じりじりと、初夏の太陽が私たちの体力を奪おうとする。雲一つない空は、清々しいくらい晴れ渡っていて、まるで今日このときを祝福しているかのようだ。全く似つかわしくないその光景が皮肉に感じたけど、それに心動かされるほどのものでもなかった。
「桔梗ちゃんも来られるなんて良かった! 本当に学校行かなくて大丈夫?」
「私も来たかったので大丈夫です。ていうか、この時期は休んでる人ばっかりだから。授業だって全然進まないですし」
「そうだとしても、頭の良い桔梗ちゃんを休ませちゃってごめんなさいね。……そうね、あれからもう一年が経つのね」
そう言って、三輪君のお母さんは少ししんみりした後、さあ、行きましょうか! なんて明るく振る舞った。まるで何事もなかったように笑うこの人は、本当に強くて気丈な人だ。その脇では、いつもにこやかな三輪君のお父さんが穏やかに微笑んでいる。
「……今日は着いてきてくれてありがとう」
「ううん。私が来たかっただけだから」
そうやって隣の三輪君は私に話しかけた。親に内緒で学校をずる休みしたので制服を着ている私に対し、三輪君は私服姿だった。学生服でも隊服でもない三輪君のことを、なんだか久しぶりに見た気がする。家族の前だと少し幼い表情をするこの人だけど、今日はいつもよりも少し怖い顔をしていた。
明日、三輪君は学校へ来ない。そう、去年三門を襲ったあの悲劇から、明日でちょうど一年が経つというのだ。トリオン兵が大量に湧き、街中を蹂躙したあの日から、やっと一年という月日が経つのだ。
命日の前日に三輪家一同で姉の墓参りに行く、という話を聞いたのは、今からちょうど一週間ほど前のことだった。お墓周りを綺麗に整えてから一周忌を迎えたいから、前日にも行くことにした、と三輪君は話してくれた。へえ、そうなんだ、なんて軽い相槌を打って聞いていると、来るか? と、三輪君は何でもないような顔して私に言った。
さすがの私も、やすやすと行きたいと言っていいのか悩んでしまったが、三輪君は優しい顔で、「姉さんは人が好きな人だから、蛇石が来たら喜ぶと思う」なんてことを言ってくれた。人が好きなんて、私とは真反対な人だったんだなあと、今更ながらそれを噛み締める。でも、今三輪君の隣にいるのは私だから、そんなことを気にする必要はない。
また、三輪君のお姉さんが喜ぶことは、きっと三輪君も喜ぶことでもある。考えた結果その結論に至り、私は三輪君の誘いに乗った。ずっと今日という日を楽しみにしてきた。
今日は三輪君にとってとても大切な日だと思うけれど、私にとっても大切な日なのだ。だって、三輪君のお姉さんに挨拶できるなんて、そんな貴重な機会ないじゃない?
黒く光ったファミリーカーの中の座席に腰掛け、シートベルトを付ける。三輪君は私に続いて隣の席を陣取る。おばさんは助手席で天気の話をしている。
「なんか良いよね。学校休んで三輪君の家族と一緒にいるなんて」
「良いって、何が」
「え、分からない? 三輪君は私とずっと居られて嬉しくないの?」
「なっ……。今そんな話はしてないだろ。ていうかここでやめろ」
「前の席まで聞こえてないよ。おばさんたちだって話してるし」
「そういう問題じゃない」
「えー」
そうやっていつまでもはぐらかして答えてくれなかった。三輪君のけち。そう小声で言ったはずだったのに三輪君には聞こえてたみたいで、うるさいな、と言いながら私の手に三輪君の手を重ねた。あれ、三輪君からこういうことをやってくるなんてめずらしい。こっちを向かずにずっと窓側を見ているのは、多分自分のやってることが恥ずかしくて私の顔を見られないからだと思う。三輪君って、考えてることがとっても分かりやすくて助かるなあ。そう思いながら、私も手をつないだまま車窓の外をぼんやりと眺めた。
五分ほど経っただろうか。車は山近くの駐車場で停まり、一番最初におじさんが外へ出た。私も外へ出て、おばさんの持っている荷物を持とうと声を掛ける。おばさんは優しく「桔梗ちゃんには持たせられないわ」と言い、私の申し出を断った。
一番最初の行先は、お姉さんの墓ではなく、大規模侵攻の犠牲者を弔うため建てられた慰霊碑だった。立ち入り禁止区域よりも少し手前であるこの場所は、街からは外れているので正直今まで一度もきたことがなかった。こんなところにあったのかと思いながら周りを見渡す。コンクリートばかりの街とは違って、ここは木と土、虫の声、それと、どこからか流れてくる死の匂いがただよう。
三輪君はそっと慰霊碑の前に腰を落とす。本当に建てられるべき場所は、見晴らしのいいここからも見える、もっと奥の方。あの日、甚大な被害を被った地域だ。今ではボーダーの警戒区域と定められ、一般人は入ってはいけないことになっている。
「今日は特別お花がたくさんね」
「うん。綺麗だね。うちのはそっち側に供えようか」
おばさんが持っているのは白色の花束だ。ほかに何色もまざっていない、真っ白な花束。それをおばさんとおじさんで空いているスペースへ供えているのを、私は後ろから眺めていた。供えられている他の花も、よく仏壇に供えるような色彩の花じゃなくて、それぞれ桃色だったり黄色だったり、きっと故人が好きだったであろう色をチョイスした花々が、ところかしこに敷き詰められている。ここには、たくさんの人の想いが眠っているんだろう。
「……お姉さんは、白色が好きだったの?」
こそっと三輪君に尋ねた。なんか、おばさんたちにそれを聞くのは野暮な気がして。
「うん。大好きだったよ。姉さんは何色でも似合うけど、白は特に好きだった」
穏やかな顔で三輪君はそう言った。三輪君のその言葉は、他人からの返答など望んでいないように思えた。だから、私は黙って慰霊碑を眺めた。
慰霊碑の前で線香を焚いて手を合わせた後、少しだけ周りの草むしりをして、また車の中へと戻った。カンカン照りの日差しのせいで車内はだいぶ暑くなっていたので、窓を開けて外の空気を取り込む。車が走り出すと涼しい風が入り込んできて、なんだかとてもいい気分になる。
「桔梗ちゃん、喉乾いてない? 後ろのクーラーボックスに飲み物あるからどんどん飲んで!」
「え、そんなの悪いですよ。大丈夫です」
「ほら秀次、取ってあげて!」
「なんで俺が……」
おばさんは私が遠慮したことにも構わず、三輪君の方を向いてクーラーボックスを指さした。ぶうぶうと言いながらクーラーボックスを漁る姿は、家族の前でだけみせるような三輪君の顔をしていて少し微笑ましくなった。
「……蛇石、なにがいい」
「えっ? あ、えーっと、何がある?」
三輪君に見とれすぎてて話しかけられたことに気づかなかった。おばさんは再度前を向き、運転中のおじさんの飲み物のキャップを開けていた。ああ、なんかそういうの、いいなあ。
「緑茶、烏龍茶、コーヒー、レモンスカッシュ、メロンソーダ……」
「じゃあメロンソーダ」
「……珍しいな」
私がそれを選んだことが意外だったみたいで、三輪君は少しだけ目を丸くして私に手渡してくれた。うん、私も不思議だもん。でも今日は、なぜかメロンソーダみたいな甘ったるいものが飲みたかった。
「ありがとう、三輪君」
キャップをひねると、炭酸特有のはじけるような音が響いた。ひとくち口にして、しゅわしゅわとした感覚を口の中で楽しむ。甘ったるくて飲んでいられないくらいだけど、この泡がはじける感覚は結構好きみたいだ。メロンソーダの入ったペットボトルを陽の光にかざすと、車内が緑色にキラキラと光ってとてもきれいだった。
次の目的地はお寺だった。駐車場にはすでに数台車がとまっていた。私は一番最後に車から出て、三輪一家の後ろをついて歩く。白い砂利がたくさん駐車場に転がってしまっているなあ、なんて、どうでもいいことばかり考えていた。
「おばさんたち荷物あるし、私、そこの水道でお水汲んできますね」
朝からほとんど何もしていなくて手持ち無沙汰だったので、自分から何か仕事を担おうと立候補する。ていっても、誰でもできるようなことしかできないけれど。
「俺も行く」
私の立候補の後に三輪君も小さく手を挙げた。私一人でもできるよって言ったけれど、おばさんは二人で行ってきて頂戴、と背中を押してくれたので、お言葉に甘えて二人で水場へ向かうことにした。
「水桶ひとつで足りるかな」
「多分。足りなかったらまた汲めばいいし」
「そうだね」
水道に水桶を置き、蛇口を全開まで捻って水がたまるのを待つ。その間に、ずらりと並べられた柄杓の中から、とびきりきれいなものを探すのに必死になる。同じ柄杓でも、年季の入っているものは木の色が変色して濃くなってしまっている。なるべく新しくてきれいなものを、と目をこらしすぎて、三輪君が隣にいることがすっかり意識から飛んでいた。
「蛇石」
「……」
「蛇石!」
「わっ」
呼びかけに気づいて横をみると、ちょっとあきれたような顔をした三輪君がこちらを覗き込んでいた。
「水、全部溜まったぞ。行こう」
「ああ、ごめん。気づかなかった」
とびきりきれいに見えた柄杓をふたつ手に取って、水桶を持ってくれた三輪君の後を追う。真剣になりすぎて三輪君からの呼びかけに応答しないなんて、いつもの私らしくない。
お墓の間をぐるぐる歩いていると、おばさんとおじさんが古い花を取り換えているところがみえた。三輪君はすたすたとそこへ向かっていく。私も向かう。
「桔梗ちゃん、秀次、お水ありがとうね」
「いえ! とんでもないです」
おばさんのところまで辿り着き、三輪君は水桶を静かに置いた。そこには、三輪家之墓、と彫刻された墓石がわたしの目の前にすくんと立っていた。お墓周りの掃除なんていらないくらい墓石はきれいに磨かれ、周りも小さな雑草がぽつりぽつりと生えている程度だ。日頃から欠かさずにここに来ているんだろうな、ということはすぐうかがえた。
「お姉ちゃん、来たわよ。あなたが好きなお花も買ってきたから」
白い百合の花が墓周りをきれいに彩る。先ほどお供えしていた大輪の花束とは違って、控えめで、それでいてとても上品な百合の花だ。
「こちらは蛇石桔梗さん。秀次の大切なお友達なの。お姉ちゃんに会ってもらいたくて、私が秀次に誘ってほしいってお願いしたの」
おばさんの言葉にはっとし、慌てて墓石の前に立った。今日この場に呼んでもらえた経緯を三輪君から聞いていなかったから、私は少しびっくりした。
「……おばさんが最初に言ってくれたんですか?」
「そりゃあ勿論よ。秀次、桔梗ちゃんに言ってくれてなかったの?」
「だって、母さんを話に出すと蛇石が断りづらいだろうと思って」
「……ふふ、どこまでも桔梗ちゃんのこと考えてるのね」
「母さんやめてよ。そういうことじゃなくて……」
三輪君が拗ねたような声を出す。なんだ、そういうことだったんだ。どこまでも私のことを考えてる、と言ったおばさんの言葉が頭の中でぐるぐる回り、だんだんと満たされていくような気分になる。そうか、三輪君は私の事を一番に考えてくれてるんだね。それってすっごく幸せなことだなあ。
三輪君のお姉さん、初めまして。三輪君と同じクラスで、今お付き合いさせていただいてます、蛇石桔梗と申します。お姉さんの事は三輪君からいろいろ伺っています。お姉さんも三輪君のことがいろいろ心配だと思うけれど、私がそばで支えるので、どうか安心してみていてください。心の中でそう呟いて、お姉さんが眠っている墓石と目を合わせ続けた。じりじりとした太陽が、たえず私の背中を照らしつづける。
「……姉さん、ここは陽がよく当たって暑いだろ。今水かけてあげるから」
三輪君はやさしくそう言って、墓石に冷たい水をかけた。手つきもすごくやさしくて、まるで愛おしいものをゆっくりと撫でるかのようだ。墓石の隅々まで水がいきわたるように、柄杓で丁寧にかけ続ける。
「じゃあ、お線香焚くわね」
おばさんの言葉の後、いつも三輪君の家に染みついていた匂いが、じんわりと辺りに広がった。あのときの泣いた三輪君から色濃く香ったこの匂い。頭の中に染みついて、一生離れることのない匂い。
おばさんも、おじさんも、三輪君も、みんな黙って手を合わせた。三輪君の白い肌が、陽の光に照らされて一層真っ白に見えた。その色素の薄さは、まるで血が通っていないようにも思えた。三人が手を合わせたのをみて、私も何も言わずに目を伏せ、手を合わせる。
お願いお姉さん、この人を私のとなりにいさせてください。お姉さんのかわりに、私がこの人を守りますから。
今にも消えてしまいそうな隣の三輪君を想いながら、私はお姉さんに祈った。どうか、そちらの世界でも平穏に過ごすことができますように。三輪君の大切な人は、私の大切な人でもあるから。
墓石を綺麗に磨き、辺りの雑草をすべて抜いてから、私たちはお寺を後にした。おばさんは、私をお姉さんに紹介できたことをしきりに嬉しがっていた。それを聞いて私も嬉しくなる。まるで、私の母よりもお母さんみたいだ。
「もうお昼になっちゃったわね。桔梗ちゃんは何時頃帰る?」
「あー、学校が終わる時間くらいに帰ります」
母に内緒で学校に欠席連絡をしたから、母は今日休んでいることを知らないはずだ。あの人は一日中家の中にいるから、あんまり早く帰ると怪しまれてしまう。
「そう! じゃあ、一緒にお昼ご飯でも食べましょう!」
お父さん、あそこのハンバーグ屋さんに行こうか! なんて明るい声が車内に響き渡る。あそこのハンバーグおいしいから、桔梗ちゃんとも一緒に食べたいの。そうやって言うおばさんは、まるで向日葵みたいに笑う。
三輪君のお母さんはすごい人だ。こんなにもパワフルで元気があって、それでいて周りへの気遣いも忘れない。何よりも家族じゃない私の事までたくさん考えてくれる。こんな人が母親なんて、三輪君は恵まれている。
「三輪君って反抗期とかなさそう。だってこんなに理解がある家族だもん」
わざわざおばさんたちの前で言うことでもないから、三輪君の近くに寄って小さい声で話しかけた。三輪君はそれを聞いて少し不思議そうな顔をした。
「いや、そんなことない。いつも洗濯出すのが遅いとか、靴下は裏返しにしてとか、ずっとガミガミ怒ってくる」
「なーに、そんなの怒ってるに入らないよ。子供みたいなこと言っちゃって」
三輪君があまりにかわいいことを言い始めたので、少しにやついてしまった。何その平和な世界。ほっこりしたエピソードに愛おしさすら感じる。
「……蛇石、今笑っただろ」
「んー? 気のせいですよ」
外の景色は、先ほどまでの緑あふれるものとは違っていて、少しずつ建物が広がり始めていた。そのうち、いつも見慣れた道路が広がり始めるんだろう。
「私は現在進行形で反抗期だからなあ」
理解のある三輪君の家と違って、うちは全然違うから。その言葉は、わざわざ三輪君には言わない。
「開き直るなよ」
そう鋭いつっこみをした後、続けて三輪君は少し口角を緩めて笑った。ああ、その顔なんか好き。
「ほんと、困ったものだよね。母親は癇癪持ちだし、父親は最近朝帰りばっかだし」
最近家に帰ってこない父のことを思い返す。私がちょうど三輪君のところへ通うようになってからだったかな。私ももう中学生だから、朝帰りがどういうことなのかはなんとなくわかる。
「そんなに忙しいのか?」
「え?」
「だって、会社で泊まらなきゃならないほど仕事してるってことだろ?」
三輪君の言葉を聞いて、おもわず口がぽかりと開いた。三輪君って本当に真っ白なんだなあ。
「……三輪君は一生そのままでいてほしい」
「は? どういう意味だ?」
純粋な三輪君にはこんなこと言わなくてもいいか。そう自己完結したけれど、対する三輪君は気になってしまったみたいで、その後何回か尋ねてきた。そんなにいい意味じゃないから知らなくていいのに、と返したら、あまり詮索するのはよくないと思ったのか、三輪君はもう私に聞かなくなった。
その後、三門では有名なハンバーグ屋さんに連れて行ってもらって、ジューシーなハンバーグをご馳走してもらった。申し訳ないからセットじゃなくてもいいって言ったのだけれど、おばさんはみんなで食べるのが美味しいのよ、といって、サラダバーやドリンクバーまで付いたメニューを頼んでくれた。久しぶりの賑やかな食卓はとても新鮮で、おばさんとおじさん、そして三輪君としゃべっていると時間まで忘れてしまうくらい、言葉が次から次へと溢れて止まらなかった。こんなにお喋りな自覚なんてなかったのに、今日は特別たくさん喋ってしまった。
それから、十四時頃に店から出て、学校が終わるまでの時間は三輪君家にお邪魔することになった。三輪君が小さかった頃のアルバムを見せてもらったりしたけど、三輪君は終始恥ずかしがって不機嫌になってしまった。今も昔もこんなに可愛いのに、私に見せてくれないなんてずるいよ、って言ったら、また怒って照れてしまった。実家の三輪君は、学校やボーダーで見せている三輪君の顔とは違って、やっぱり子供に戻ったみたいな表情をする。それが新鮮で、もっともっと見ていたくなる。
「そろそろ学校が終わる時間だから戻ります」
「あら! もうそんな時間になっちゃったのね」
時計を見たらいつの間にか下校の時刻になっていた。あまり帰るのが遅くなりすぎても怪しまれてしまう。もっとここに居たい気持ちは山々だけど、断腸の思いで帰り支度を進める。
スクールバッグを持って、玄関先へと急ぐ。家族総出で見送られるなんてなんか気恥ずかしいけど、三輪家では当然のことみたいだ。優しそうなおじさん、いつも笑顔のおばさん、そして、いつもより幼い顔をしたかわいい三輪君。明日学校で会えないなんて寂しすぎるけど、仕方ないなあと思ってそれを飲み込む。
「今日は本当にありがとうございました。おいしいご飯までいただいて、楽しかったです」
「こちらこそありがとう。またお姉ちゃんに会ってあげてね。あの子、秀次のこと大好きだから、きっと桔梗ちゃんのことも天国でかわいがってると思うわ」
「……そうだと嬉しいです」
名残惜しい気持ちのまま扉を開け、一歩を踏み出す。今日一日、楽しすぎてあっという間に時間が過ぎてしまった。毎日がこんなに楽しかったら、退屈など感じずに充実した気持ちでいつも居られるんだろうな。
帰り道の足取りは重かった。距離で言えばそれほど離れていないというのに、私には山と山の間を越えるくらいには険しい道に感じた。あの気持ち悪いほどに花が咲いた家に帰らなければならないのか。そう思うと、憂鬱な気持ちが隠しきれなくなった。
「ただいま」
何でもないような顔をして、重い玄関の扉を開ける。
「お帰りなさい」
そう返事をした母の横を素通りする。母はいつものように夕食の支度をしており、どこも怪しんだりする素振りはうかがえない。よし、学校をずる休みしたことはばれていないみたいだ。担任から電話をする必要もないくらいに、日頃の行いを気をつけていた今までの自分のことを褒めてあげる。
身体中に染み付いた線香の匂いを落としたくはなかったけれど、変に勘が鋭いこの人にばれてしまったら、向こうの家族にも迷惑がかかってしまう。仕方がないから、すぐにお風呂へ入ることにした。ああ、ずっとこの匂いに包まれていたかったのにな。名残惜しみながら、脱衣所でひとつずつ丁寧に服を脱ぎ捨てていく。三輪君の匂いがどんどんと体の中から抜けていくように思えて、私はこわくなった。
◇ ◇ ◇
日曜日の午後二時を回った頃。私は近くの公園のブランコに座り、キコキコと音を鳴らしながら三輪君のことを待っていた。
今日は珍しく、三輪君の方から「会いたい」ってメールで誘われていた。三輪君と一緒にお墓参りへ行ったのは、今週の木曜日のこと。金曜日は学校を休んで、土曜日はお互いに防衛任務やら何やら用事があったから会えなかった。たった二日会えないだけで、こんなにも寂しくなるなんて。三輪君もきっと同じことを思ったから誘ってくれたのかなあなんて、そんなことを想像して少しにやける。
誘った側の三輪君にしては珍しく約束の時間から遅れていたが、暑すぎずさわやかなこの気候は、外の風を浴びているだけで気持ちいい。誰もいない公園で、一人ぼうっと空を見上げていた。
「蛇石、遅くなってごめん」
「わっ」
気を抜いていたところに、突然呼びかけられて思わず肩が跳ねた。後ろを振り向くと、走ってここへ向かって来たらしい三輪君が、息を弾ませながら申し訳なさそうにしている。そんな三輪君に似つかわしくないような、かわいらしい紙袋を持っているのが目に入る。
「全然待ってなんかないよ。なんか大荷物だね?」
「ああ……。これ、蛇石に渡したくて」
そう言って、三輪君は紙袋をガサガサ漁り、中身を私の目の前に突き出す。
目の前に掲げられた生花たちと、目を泳がせながらそれを持っている三輪君。沈黙がその場に流れる中、彼はずっと気恥ずかしそうにこちらの様子を伺っている。私は状況がつかめずに、その花を受け取ってもいいのか悩んでしまった。
「えっと……、どうしたの?」
訳が分からず、私は三輪君に真正面から尋ねた。だって、突然すぎて心の準備も追いついていない。
「……やる」
「えっと、今日って何かあったっけ。私としたことが記念日忘れてた?」
「別に記念日とかどうでもいいだろ」
記念日を忘れていたわけではないみたいだ。じゃあ、ただ三輪君が私にあげたくて買ってきてくれたってこと? そんなことをするキャラでないということは、いつも一緒に居る私が分かっているはずだ。
「もしかして、なんでもない日のプレゼントってやつ? うわあ、三輪君ってばロマンチスト……」
「……うるさい」
ああ、恥ずかしさで尻すぼみな声になっちゃってる。そんなに羞恥を覚えてるくせに、掲げた手を下ろそうとはしないんだね。
「ごめんごめん、さすがの私もちょっとびっくりしちゃって」
ありがとね。そう言って受け取ると、三輪君は心底安心したような顔をした。ああ、抱きしめたいな。そう思ったときにはつい体が動いていた。ブランコから立ち上がり、三輪君からもらった綺麗な花を潰さないようにして、角張った背中に腕を回す。三輪君は少し慌てたけど、少ししてから背中へ手を回し返してくれた。ああ、あったかいな。人の体温って何でこんなにも安心するんだろう。
「ねえ、これ三輪君が選んでくれたの?」
「……うん。店員さんが一緒に選んでくれたから、変になってないと思うけど」
「この色の組み合わせ、とっても好きだよ。女の人らしくて可愛い」
淡い紫色、白色、桃色の花がぎゅっと詰まったこの花束は、品があって、それでいて可愛らしくて、ずっと見とれてしまうほどきれいだ。どんな気持ちでこれを選んだのだろうと想像すると、胸がぎゅっと締め付けられるような幸せを感じた。
花をもらってこんなにも満たされる思いになるなんて、今まで思ってもみなかった。だから、今の私は内心結構驚いている。だって、今まで花がずっと好きではなかったから。
私は昔からずっと、消えて無くなってしまうものが大嫌いだった。花なんてものは、枯れてしまえばそれで終わりだ。いくら努力してドライフラワーにしたって、生花の方が綺麗なのはわかりきってる。
枯れてしまうから美しいんだ、なんて言う人もいるけど、その人の感性が理解できなかった。消えて無くなるものに美しさを感じてどうするんだろう。どうせ、綺麗なうちはとことん愛でるくせに、美しさが失われたら掌を返すようにすぐ、他の美しいものを求めて走るのだろう。それだったら、枯れてしまった花の行方はどうなってしまうんだろう。いつも取っかえ引っかえ新しいもので着飾る女をすぐ近くで見てきたからこそ、こんなどうでもいいことでも敏感に感じてしまうのかもしれない。
だからこそ、小さい頃の私は、何年経っても変わらないようなものが好きだった。昔からお気に入りの青いマグカップ、小学生の頃書いてもらった読書感想文への評価コメント、母に買ってもらったお気に入りのくまのぬいぐるみ。生き物じゃないこれらは、きっと私が大人になっても変わらない姿でいてくれるんだろう。
それでもどういうわけなのか、三輪君にプレゼントされたこの花たちだけは、なぜか特別なもののように感じた。今までは、花を見てもこんなに心動かされることはなかった。どうせ枯れる、そう思って眺めていただけだけど、三輪君にもらったこの子たちは、そういうものとは無縁の世界にあるように思えた。三輪君の手のひらの中にあるだけで、他のものとは違う、何か特別なものに見える。
「何で花を渡そうと思ったの?」
純粋な疑問を、単刀直入に尋ねてみた。だって、三輪君みたいな男の子がわざわざ花をプレゼントするなんて、ちゃんとした理由がありそうだもん。
「……別に、特に深い意味はないけど」
三輪君は、頭をぽりぽりと掻きながら尻すぼみな声で話し始める。誰も座っていない隣のブランコが、風でキーコ、キーコ、と音を鳴らしながらゆっくり揺れ始める。
「姉さんへ供える花を買いに行ったとき、この紫色の花が目に入ったんだ」
三輪君が大輪の紫色の花を指さす。これは確か、トルコキキョウとかいう名前の花だ。母が特別大切に育てていたから、この花の名前だけは分かった。
「……それで、蛇石に似合いそうだなって思って」
「私に似合いそうだと思って?」
「……悪いか」
三輪君の言った言葉をそっくりそのままオウムがえししてしまった。だって、私に似合うと思ったからって、三輪君がそんな理由で花束をくれるだなんて思わないじゃない。
「……もしかして、この色は嫌いだったか?」
黙って三輪君からの言葉をかみしめていたせいか、不安そうな顔をした彼がこちらを覗き込んだ。ああ、不安にさせてしまってごめんね。そう思いながら三輪君の顔を見つめ返す。
「ううん、そんなことない。なんか言葉に詰まっちゃって」
まっすぐ私の方を向いて咲いている花々を眺める。柔らかくもあざやかな色彩の組み合わせが、なんとも三輪君らしいなあ、なんて思った。
「……三輪君、本当にありがとう。部屋に大事に飾るね」
花束を大切に抱えてみせると、三輪君はとびきり柔らかく笑ってくれた。
自宅のリビングの扉を開けると、ほんのりとお酒の匂いが漂ってきた。玄関先にはまだ父の車はなかったから、間違いなく発生源は母だろう。テーブルの方向へ目を配ると、予想通り酒を煽っている母の姿がみえた。
「……またお酒飲んでる」
最近飲む量が増えたのではないか。この人は、酒に呆けて家事を全くやらないなんてことはないが、酔っ払うと少し面倒くさい。
「おかえり桔梗。休み中の課題は終わってるの?」
「もうやってある」
「そう。今からきちんと勉強しておきなさいね。後々苦労するんだから」
机の上にはお酒の缶が三つ並んでいた。テレビも点けずに、静かな部屋で缶を揺らす。ちゃぷ、ちゃぷ。間抜けな音が部屋の中に響く。
「……桔梗、それは何?」
さすが目ざとい母親だ。気付かれないように、と二階へ上がろうとしたタイミングでそう問いかけられる。さすがにこの可愛らしい紙袋は隠せなかった。
「……花。貰い物だけど」
「へえ。もしかして秀次君?」
そう言って母は、見せて、見せてと上機嫌にせがむ。
「花をプレゼントするなんてあの子もやるわね。かわいい花瓶が棚にたくさんあるから、それを使っていいわよ」
「ああ、それくらい自分で取りに行くからいいってば。ていうか、もうふらふらじゃん」
花瓶を取ってこようとして急に立ち上がった母は、ふらりと体を揺らして、今にもどこかへぶつかりそうな程だった。お酒が強くないくせに、一人で盛って、一人でふらふらしてる。なんとも困った人だ。
「もう、いちいち大袈裟よ。うるさい」
「はいはい……」
酔っ払いの相手は面倒くさい。大人はみんな酔っ払うとこうなってしまうんだろうか。でも、三輪君家のおばさんはきっとここまではならなさそうだなあ、なんて上の空で考える。
「秀次君、ボーダーではどうなの?」
「どうって……。私よりも断然上だよ。三輪君はすごいんだから」
「ふうん。桔梗よりも上なんて相当すごいじゃない。今のうちにたくさん唾をつけとかなきゃ」
あんたに言われなくてもやってるわよ、なんて心の中で悪態をつく。
「余計なお世話と思うかもしれないけど。私はね、桔梗がいい学校に入って、安定した職を手にしてくれれば、それだけでいいの」
母はお酒の入ったグラスを片手に、すぐ隣に座っていた私に話しかける。また始まってしまった。耳にタコができるほど聞いた台詞たちが耳元を通り抜けて行く。この人は酔っ払うと笑い上戸になるわけでもなく、泣き上戸になるわけでもなく、ただ口数が増えるだけだった。それも、上機嫌というわけではなく、いつもの静かな口ぶりのままで。
「いまの恵まれた生活はお父さんのおかげなのよ。もっと感謝しなきゃいけないわ」
そのお父さんという人は、妻も子も放ってどこかへ出掛けているけれどね。そう心の中で悪態をつく。仕事で遅れる、と言ってはいるが、そんな頻繁に朝帰りをするものなのか。母がこうやって酒を煽る日は、大抵父が帰ってこない日に限ったことだった。
「要領の悪い人間は後々苦労するのよ」
誰に話しかけているのかすらわからない口振りで、母はそう続ける。こちらが相槌を打たずとも、話はどんどんと続いていく。
「……飲み過ぎだってば」
「まだ飲み始めたばっかよ」
ぐったりとした母を尻目に、私は空いた缶を片付ける。母は座ったまま、私の指をじいっとみた。勝手に片付けたことを怒るのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「……桔梗」
「何?」
「桔梗は私の自慢の子よ」
にこり、と音が出るかのように、何の他意もなさそうな顔で微笑んだ。
予想していなかった言葉に面喰らってしまい、つい動きが止まってしまった。まるで油切れのブリキのように、ギシギシと錆びた手足が上手に動かなくなる。今更そんな台詞を言うなんて、いったい何を考えているの。そう言って、母の手を跳ね除けてしまえる強さが欲しかった。
「……お風呂先入るね」
別に嬉しくなんてない。母の言う「自慢の子」は、自分にとって都合のいい子のことだ。そうは分かっていても、心の奥底では浮き足立ってしまう自分がいることを否定できず、ただただ悔しかった。何で親子というものは他人では居られないんだろう。何であの人がおかしいと分かっていても、今受け取った言葉に対して、どうしても「嬉しい」という感情が湧いてしまうんだろう。
これ以上この人の一挙一動に心乱されたくなかった。貰った花束をぎゅっと抱え、自室へ籠りに行く。三輪君お願い、私の心の平穏を保たせてください。
「……桔梗、遠くへ行かないでね」
階段を上がり終わる手前、一階のリビングで呟かれたであろう言葉が、不幸にも私の耳の中へ届いてしまった。
そんな言葉、ちっとも聞きたくなかった。湧き上がってくるくやしい気持ちに我慢できず、扉を強く閉めた。でも、耳に響く音がまた苛立ちを倍増させるだけで、すっきりする気持ちには全くなれなかった。