笑顔と何も変わらないけれど、今回は特に気に入らなく感じた。
「何だよそれ」
「適当に話を合わせれば標的にされないのに。君ってなんだか生きづらそうだね」
 目の前の彼女はそう言いながら席を立った。教室の後ろのごみ箱に向かったかと思うと、淵の方で固まっている男共を一瞥した後、颯爽と教室から出ていった。

 彼女とは、それ以降話したことも、目が合ったこともなかった。
というか、こんな出来事が合ったことも、つい最近まで忘れていた。それなのに、また顔を合わせることになるなんて。
 彼女の、さも何でも知っていますよ、と言わんばかりの深みを持たせた表情が苦手だ。前回家に来たときだって、「名前知ってたんだね」とか白々しく言いやがって、本当はお前の方が俺のことを忘れていただけだろう。
 俺がこうして苛々している内にも、あいつは器用に何でも物事を進めていくのだろうと思うと、尚更やりきれない気持ちになった。

 ◇  ◇  ◇

 その後、夕方にインターホンが家に鳴り響いたのは、前回からたった一夜明けた頃だった。
 今日も母は日勤、父は十九時まで帰ってこないだろう。前回母に釘を刺されたこともあり、しぶしぶベッドから移動し、受信機の前に立つ。
 受信機の画面に映っていたのは予想通りの人物で、内心このまま無視したいと思いつつも、やけくそで通話ボタンを人差し指で押す。
「……何」
「へへ、ほっとけなくてさ」
「迷惑だから帰れ」
 そう吐き捨て、強制的にインターホンの電源を切る。前回のように無視をした訳ではないのだから追い返したって問題ないだろう。大きく息を吐き、呼吸を整えた後、自室へと向かう廊下に足を進める。すると、閉められた玄関の扉をドンドンと叩き、「三輪さんいますか、三輪さん!」と分かりやすく声を張り上げる女の声が聞こえた。

「お前、大声を出すな! 他の家に勘違いされるだろ!」
 仕方なく玄関から顔を出すと、至近距離に頭のおかしい女の姿が目に映った。彼女は俺の顔を見ると、安心したかのようににやりと笑った。それに何だか苛立ち、このまま扉を閉めようとした瞬間、その隙間に器用に足を挟み込まれた。
「お邪魔します」
 そう言って玄関の扉を両手で力いっぱい引っ張られる。いつもだったら負けることはないと思うが、今回ばかりは力で負けてしまい、人ひとり分入れるような隙間にするりと侵入される。何なんだこいつは。
「何してる……」
 もっと他に言いたいことはたくさんあったが、呆れてしまってそれ以上言えなくなった。ゼエゼエ息を乱す俺が面白いのか、彼女はくすっと口角を上げる。
「今日はお母さんは?」
「……夜まで仕事」
「そう。ご飯食べた?」
「……関係ない。帰れって」
 こいつにペースを乱されないように、あまり彼女の方を見ないようにする。何か言いたげな間を置いてから、小さなため息とともに彼女が口を開く。
「ねえ、こっち見てよ」
 そう言えば、誰でもお前のことを見るとでも思っているのか。まるで子供みたいに強請る声色が気に入らず、自分の中でムクムクと反抗心が湧き上がった。俺も子供みたいに、わざと彼女とは真反対の方向を向いてやる。
「……実はね、今日は三輪君と悪いことしようと思って来たの」
 俺の反抗を見通していたのか、後ろから嬉々として呟く彼女の声が聞こえた。彼女の言っている意味がわからず、思わず反射的に彼女の方を振り返ると、彼女はこちらを見ながら満足気に笑っていた。彼女の思惑にまんまとはまってしまったように感じ、しまった、と心の中で呟いた。

◇  ◇  ◇

 前々から苦手だった彼女が、「今日は悪いことしようと思って来た」なんて言うものだから、一体どんなものが飛び出てくるかと思っていたら、目の前に掲げたのは何の変哲もないコンビニのレジ袋だった。
「じゃーん! こんな時間にカップ麺!」
「悪い事って……まさかこれ?」
 ウキウキした様子で袋から取り出す姿に拍子抜けし、思わず普通に話しかけてしまう。
「そうだよ。おやつにカップ麺食べるなんてすごく背徳的じゃない?」
 カップ麺、あんまり食べたことないんだよね。そう言いながら、楽しそうに割り箸を取り出す彼女からは、嘘を言っているような違和感は全く感じられない。そうか、そういう家庭もあるのか。うちの家庭も、ファストフードやインスタント食品はたまに食べる程度だが、目の前の女の反応をみて、たまに食べる程度の浮つきではないことは容易に分かった。
「一応三輪君の分もあるから、お腹がすいたら食べてね。あ、お湯借りて良い?」
 そう言いながらずかずかとキッチンに上がろうとするのを制止する。さすがに先日初めて会話を交わしたような女をキッチンに上がらせるのは気持ちが悪い。自らケトルに水道水を入れ、ボタンを押す。まったく、なんで俺がこんなことを。
「……食べたらすぐ帰れ」
「ふふ、外で食べろとは言わないんだ」
「……外で食べろ」
「言うのが遅いよ。食べたらすぐ帰るから心配しないで」
 このまま会話を続けていると、飄々と笑う彼女のペースに巻き込まれてしまいそうだ。キッチン横でカップ麺を開け、かやくを先に入れるのか後に入れるのか悩んでいるのを無視して、ただケトルを見つめる。

 蛇石桔梗がこうして俺にかまう理由が一向に分からない。
 クラス委員として担任に頼まれたから? その疑問が一番に浮かんだが、すぐに脳内で却下された。前回プリントを持ってきたときはそうだったかもしれないが、今回なんて手ぶらで来ているのだ。しかも、カップ麺なんて余計なものを買ってきて、図々しく我が家で食べようとしている。担任の差し金とはいえここまではやらないだろう。じゃあ、担任がらみじゃないとしたら一体どういう意図なんだ。ただからかっているだけなのだろうか。考えれば考えるほど、ますます分からなくなる。
 彼女の意図について考えふけっていると、いつの間にかお湯が沸いたようで、スイッチがカチっと戻される。それに気づかなかった俺の肩を叩き、「お湯、沸いたよ?」と不思議そうに呟く彼女を見ると、実は何の目論見もなく、ただ純粋にカップ麺が食べてみたかっただけなのかもしれない、なんて感じた。

「……よし、あと3分待たなくちゃいけないね」
 机で向かい合わせに座る。彼女の目の前にはカップ麺、俺の目の前には彼女が買ってきた野菜ジュース。こんなものいらないと断ったものの、無理矢理押しつけられてしまった。
 先ほどまでの様子から、出来上がりを待っている間ももっとぺらぺら話すのかと思えば、何故か終始無言が続き、彼女は黙って時計を見つめていた。カチカチと秒針の音がリビングに響く間、俺はどこを見ていれば良いのか分からずに、自分の家だというのに、終始正座をしながらズボンを握りしめていた。学校に行かなくなってから、こんなに長時間人と過ごすことが初めてで、何やら落ち着かない。さっさと帰ればいいのにとは思うが、追い出す気力すら今の自分にはなく、嵐が過ぎ去るのをただ待つしかなかった。
 ひたすら続く沈黙が重くのしかかり、早く自室に戻りたいという思いが強くなる。それらの感情を誤魔化すかのように手首を搔きむしり、下に視線を向けていると、蛇石はいつの間にか時計からこちらへ視線を移し、氷のように冷たい声を発した。

「それ、痕が残るからやめた方がいいよ」
「……痕なんか、」
「だって、三輪君の手首、白くて綺麗だもん。もっと大切にしなきゃ駄目だよ」

 そう言って、真っ直ぐに自分を見つめる彼女に心底腹が立った。
 そんなこと、どうでもいいんだ。そう言いかけた言葉をぐっと飲み込む。こいつに俺のことなんて心配してもらう義理なんてない。第一、俺の体なんてどうなったっていいんだ。大切な人一人守れない、役立たずの体なんて。あの日、為す術もなく他人に泣きついた自分の姿が目に浮かぶ。もう何十回、何百回も思い出した、あの光景だ。その瞬間、胸がぎゅうぎゅう締め付けられ、ドキドキと動悸が響き出す。
 その刹那、安っぽく、説教じみた言葉を並べる目の前の女が急に胡散臭く思えてくる。そうか、この女は、大切な人を失って自堕落になっている俺を救い出す、という「偽善」に酔っているだけなのではないか。自分より下の立場を身近に置いておくとさぞ安心するだろうし、いつまでも自分が優位に立つことが出来るのだから、いかにもこの女の考えそうなことだ。
 先ほどまで頭を悩ませていた「彼女の思惑」について、急に頭の中で答えが浮かんだ。その瞬間、腹の奥底から沸々と怒りがこみ上げてくる。

「……今すぐ出てけ」
「え、何で、」
「これ以上踏み込んでくるな!!」
 机に思いっきり怒りをぶつけると、想像以上に大きな音が響いた。彼女は一瞬目を見開き、フリーズしたように体を強ばらせる。俺はこいつと一切目を合わせたくなくて、決して振り返らずに自室へと駆け上がった。

 部屋にこもり、真っ暗闇の中で布団を頭からかぶる。ヒュウヒュウと窓を揺らす風が五月蠅くて枕を投げつけたけど、カーテンがはためいただけで、投げつけられたそれはゆっくりと床に落ちていき、ぽすんと静かに音を立てた。
 少し時間が経ってから、キイと玄関の扉が閉まる音が聞こえた。恐る恐るリビングへ降りると、未だ湯気の出ているカップ麺がぽつんとテーブルに取り残されている。あいつが出ていったのだ。それを確認した途端、自然と肩の力が抜ける。
 これでもう、彼女はここに来ないだろう。心からの安堵と、少しばかりの喉のつっかえを飲み込み、俺は暗闇の中、頭から布団をかぶった。

 ◇  ◇  ◇
 
 予想通り、それからしばらくあの女は来なかった。まあ、あそこまで言ったのだから当然だろう。もしそれを気にせずにのこのこ来ていたなら、あの時よりももっと非道い言葉を浴びせていただろうし、それに対する罪悪感なんて微塵も湧かなかっただろう。

 このまま誰にも干渉されず、一生自分一人で閉じこもっていたい。
 今日も、胸にこみ上げる吐き気と、頭をぎゅうぎゅう締め付けてくる痛みに襲われながら、ベッドの上でぐったりと横になっていた。