4 小糠雨


 あんなに大泣きさせた次の日だというのに、インターホンのモニターに映っていたのは、昨日顔を合わせたばかりのクラスメイトだった。
「今日は何も持ってきてないよ」
 しぶしぶ玄関の鍵を開けると、手のひらをこちらに開いて見せてくる。だからなんだ、と言いたくなったが、前回のこともあり、あまり強く言うことができない。その気持ちをぐっと堪え、仕方がないので家の中へ上げてやる。
「特に用はないんだけど、今私の家に誰も居ないから」
 三輪君は私に気にせずにくつろいでて。そう言いながらリビングで自習に取りかかろうとする蛇石についていけず、何でまた来たのか、思わず聞き返してしまう。俺の反応が意外だったのか、どうしたの? という表情で見つめられてしまえば、その場から逃げることも出来なくなる。観念し、ずっと触れずにいた話題を出してみる。
「……昨日の、何も言わないのか」
「ああ、私が大泣きしたこと? ごめんね、困ったよね」
「そうじゃなくて、俺のこと」
「三輪君の?」
 こういうときに限って聞き分けが悪い優等生に苛立ちを覚える。あれだけ泣いておいて、何も感じていないなんてあり得ないだろう。
「だから、俺がきつく当たったから、」
「そんなことないよ。私が一方的だった。だから反省して、あれからずっと三輪君の立場になって考えてみたの」
 そしたら、私だったら何も言わないでいてほしいなって思ったの。ぽつり、ぽつりと穏やかな表情で笑う。
「それで、今日いきなり来たのは、私が会いたかったからだよ」
 何の恥じらいもなくそう言ってのける彼女に面食らい、すっかり小言をいう気もなくなってしまった。

 カリカリとシャープペンシルの滑る音が聞こえる。本当に何も喋らず、ただ黙々と課題に取り組む姿をみて、どうしてわざわざ家にまで来たのか、心底疑問に感じた。会いたかった、なんて聞いてるこちらが恥ずかしくなるような台詞を投げかけてきたくせに。
 蛇石を一人リビングに置いていくのもなんだか憚れたので、彼女の背後にあるソファに腰掛け、後ろからその様子を眺める。右手を絶えず動かしながら、スラスラと問題を解き進める姿は見ていて飽きない。彼女はどこかませていて、容易に摑むことの出来ない、まるで雲のような印象があったけれど、昨日の出来事があったせいか、まるで憑き物が落ちたかのように自然体になったように感じた。変にこちらを気にかけず、肩の力を抜いて自分のやりたいことをやっているように思える。もしかしたら、これが本来の蛇石の姿なのかもしれない。
 こちらに構い過ぎず、それでも時折「飽きた」といって後ろを向く蛇石を見ていると、昨日の自分とは打って変わって、彼女に対する苛立ちはあまり感じなくなっていた。

 ◇  ◇  ◇

 それからというものの、蛇石はノートこそ持ってこなくなったが、たびたび家に寄ってはすぐに帰っていくという日々が続いた。二人でいるからといって特別なことは何もせず、同じ空間でただ過ごし、一時間ほどで家へ帰っていく。何か別の思惑があるのかもしれないが、前ほどは嫌悪感を覚えなかったので、そのまま招き入れた。
 大泣きさせた前科があるにも関わらず、こうして定期的にやってくる蛇石は図太いというか、なんというか。この前までは、何もかも見透かしたような彼女の笑顔が苦手だったけれど、今ではあまり思わなくなった。というか、彼女は何もかも見透かしているわけではないということが分かったから、とでも言うべきか。俺の目の前にいる蛇石桔梗は、「何でも出来る」、「クラスの優等生」ではなくて、よく分からないところで号泣したり、人並みに(もしかしたらそれ以上かもしれないが)空回りをしたりする、意外と普通の女の子だった。クラスでは気取って見えたような行動も、見方が変われば感じ方も変わるのだ。相変わらず姿勢はしゃきっとしていて、文字だって綺麗に揃っているし、ところどころで行儀の良さ、もとい、品の良さは感じる。けれど、俺の前ではそれを鼻にかけず、気さくに「三輪君、」なんて嬉しそうに呼んでくる。俺はそれが嫌ではなかった。
 少しずつ彼女が日常の中に溶け込んでいく実感もないまま、ゆるりゆるりと、彼女のことを考える時間が増えていった。

「こんにちは。お邪魔してばっかりだから、今日はクッキーを持ってきたの」
 開口一番にそう言い、ピンク色の缶を差し出してニコニコ笑う。「三輪君はクッキー好き?」なんて、何も知らない無神経な一言に少し波を乱されそうになる。別に普通だと答えると、私も普通くらいに好きかな、と言って嬉しそうにはにかむ。何が嬉しいのかは分からないが、それ以上深入りしてこないのならそれでいい。

「今日から合唱コンクールの練習が始まったんだけどね、声は揃わないし、音程もばらばら。先が思いやられるよ」
 大口を開けながら彼女の発した言葉達が空中に浮かんでいく。こちらが一言ぐらいの相づちしか打たなくても、彼女は当たり障りのない雑談を永遠と話し続ける。俺の体調の優れないときや、話を聞くことすら辛かったりするときは、彼女は何も言わずに側に居てくれる。
 こいつは侵攻のこととか、世間が騒いでいる話にはまったく触れない。わざとそうしているのか、本当に興味がないのかは分からないが、変に気を遣われたり、積極的に話を出されたりするより、今の方がよっぽどよかった。
「ねえ、三輪君は音楽とか聴いたりする?」
「……姉さんの聴いてるのをたまに、」
 そう言いかけて、自分から自然と姉さんの名前が滑り落ちたことに気づく。そうだった、姉さんは落ち着いたテンポの曲が大好きだった。一緒に音楽を聴きながら、母さんの代わりに料理を作るあの時間が大好きだった。
 途端に、姉さんとの幸せな光景を塗りつぶすようにあの惨状がフラッシュバックしてきて、目の前がチカチカし出した。姉さんが、血まみれの人形みたいに動かなくなってしまう。くるな、くるな、くるな。胸やけが強くなり、みぞおちのあたりがジンジンと痛み出す。吐き気を催し、急いでトイレへかけ込んだ。

 便器の前で突っ伏すと、音もなく後ろからきた彼女に背中をさすられた。さすられても苦しさはあまり変わらない。その原因を全部はき出してしまおうと無理矢理嗚咽をもらすと、薄い黄色の液体が便器内に飛び散った。一度吐き出してしまえば、後は自然と喉の奥から湧き出てくる。次第に液体は透明に近くなり、酸っぱくて苦みのある液体が胃の方から口の中にこみ上げる。喉がヒリヒリして焼けてしまいそうだ。
 いくら吐き出しても気分は一向に良くならないし、何も変わってくれやしない。そういえば、最近は姉さんのことを思い出す回数が減っていたかもしれない。自分から姉さんが抜け落ちていくことが怖くなった瞬間、先ほどの何倍もの胃液が湧き上がった。

「大丈夫、大丈夫だからね、三輪君」
 ツンとした臭いが広がる個室で、蛇石は小さく耳元で呟いた。
 背中をさすられるたび、俺は姉さんのことを思い出した。

 ◇  ◇  ◇

 ある日、夢の中に姉さんが出てきた。

 侵攻直後は毎日のように見ていた夢だったのに、最近はめっきり見なくなっていた。久しぶりに見る顔に、嬉しくなって自然と頬が緩んでいく。
 姉さんのお気に入りの白いスカートが風に揺れる。姉さんのシャンプーの香りが鼻を掠める。これだけ現実的に感じられるのだから、これは夢ではないのかもしれない。そうか、今までのことが全部悪夢だっただけなのか。
「姉さん、ずっとどこに行っていたの。会いたかった」
 姉さんに駆け寄ろうと足を前に出した、その瞬間だった。姉さんの体は赤く染まり、胸に孔が広がっていく。

 嫌だ、置いて行かないで。

 そう叫び手を伸ばしたが、そこに姉さんの姿はなかった。
 呼吸が苦しい。まるで発作のように震えが止まらない。
 不意に誰かから声をかけられ、後ろをガバッと振り返ると、真っ白な空間の中、蛇石がぽつりと立っていた。白い、姉さんと同じスカートを身にまとい、彼女は静かに微笑んでいた。

 彼女の口角がスッと上がる。
 パクパクと何かを喋ったようだが、俺には何も聞こえなかった。

 見慣れた光景の中でひとり飛び起きる。
 ゼエゼエと呼吸は未だ整わない。体中にかいた汗がベタベタ張り付いて不快に感じ、思わず顔をしかめる。

 あの時、蛇石は何と言っていたのだろうか。




「お邪魔しまーす。あれ、三輪君顔が真っ白」

 二日ぶりに訪れた三輪家では、相変わらず骨っぽい体をした少年が出迎えてくれた。今日はいつも以上に顔が青白くて、真っ白どころか真っ青だ。本人が気にするだろうから真っ青とは言わずにおくけれど、かなり焦燥しきった様子なのは見てうかがえた。
「来て早々申し訳ないんだけど、レンジ借りてもいい? おいしそうなのが売っててさ」
「本当に図々しいな」
 そう言いながらもレンジの方に案内してくれる三輪君はやっぱり優しい。
 コンビニで買ってきたパスタをレンジに入れてもらい、待っている間、ぐるぐると回るたらこパスタを凝視する。コンビニは添加物だらけだからといって母から敬遠されてきたけれど、三輪君の差し入れを買いにコンビニに行ったときから、すっかりその味に魅了されてしまった。手軽で美味しいものや、華やかなパッケージがずらりと並ぶ店内は、私にとって未知の世界で、新しいものばかりだった。
 チン、と合図が鳴った瞬間、パスタをレンジの中からそっと取り出す。三輪君が黙ってフォークを差しだしてくれたのでそれを受け取り、いただきますをしてもぐもぐと食べ進める。その間、三輪君がずっとこちらを見ているから、食べたいのかと思ってフォークを差し出したら首を横に振られた。
「……たらこパスタは気持ちが悪くなりそうだ」
「じゃあ、他の何か食べる? 少しでもお腹に入れといたら?」
 雑炊くらいなら私にもできるかもしれないよ。そう話しながら、三輪君の許可をとって冷蔵庫を開けると、ラップをかけられたどんぶりがすぐ私の視界に飛び込んできた。
「あ、おばさん作ってくれてるじゃん」
 三輪君は知らなかったみたいで、びっくりしながら冷蔵庫の方へと近寄ってくる。どんぶりの中には茹でられたであろう蕎麦が入っていて、「水にさらしてから食べてね」というメモが側に置かれていた。
「へへ、三輪君のお母さん、字が可愛いね」
「……」
「三輪君、これなら食べられそう?」
 こくりと頷いたのを確認してから、茹でられた蕎麦を水で浸す。水の中でゆらゆらと揺らめく蕎麦たちを、三輪君は私の隣でずっと眺めていた。

「よし、いただきます」
 蕎麦の準備ができてから、再度いただきますをする。パスタは少し冷めてしまったので温め直させてもらった。三輪君の様子が気になったので、わざとらしくならないようにチラチラと横を確認すると、三輪君は少しずつだったけど、箸で口へと運んでいた。よし、ちゃんと食べている。こうして二人で食べられる日がくるなんて思っていなかったので、何だか嬉しく感じ、いつもは適当に巻き付けるパスタも、今日は何回も巻き直して形を整えていた。

 しばらく経ってから、隣から鼻をすする音が聞こえたので、思わず首を横に向ける。するとそこには、ぽろぽろと涙を流す三輪君がいた。綺麗なガラス細工のような褐色の瞳から、透明のまん丸い粒がこぼれ落ちていく。それはあまりにも美しい光景で、思わず見とれてしまう。
 決して涙を拭おうとせず、次々と口に物を運ぶ彼の姿をみて、おいしいね、と小さな声で呟いた。
 三輪君はずっと何も喋らず、ただ静かに麺を啜っている音だけが響いていた。

 たくさん食べて、そのガリガリでやつれた体に少しでも栄養が行き届きますように。そう思いながら、私は目の前のたらこスパをフォークで綺麗に巻きつけた。