桃色の花弁たちが、風にあおられてぱらぱらと散っていく。既に葉っぱが混じって汚くなった桜の木々が、私を見てと言わんばかりにざあざあと音を鳴らしている。そんな姿になっちゃったら誰にも見向きされないね、可哀想。
少し前までは満開だったというのに、短期間でこんなにも姿を変えてしまう。花々や木々、あたためたばかりのスコーン、リップを塗りたての母の唇。時間と共に移り変わっていくものは、最初の一瞬だけ素敵に見えるけれど、その後の姿が哀れで見ていられなくなるから、私はあんまり好きじゃない。
「そういえば三輪君のクラスの担任、厳しいことで有名らしいね。いいくじ引いたなって先輩が言ってたよ」
「誰だその先輩とやらは」
「えー? 教えてあげない」
四月になり、私たちは二年生へと進級した。年に一回の重大な行事、クラス替えももちろん行われたのだが、なんと今回は三輪君と違うクラスになってしまった。
でも意外なことに、クラス替えによって引き起こされるストレスや不安というものはあまり感じなかった。もちろんクラス替えの直後は落ち込んだし、理不尽に対する文句も止まらなかったけれど、クラスが離れたからといって、私と三輪君との距離が離れるというわけにはならなかった。登下校は毎日一緒にしているし、ボーダーでいつでも会えるという確約がある。それらのおかげで気持ちが安定していると言っても過言ではなかった。むしろ、同じクラスなのにすれ違っていた時の方が、不安になる回数が多かったかもしれない。あの時のことを思い出して、思わずクスリと笑う。
「蛇石、クラスの奴とは話してるか」
「何その質問! 普通に話すわよ。てか何の心配よ」
「いや。また威圧してないかと思って」
「何もないのに当たり散らすわけないじゃん!」
「なら良かった」
「良かったって……」
呆れ半分に三輪君の方を向いたら、思っていたよりも穏やかな顔をして笑っていた。最近の三輪君は優しい顔をすることが増えた。こんな顔、他所でしてたらいろんな人に話しかけられちゃうじゃん。だから、あんまりしないでほしいのに。
「……三輪君は? もう女の子と話した?」
「隣の席の人とだけな」
「……へーえ。ちなみに名前は?」
「……それを聞いてどうするんだ」
「別にどうともしないけど? ただ参考にするの」
「……授業で話さなきゃいけなくて話しただけだからな。他意はないぞ」
三輪君が他の女の子のことを見てないことくらい分かっているけれど、それはそれ、これはこれで別問題だ。特別な意味がなくても、自分がいないところで他の人と仲良くされるのなんて、そんなのいい気分にはならないのが当然だ。
「……三輪君が取られないように名前でも書いとこうかな」
「は? 絶対やめろ。絶対だぞ」
「何それ、フリみたい。本当にやっていい?」
「やっていいなんて一回も言ってないだろ! やめろ!」
「だって三輪君が可愛いのが仕方ない」
「意味がわからない」
照れ隠し? とからかって尋ねると、うるさい、と言いながらスタスタと歩いていく。そういうところが可愛いんだよって教えたかったけど、これ以上拗ねられると後からご機嫌取りが大変だからやめておいた。
「あーあ、もう家着いちゃったよ」
「じゃあ蛇石、また明日な」
「えー、寂しい。今から遊びに行かない?」
「今日は防衛任務で溜まった課題を終わらせるって最初に言ったろ。蛇石も溜まってるんじゃないか?」
「あんなの後回しにしちゃえばいいのに」
「俺は今日しかできないんだ。じゃあな」
「え〜……」
まったく、クソ真面目な三輪君め。彼女からのデートの約束を断るなんて。でも、最近の三輪君が多忙続きであることはわかっていたから仕方ない、なんて自分に言い聞かせた。三輪君が別れ道を歩いていくのを眺めながら、ため息をひとつ飲み込む。今日はこれから何をしようかな。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、いつものようにたくさんの花が迎えいれてくれた。結構な頻度で花が入れ替わっていくこの花瓶の中は、今は桃色や黄色、白色の春めかしい花々が生けられている。一本一本の主張が大きすぎて、まるで喧嘩しあっているかのようだ。あの人が好きそうなチョイスだな、と心の中で嘲笑う。
「ああ桔梗、こっちに来なさい」
廊下を抜けると、母が待ち構えていたかのようにキッチンから顔を出した。帰宅早々明るく迎え入れてくれることなんてほとんどなかったから、どういう風の吹き回しかと警戒する。最近何か善い行いをしたことがあったっけ。そう思い返してみたが何も浮かばず、ますますこの人の考えていることがわからなくなった。どうもリアクションが取りにくかった私は、この先に続く母の言葉をおとなしく待つ。
「今日はケーキがあるのよ。フルーツタルト、桔梗好きだったわよね?」
フルーツタルト? 出てきた言葉があまりにも予想外すぎて、うまく表情が作れなかった。今日はなんの記念日でもないただの平日だし、お客さんもいないのにケーキを買ってくるなんて、そんなこと今までにもなかった。
「ちょうど今マグカップ温めてるところだから、一緒に食べましょうか。お紅茶淹れるわよ」
「でもまだ制服だし……」
「外に出るわけじゃないんだし、そのままでもいいじゃない。さあ、座って?」
この人の言葉には重みがありすぎる。押しに押されて結局この人に勧められるがまま、このまま一緒に食べることになってしまった。
「あなた、ここのケーキ好きでしょ。小さい頃あんなにおいしいって言って食べてきたんだもの」
小さい頃なんて、それは一体いつのことだっただろう。その頃はもっと大事にしてもらえてたのかな。何もしていなくても、無視されることなんてなかったのかな。つやつやに光っているフルーツタルトを見ながらそう思いはせる。こんなに鮮やかな見た目なのに、裏側でなにかをはらんでいるような、そんなかたまりのケーキ。母が手を付けたのを横目に見てから、私もそれにフォークを沈めた。
「うん、すごく美味しい。ありがとう」
口の中に広がる上品な甘さと新鮮なフルーツの酸味。ケーキ自体はすごく美味しかった。そう、美味しいんだけど、早く食べきって自室にこもりたいという思いが隠し切れない。私は次から次へとケーキの山へ手を付ける。そんな私を見て、よほどケーキが気に入ったと勘違いしたのか、この人は得意げに「ここのケーキは他のものとは味が違うのよね。やっぱり高いところでないと」なんて言ってみせた。ああ、うるさいな。
「ねえ、ボーダーは楽しい?」
あと三口で食べ終わるところに、急に母から話しかけられた。最近そういう話ばっかりだ。学校でやっていることとか、習い事やボーダーのこととか。また母の望む回答をしなければいけないのか、そう考えるだけで気が滅入ってしまう。
「……楽しいよ。結構張り合いもあるし」
「そう。あんなに人の役に立つ仕事なんてそうそうないわよ」
母は大袈裟なくらいにリアクションを取る。まるで、自分が社会貢献に携わっているみたいに、正義を振りかざしたような顔をして私に話しかける。
「しかも桔梗、あなたは中学生でそれをやってるのよ。なかなかできることじゃないわ」
まるで陶酔しているような目だ。自分の子はあの有名なボーダーに入っている、というステータスがさぞ居心地がいいのか。あなたの価値を高めるために選択した訳ではないのに、結果的にこの人にいい思いをさせているのは事実だ。悔しいけれど、だからといってボーダーをやめるという選択肢は私にはないし、そんな子供みたいなことはしない。
「……ちょっと大人っぽい顔つきになったんじゃない?」
「そう? あまり変わらないと思うけど」
「ううん。やっぱり綺麗になったわ」
いつも輪郭からはみ出ることなくきれいに塗られている母の唇は、先ほどのケーキのせいか少し崩れている。
「可愛い可愛い桔梗、もっと顔を見せて」
母の手が私の頬に向かってまっすぐ伸びる。触らないで。その言葉を発した瞬間、今の不気味で安らかな時間は終わってしまうことがわかってる。母の望むとおりに行動するのは、生まれたときからやってきたことだったからもう慣れてしまった。なるべく刺激しないように心がけてよく観察する。刺激してしまえば後が面倒くさいから。
母からの、呪いのような「愛してる」の言葉は、今の私の心には全く響いてこない。温度のこもっていない目がこちらを見つめてきても、何も感じることはない。その理由は、この人が今見ているものが、目の前の私ではなく、「蛇石桔梗」という外面だけの置物だからだろう。
でも、そんな「愛してる」の言葉でも、ほしくてほしくて堪らない頃もあったなあ。昔の頑張ってた自分に言ってあげたい。そんなことをしたって無理だよって。ただ自分が傷つくだけだよって。
「……ケーキご馳走様。お皿洗っておくね」
「あら、そんなのいいのに。すっかり気が利くようになったのね。これもボーダーのおかげかしら?」
私は黙って席を立ち、水垢ひとつないピカピカの洗い場で、高そうなお皿を水で流す。いやな音しか聞こえないこの家で、唯一水音だけが私の心の緊張を和らげてくれる。大丈夫、大丈夫。この人の言うことに、いちいち心揺さぶられたりなんかしない。だって、私の心の平穏はすべて三輪君が守ってくれているのだから。
◇ ◇ ◇
「あーあ、また負けた」
ガタン、と言いながらいつもの自販機が揺れた。続けてまたガタン、と音が鳴り、それを合図に私は取り出し口から飲み物を取り出す。三輪君は缶コーヒー、私はいつもの紅茶。最近の三輪君は、大人ぶってコーヒーを飲むようになった。まだブラックは飲めないはずなのに、たまに強がってブラックを選ぶことがある。そんなところからも可愛さが溢れちゃってるから、結果的に全然大人ぶれてないよってこと、本人は気づいていないんだろうな。
「最後の試合はいけると思ったのになぁ」
「蛇石ならああ読んでくると思ったからな」
「先読みの先読みされてたってこと? やっぱり三輪君手強すぎる」
「でもあの攻撃は良かった。フェイントに引っかかった」
「ふふ、でしょう! 私の渾身の背面斬り」
先ほどの熱戦を思い浮かべる。最近グラスホッパーをトリガーホルダーに追加した私は、以前よりも相手の懐へ入り込むことが得意になった、と大口をたたいて言えるようになった。一歩間違えれば自分がやられてしまうけれど、そういうスリルがあるからこそ、神経が研ぎ澄まされてうまく立ち回れる気がする。
もちろん最近の私は、三輪君に昔怒られたような捨て身の攻撃はしなくなった。駒が一人いなくなるだけで、どれだけ戦況が変わってしまうかが身に染みて理解できるようになったから。私の戦い方が変わったことは三輪君にもよくわかるみたいで、最近はあまり嫌味を言われなくなった。
そして、私が成長するのを待ってくれずに、最近の三輪君はボーダー上位の攻撃手への道を順調にのし上がっている。戦っている時の三輪君は大人っぽく見えるけれど、こうやって顔をしかめて無糖コーヒーを啜る姿は子供にしか見えない。
「そういえば蛇石、おばさんはこのこと知ってるのか?」
いつの間にか飲み物を飲み終えたらしい三輪君が、こちらを向いて話しかけてきた。三輪君からコーヒーの香りが漂ってくる。あまり嗅ぐことのないこの香りは新鮮で、なぜだか気持ちがしゃきっとする。
「このことって何のこと?」
「ボーダーに入隊したこと」
「……ああ」
三輪君の言葉をきっかけに、あの日のことが一瞬で蘇ってくる。ボーダーに勢いで電話をした後のこと。もっとしつこく反対されるかと思って身構えていたけれど、打ち明けた直後の反応は予想していたものではなかった。逆に、「ボーダーに入ろうと行動するなんて、あなたすごいじゃない!」と言って両手を捕まれた。その瞬間、ああ、この道は母が望んでいる道と、皮肉にも同じ道を選んでしまったんだな、なんてがっかりした覚えがある。
「……もちろん知ってるよ。思ったよりも全然言われなかった。むしろ喜んでたよ」
「それは……意外だな」
「そう? だってあの人、何よりも世間体が気になる人だもん。そりゃ三門市の救世主みたいなボーダーに入るっていうなら、母も願ったり叶ったりじゃない」
「……そんな」
「三輪君のことも、ボーダー入ってるって知ってから急に歓迎ムードになってさ。意地汚すぎてやんなっちゃうよね」
三輪君が学校に行けなかったときはあんなに目の敵にしていたのに。そうやってすぐ態度を変える浅はかさは、怒りを通り越してむしろ感心してしまうくらいだ。絶対あんな風にはなりたくない。
「そんなことよりさ、もっと楽しい話しよ?」
あの人のことを考えていると、せっかくの楽しい時間も胸くそ悪くなってしまう。三輪君とせっかく一緒に居られる時間を、そんな汚い時間にかえたくない。
三輪君は私の呼びかけに黙って頷いた。私が言わんとする言葉も大方予想が付いているんだろう。そうやって首をつっこみすぎないようにする三輪君はどこまでもやさしい。そのやさしさを利用してしまっていないか、私は時々不安になる。
でも、もしも三輪君のことを利用してしまってでも、ずっと一緒にいられるのならそれでいい、とまで思ってしまう自分もいる。そんな浅ましい自分の存在を、三輪君には一生気づかれたくないなぁ、なんてわがままなことを考えた。