6 雨礫


 最近、三輪君が少しずつ食事を摂るようになった、とおばさんが教えてくれた。夜勤やら日勤やらで忙しいおばさんだけど、毎日三輪君が食べる分のご飯は用意してくれているのだ。さらに、私の分までプリンやら果物やらを買ってきてくれているから、とても頭が上がらない。おばさんとはたまーにお休みの日とかにしか会えないけれど、会ったときには目一杯可愛がってくれるから好きだ。
「今日はシュークリーム? こんなにおいしそうなもの貰っちゃって良いのかなあ」
「俺の分も食べてくれていい」
「もう、それは違うじゃん。おばさんがせっかく買ってきてくれたんだから、三輪君もちゃんと食べてよ」
 三輪君の家に着くと、入って早々三輪君が、「今日も何か買ってきたらしい」と私の目を見て伝えてきた。こういう時は彼もそれなりに気になっているというサインなのだ。自分の分を私に押し付けようとするも、きっと皿に盛り付けちゃえば、ちゃっかりと手が伸びるだろうから、そういう所も可愛いな、なんて思う。
 彼はあの侵攻が起きてから、何か食べてもすぐに吐いてしまうことが癖になったと話していたが、最近は回数が減ってきているようだ。これだけ食欲が戻れば、今後悪化することはもうないだろう。目に見えて顔色が良くなった彼を見ていると、自然と笑みが零れてしまう。
「……何笑ってる」
「んー、別にー? あ、洗面所借りるね!」
 手を洗うため、リビングに荷物を置いて洗面所へ向かう。洗面所は、リビングを出たところの廊下を直進すればたどり着く。もうすっかり三輪家の構造は頭に入ってしまった。
 廊下をズンズンと進むと、突き当たりの洗面所の目の前までたどり着いたが、今日はいつも閉まっている右の扉が少し開いている。人の家とはいえど、いつも隠れている所が無防備にあいていたら、つい覗き見をしてしまうのは人の性だろう。私はこっそりとその隙間に顔を合わせる。

 その部屋の中に置かれていたのは、立派な仏壇だった。黒柿色した荘厳な仏壇の前には、瑞々しいほどの花が供えられている。私は思わず立ち止まり、その場で息をのむ。部屋の中からは線香の香りが漂い、香炉らしきものからは未だ煙がほんのり立ち上っている。つい先ほどまで、三輪君はここに居たのだろうか。
 仏間があることくらい普通のことだろうが、いざそれを目の前にすると、息をするのを忘れてしまいそうなくらい体が固くなり、恐れ多くて部屋の中なんてとても入れなかった。
 よく部屋を見渡すと、仏間には複数の写真が並べてあった。その中でも一際色鮮やかで新しいもの、遠くて顔までははっきり見えなかったけれど、そこには髪の長い女性が映っていた。
(これが、三輪君のお姉さん……だよね、きっと)
 彼の愛していたもの、守りたかったものに、今やっと会えたような、そんな気がした。

 ◇  ◇  ◇

 すっかり廊下で長居してしまったようで、手を洗ってからリビングに戻れば、既にシュークリームが皿に盛られていた。案の定、三輪君は自分の分まで私の皿に乗せていたので、黙っておしつけてやると、しぶしぶとそれを受け取り、一口ぱくりと食べる。その時に一瞬目が見開いたので、このシュークリームが美味しいということは間違いないだろう。
 続けて私も目の前のシュークリームを一口囓ると、サクサクのパイ生地の中に詰まった濃厚なクリームが口いっぱいに広がった。スーパーに売っているようなものではなく、ケーキ屋さんで売っているような本格的なシュークリームの味がするのだから、これはきっとお高いやつだ。バニラビーンズの粒々が入っているのがまた美味しくてたまらなくて、どんどん手が進んでしまう。
 感嘆を上げながら食べ進めると、横から「大げさだ」と憎まれ口を叩かれた。何よ、そっちだって大方平らげているくせに。

「三輪君って結構甘いもの好きだよね」
 以前から思っていたことを何の意味もなく口に出す。男の子って甘いものはあまり食べないと思っていたから、なんだか不思議だ。
「……姉さんが、よく作ってくれたんだ」
 一呼吸あけ、三輪君がそう呟いた。私はその言葉にハッとし、真横を振り返る。
 先ほどの仏間にいた女性のシルエットが思い出されるが、頭の中でノイズがかかってしまい、詳しくははっきり思い出せない。
 三輪君の心の大部分を埋める人の話題なんて、今の三輪君には聞きづらかったし、なるべく話題に出ないように避けてきた。だから、三輪君からお姉さんの話を振られるなんて思ってもいなかった。さらに、仏間を勝手に見てしまったという罪悪感もあり、かける言葉がうまく出てこない。喉元が冷えるような緊張感が私の体を駆け巡っていく。
 しかし、そんな私の考えも杞憂だったのか、彼は以前トイレで吐いてしまったときみたいに取り乱したりせず、落ち着いた表情で真っ直ぐと足先を見つめていた。
「姉さん、料理が上手で。母さんが遅い日なんかは、一緒にご飯を作ってたんだ」
 ぽつり、ぽつり。自分の頭の中を整理するように、一生懸命言葉を選んでいる彼のことを案じながら、私は黙って様子を伺う。
「お菓子作りも上手で、バレンタインなんかは毎年すごいんだ」
「そうなんだね」
 三輪君からお姉さんの話を聞くのは初めてだった。
「姉さんの作るクッキー、お店のやつよりもずっとおいしかった」
「……うん」
「来年も、また食べるの楽しみだったのに……」
 途端に、見てるこっちが苦しくなりそうなくらいに三輪君の顔が歪む。
「どうして、どうして……ッ」
 大きな嗚咽と共に、ボトボトと涙が川のように流れていく。まるで全身から水分を押し出すかのように、声を震わせながら感情を露わにする彼の姿なんて、今までで一度も見たこともなかった。
 今までは、どちらかというと意図せず泣いてしまったように、ぽろぽろと涙を流しているような気がしたが、今回のは違う。まるで、自分から感情を曝け出して、ただただ泣いているような、そんな感じだった。
「三輪君……」
 頭をぽんぽんと叩く。でもこれだけじゃ今の三輪君には足りない。私は背中に手を回し、思い切って抱きしめてみる。ほのかに線香の香りがして、途端に胸がキュッとなった。三輪君の肩は、ちょうど自分の顔が上に乗るくらいの高さだけれど、彼の背中は自分が思っていたよりも広く、骨々しくて角張っているのを感じる。今は背筋も丸まっているから少し小さく感じるけど、三輪君はちゃんと男の子なんだ。
 まるで赤子をあやすように背中をぽんぽんと叩くと、今までせき止められていた感情たちが決壊したように、彼は大きな声を上げながら、肩に顔を埋めて泣き叫んだ。それにつられ、背中に回した手にぎゅっと力を込めると、彼も同じように手を回し、いっそうぎゅうぎゅうと締め付けてきた。

 彼がこんなにも自分の感情を吐き出してくれるなんて思ってもみなかったから、私はとても嬉しく感じた。ずっとずっと苦しかっただろうに、この家で一人苦しさと戦い続けるのは容易ではなかっただろうに。一見弱々しく見える彼だけど、一体どれだけの荷物を背負っていたのだろうか。
 その感情と同時に、「自分が関わったことで」三輪君がこんなにも変わったのかもしれない、と解釈すれば、何だか優越感を感じてしまう自分がいた。自惚れていると言われてしまえばそこまでだが、これは勘違いではないような気がするのだ。

 私は初めて会話をしたあの日から、すっかり三輪君に惹きつけられてしょうがない。三輪君も、私と同じだったら良いのに。
 日に日に彼と距離を詰めていく中で、まるで三輪君が私の手中に入ったように錯覚し、その勘違いは日を増すごとに確信に変わっていった。
 同時に、私の生活の中には彼がいないと落ち着かないほどのめり込んでいった。