3 俄雨


 毎朝起きるたび、悪い夢でも見ているんじゃないかと思ってしまう。

 起きた直後はいつも頭がぼんやりとしていて、今自分が生きているのか、死んでいるのかすら分からない。天井を見つめ、十秒程経ってから、ああ、今日もここに姉はいないのだと気づき、ぽたぽたと涙がこぼれる。
 外からはチュンチュンと鳥の声が聞こえるが、それすら耳障りで耳を塞ぎたくなる。カーテンから漏れる光を頼りに目覚まし時計に手を伸ばすと、デジタルで八の文字が表示されているのが見えた。午前八時十分、もうすぐで始業の時刻だ。俺は今日もベッドから起き上がることが出来ない。

 最近、母さんは俺を起こすことすらしなくなった。別に毎朝起こして欲しいわけではないけれど、母さんが俺のことを気にかけなくなったのかもしれないと思うとまた呼吸がしづらくなる。途端に何かがこみ上げてくる感覚がしたので、フラフラの体をたたき起こし、顔も洗わないまま洋式トイレに突っ伏して、今日も嘔吐き続ける。
 誰も居ない家にひとりぼっちでいることは、底なし沼にはまるように恐ろしく、真夏の夜更けのように生ぬるく感じて心地が良い。反対に、家族と一緒の時間を過ごしていると胸が詰まって苦しくなる。そこに姉がいないんだって嫌でも実感しなきゃいけなくなるから。
 俺は母さんのことだって守らなければいけないのに、あの日からやつ当たりしてばかりだ。母さんがギリギリのところで踏ん張っているのも、俺のために気遣ってくれているのも、全部痛いくらいに分かる。それでも、ズタズタになった母にまで守られる自分が情けなくて仕方なかった。
 誰一人守れずに、ただここで蹲っているような、どうしようもない奴だ。もう自分に期待することを諦めてしまえば楽になれるのに。

 胸のつっかえは先ほどよりはよくなったものの、まだ体の中に悪いものが残っている感覚がする。しかし、このままトイレに籠もっていても一向に出てくる気配がなかったため、洗面所で口だけすすぎ、またベッドの上へと戻っていった。
 いつまでこの苦しさが続くのだろうか。何も意図せずとも涙がこぼれ落ちた後、家に無機質な機械音が鳴り響いた。このまま無視を決め込みたかったが、宅配便なら受け取るだけだし、母にも迷惑がかからない。少し悩んだ後、鉛のような体を起こしてインターホン口へと向かう。
 視線をモニターに映すと、そこにはこの前怒声を浴びせた女が立っていた。
 その顔を見た瞬間、思わず声が漏れ出てしまう。一体何のつもりだか知らないが、もうこれ以上自分のテリトリーにおかしな女を入れたくない。俺は眉を潜めながら、そのまま無視を決め込むことにした。

 五分程経ってから、恐る恐る玄関のモニターを確認すると、先ほどのあいつはあっさりと姿を消していた。担任から何か頼まれただけだったかもしれない。優等生の皮を被るあいつのことだ。自分を怒鳴ったおかしな男にプリントを渡すことも、快く承諾したんだろう。内心はどう思っているかなんて知らないけれど。
 あいつが去ったと分かってから、少し心が軽くなった気がする。今でも押しつぶされそうなくらい考えることがたくさんあるのに、もうこれ以上俺の心を乱さないで欲しい。
 天井を眺めてぼうっとしていると、玄関の鍵がカチャリと開く音がした。思わず時計を見ると、小さい針は六を刺していた。もう母が帰ってくる時間になっていたのか。母はリズミカルに階段を上った後、部屋のドアを控えめにノックした。
「……母さん」
「秀次、ただいま。ポストの中にこれが入ってたわよ」
 そう言って差し出されたのは、先週一週間分の課題プリントとノートのコピー、それにテスト対策用のノートだった。
「また蛇石さんなのかしら。彼女もすごくマメね。今度会ったらお礼を言わなきゃ」
「……」
 押しつけがましい紙の束を受け取るだけ受け取り、母が部屋から出た瞬間にゴミ箱へと投げ捨てた。
 文字の大きさや、列さえぴっしりと揃えられた無機質なノートは、人間が書いたものではないみたいで気味が悪い。こんなのは自己満足の押し付けだ。何も言わず、関わらないで居てくれた方がずっと良い。

 あいつが書いた紙束が視界に入るだけで指先がプルプルと震え、それはしばらく止まらなかった。






 拒絶された日以来、私は三輪君との距離の測り方に頭を悩ませていた。確かに、先日のあの行動は、急に三輪君の中に踏み込みすぎてしまったかもしれない。彼のことを想っての行動だったけれど、いきなり距離を詰めてしまったかもしれないと言うことに反省をする。今までは周りから寄ってくる相手に対してあしらっていただけなので、自分から距離を詰めるとなるとなかなかうまくいかないと感じた。
 自分に興味のない人に対する接し方が分からなくて悩むけれど、せめて自分が三輪君のことを想っていることはアピールしたかったので、新しい試みをすることとした。
 具体的にどういう取り組みかというと、いつもの何倍も綺麗に書き込んだノートをコピーしてあげたり、「ここはテストに出る」と思った問題を精選して、テスト対策用のノートを作ってあげたりしている。学年一位を狙っているんだから、これくらい一瞬で出来て当然だ。
 もちろん、三輪君に勉強して欲しいわけでも、学校に来て欲しいわけでもない。ただ、私がこんなにも三輪君を気にかけているということを知って欲しかったのだ。でも、担任からは「蛇石は休んでいる人のことまで考えている優しい生徒だ」だと評価され、クラスメイトからも「三輪君はすごく助かってると思うよ」なんて言ってくれる。周りに正当に評価されるのは気持ちが良い。「善いこと」をしているんだと実感できるのがまた格別だから。

 しかし、毎週三輪君の家に行ったって、当の本人は一向に出てくる気配がない。ノートありがとう、って一言ぐらい言ってくれてもいいのにな。もう彼に会わなくなって、かれこれ3週間が経とうとしている。今日出てきてくれなかったら、玄関先でお母さんが帰ってくるまで張り込もうかと思ったが、そこまですると一生会ってくれなさそうなのでやめておこうかな。
 一度自宅に帰り、スクールバッグを玄関先に置いてから、プリント類だけまとめて持って三輪君の家へと向かう。今日もぴっしり閉じられた窓とカーテンが目に入ったので、家の中にはいるんだなと少し安心する。いつものようにインターホンを鳴らすと、今日は無音ではなく、掠れたノイズのような音が聞こえた。
「……三輪君、そこにいる?」
 私が声をかけると、ノイズ音はすぐに鳴り止んでしまった。このままだと、また三輪君と会うチャンスを逃してしまうことになる。それだけは嫌だったので、いつもは鳴らさない二度目のチャイムを鳴らし、ドキドキしながら目の前のカメラを見つめていた。

 インターホンからは何も聞こえない。ああ、今日も出てくれなかったな。そう思って踵を返そうとした時、後ろからカチャン、と無機質な音が響いた。
 反射的に振り返ると、そこには大きな隈を作った三輪君の姿があった。
「……あ、これ三輪君に渡そうと、」
「あんたは一体何がしたいんだ」
 ひどく冷たい言葉と視線が突き刺さる。毎週私がこうやって届けていることを感謝しているとばかり思っていたから、まさかの言葉に絶句してしまう。こんなに完璧にやってきたのに、私が間違えるはずなんてないのに。そう心の中では思っても、氷のような瞳で射貫かれる度にその場に倒れ込んでしまいそうになる。
「三輪君が、喜ぶかなと思って……」
 声が震える。目頭が熱くなる。相手が喜ぶとばかり思っていたのに、すっかりから回っていたみたいで恥ずかしい。

「はっきり言って迷惑だから、これ以上踏み込まないでほしい」
 酷く突き放した、冷たい声だ。三輪君がそう言い終わらないうちに、私の瞼から雫がぽろりと落ちる。それは蛇口をひねったようにぽたぽた溢れて止まらない。人前で、しかも三輪君の前でこんなに泣くなんてみっともなくて、渡そうと思っていたプリントで咄嗟に顔を隠す。
 他人からの悪意を、こんなに真正面から突き付けられたのは初めてだ。
 それが全く身に覚えのない悪意ならば、急にどうしたの? なんて笑って見せられるのに、今回ばかりはそんなこと、出来そうにもない。滲んでぼやけた世界から逃げようと、涙でいっぱいになった瞼をそっと閉じると、先ほどよりも大粒の雫がぽつりと地面に落ちた。

 三輪君は何も言わない。子供みたいに泣く私に呆れているのかもしれない。
 勘違いして天狗になっていた自分が恥ずかしくて、このまま消え去ってしまいたいと思うほど、この場から逃げ出したくなった。




 その女の行動は、自分が想像しているよりも遙か斜め上をいった。

 まさか泣き出すだなんて思わなかった。こちらの言い分に耳を貸さずに押し付けるか、逆切れしてくるかの二択だと思っていた。彼女は計算高い女のイメージがあったので、泣いているのも演技かと思いきや、この泣き顔をみているとどうやらそうではないらしい。目の前で泣かれてしまうとどうすればいいのかわからず、何も言うことができなくなってしまう。というか、当たり前のことを伝えて泣かれたからって、俺が慰めてやる必要なんてないのだけれど。
 その場に立っているのは気まずいけれど、だからといってどうすることもできない。仕方ないので、目の前で泣いている女の手元あたりにそっと目を向ける。くしゃりと握られたプリントには、綺麗に整えられた字がカラフルなマーカーで強調されている。どうして、こんなにも彼女は俺に構おうとするのだろう。

 彼女がひとしきり泣き止んだ後、真っ赤に充血した瞳とようやく視線が合った。
 太陽に照らされ、深紫色した眼球がビー玉のように透き通る。目の前の彼女は、ずるずると鼻をすすりながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ごめんね、私、間違えちゃったみたい」
 勝手に押し付けちゃったね。そう呟いた彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、いつも見ていた蛇石じゃないみたいだった。自分はただ当たり前のことを伝えただけとは思うけど、これだけ彼女を泣かせてしまったことに少し罪悪感を覚え、涙でふにゃふにゃになってしまったプリントを蛇石の手から奪う。
「……これだけはもらっておく」
 そう言うと、彼女はぽかんと口を薄く開けた後、安心したように微笑んだ。
 いつもの気取った胡散臭い笑顔とは違って、それはまるで、子供のような笑みだった。