薄い水色の空が、丸い三輪君の瞳に反射している。三輪君と過ごす、二度目の秋が巡ってきた。
「いやー、説明会無駄に長かったね。三輪君起きてた?」
「あんなところで寝る方が大変だろ。目をつけられる」
「でも、うちのクラスに寝てる奴いたよ」
「よくやるな」
「ふふ、本当それだよね。ただの馬鹿だよ」
まだ周りは受験モードには入っていないけれど、今日、近所の高校が数校ほど学校に来て、出張説明会が開かれた。二年生は全員強制参加で、狭い武道場の中に全クラスぎゅうぎゅうに詰め込まれて、すごくむさくるしく感じた。
夏休みが明けてから、私は身長がぐんと伸びたので、背の順も随分後ろの方へ出世していた。三輪君のクラスは離れているのですぐ隣というわけにはいかないが、後ろから視界へ入れることができるようになり、こっそり盗み見ていた。丸い後頭部の彼は、いつだってしゃんと背筋を張って話を聞いている。長らく見ていなかった彼の体操座り姿が愛おしくて、それが極めて特別なもののように感じた。
将来の夢だとか、進路のことだとか、そういった選択肢を迫られる場面にじわじわと近づいているというのは、こういった説明会も含め、日頃の学校生活の中でもひしひしと感じていた。進学するのはいいんだけど、そのためにいろいろな手順を踏まなければならないことを億劫に感じてしまう。自分が受ける高校を決めて、願書を出して、テストを受けて……なんて、これからやらなければならないことを考えるだけで気が遠くなってしまいそうだ。
「まだ三年生にもなってないのに、もう高校のことなんて気が早すぎるよね」
「確かにな」
「高校に行ったら三輪君モテちゃうかな。そんなのやだー」
「そんな心配しなくても大丈夫だろ」
三輪君はそうやって何でもないようにあしらう。今はまだいいかもしれないけど、この先三輪君の魅力に気づいてしまう人なんて増えていくに決まってる。三輪君に下心を持った女達が周りを囲んでいる図を想像するだけで、今から気が気ではなくなってしまう。ぽっと出の女に負けるわけにはいかない。私も、高校生になるまでにもっと大人っぽくならなきゃいけないなあ。
「そういえばさ、三輪君は進路どこで考えてるの? やっぱ六頴館?」
いつも一緒にいるけど、思い返せば三輪君と進路の話はしたことがなかった。六頴館の制服を着る三輪君の姿を思い浮かべる。学ランもいいけれど、やっぱブレザーを着た男の人って格好良くみえるよなあ、なんて浮ついた気持ちを三輪君に悟られないように、なるべくポーカーフェイスを心がけた。
「いや、三門第一で考えてる」
三門第一。三輪君からの予想外の返答に、一瞬、足を止めかけてしまった。
私はてっきり、三輪君はボーダーと提携している六頴館に進むとばかり思っていた。だって、三門第一だと、学力レベル的にも大学進学は少し大変だ。三輪君は頭いいし、六頴館も余裕だと思うのに、どうしてそちらなのだろうか。
というか、私は三輪君と一緒に六頴館へ進学するつもりで将来設計について考えていた。だから、今の私は平静を装おっているけれど、頭の中は進路のことでいっぱいだ。でも、本人とこういう話はしたことなかったから、三輪君を責めてもお門違いであることは分かってる。昔の私とは違うので、いちいち当たり散らしたりはしないはず。……多分。
「……へえー、そうなの」
「大学に進学するつもりは今の所ないから」
三輪君は、まるで前から決まっていたかのような口ぶりで話す。三輪君は、不確定で曖昧なことはあまり話そうとしない。だから、これも既に頭の中で決まっていることなんだろう。
「三輪君がそう考えてるの知らなかったな。ちょっと意外だった」
「蛇石はなんか決めてるのか?」
三輪君に本音を投げかけた後、自分のことについて尋ねられた。私はその問いに対して、私も一緒の高校へ行きたい、と言ってしまいたかったけど、現実的に考えてまず難しいと思った。だって、学歴至上主義のうちの家でそんなことを言い出せば、猛反対をくらうことは目に見えているし。
「うーん、多分六頴館になるんじゃないかな」
三輪君は三門第一に進学する。大学には進学しない。先ほどの言葉が脳内に反芻する。その事実が頭の中で順繰り巡る。三門第一か……。
「多分なる、……か」
「三輪君? どうかした?」
喧嘩とかそういう時以外で三輪君が言いよどむなんて珍しかった。すると彼が足を止めたので、私も一緒に立ち止まる。
「いや、蛇石は本当にそれでいいのかと思って」
「……? どういう意味?」
やっぱり、いつも言いたいことはすぱっと言ってくれる三輪君にしては、珍しいくらい歯切れが悪い。それを察してあげられるほどの情報もないし、おとなしく三輪君の返答を待つしかない。
三輪君は苦虫を噛んだように、少し気まずそうな表情をしながら頭を掻く。
「いや……、そういうことは蛇石本人が選択するべきものなのに、まるで他人に委ねてるみたいだから」
三輪君と目が合う。三輪君は、真っ直ぐに私を見つめてくる。
赤い瞳に射抜かれて、まるで心まで見透かされてるみたいに感じた。そんなことは考えたことがなかったから、思わず面を喰らったような気分になり、その場から動けなくなる。
確かに、三輪君の言う通りなのかもしれない。というか、三輪君に指摘されてから、初めて自分がそんな言い方をしていたことに気がついた。それを言った記憶すらないくらい、他人に選択してもらうという怨念が性根に染みついているようだった。
私は当たり前に、『ボーダーへ入隊するのなら六頴館に進学し、高い評定をもらった後にいい大学へ入り、就活も成功する』という未来を描いていた。でもこれじゃ、いい大学に入らせ、さらにいい企業へ就職させ、どこに出しても恥ずかしくないような娘を育てる、という、母の望む世界そのままだ。せっかく自分で道を選択し、ボーダーに入るという決意表明ができるようになったと思っていたのに、根っこの部分は何も変わっていないじゃないか。
三輪君は、こんな私に呆れているだろうか。ちゃんと自分で道を選ぶことができる彼と違って、思考回路を他人にすっかり占領されている自分のことが後ろめたくなる。
「……本当だ。確かに変だよね、私」
「別に責めてるわけじゃない」
三輪君は言った言葉の通り、こちらを気遣うような顔をしていた。三輪君が責めるつもりで言ったわけじゃないことくらい分かっている。分かっているんだけど、どうしても駄目な自分の存在が頭の中にちらついてしまい、そこから思考を動かすことができない。
「……ただ俺は、蛇石が心から望んでることをして欲しいだけで」
三輪君は目線を外して、心配したようにぼそぼそと話す。それがなぜか自分に投げかけられた言葉じゃないように感じて、私はまるで人ごとのようにぼうっと眺めていた。
「家の事情なんて他人が首を突っ込めるものじゃないと思うけど、でも……。蛇石が無意識のまま選択肢を潰されるのを我慢して見ていたくない」
「……」
「ボーダーに入るって決断したのは蛇石だろ」
「うん」
「……ボーダーにいるときの蛇石、すごく楽しそうだ。おばさんの言うことを聞いている時とは全然違うくらい、生き生きした顔してる」
「……そう?」
「蛇石はどうしたいんだ。世間体とか、おばさんが求めることは抜いて」
「私は……」
私が、本当にしたいこと。そうやって人に聞いてもらえたのは、一体いつぶりなんだろう。
三輪君に問いかけられて体が固まった。今までそんなこと考えたことなんてなかった。頭の中から絞り出すように、脳味噌をぎゅうぎゅう捻る。
コツ、コツと靴の音だけが響き渡る。三輪君が歩く速度を緩めたので私も立ち止まると、いつの間にか家の近くまで辿り着いていた。ここの角をそれぞれ逆方向に曲がれば、お互い家に着く。でも、三輪君は立ち止まって、なかなかしゃべろうとしない私を静かに待っていてくれる。
「……うーん、考えてもやっぱりわかんないや。ごめんね」
どれだけ考えたって答えが出なかった。私は三輪君のがっかりした顔を見たくなくて、そのまま振り返らずに帰路へ着いた。息が詰まるような夕焼けの色が、私の胸を締め付けた。
玄関を乱暴に開け、ただいまも言わずに自室へ駆け上がる。すると、半開きのカーテンでぼんやり照らされた部屋の中、目の前に女の子がいた。
「ねえ、あなたは本当にあたしと一緒なの?」
そう話しかけてきた子供は、小さい頃のわたしにそっくりな顔をしていた。ついに幻覚まで見えるようになってしまったのか。どうやら精神的にまいってしまっている自分に対して、自嘲的に笑ってしまった。
「……こんにちは、可哀想な昔の私。こんなに小さかったのね」
正気の状態ではこんなものが見えるはずがない。私はおかしくなってしまったにちがいない。そう思いながら、目の前の少女を見据える。私の分身のような見た目のこの子供は、私の返答を聞いてすぐさま愛想笑いを振りまいた。誰にでも張り付いた笑顔を振りまく彼女は、何だか可哀想にすら見えてくる。
この頃の私の髪の毛は、今の私よりも長く伸ばされており、癖毛である緩いカールが風に揺れていた。そういえば、昔は母の長い髪に憧れて、真似して一緒にのばしてたっけ。水滴さえもすべってしまうくらい、真っ直ぐで艶やかな母の黒髪が好きだった。母みたいに真っ直ぐでない自分の髪が好きじゃなかったけど、母に髪をといてもらえると、なぜか自分の髪が特別きれいになる気がして、その時間が何よりも大好きだった。
「……悪いことばっかりしてたらお母さんに怒られちゃうよ」
小さい私は恨めしそうにこちらを見つめる。彼女が言う「悪いこと」だなんて、心当たりがありすぎて一つに絞れない。でも、挙げるとするならば、先程の三輪君との会話の中身だろうか。
「……ねえ、良いこと教えてあげようか。たとえあの人に逆らったとしても、別にどうってことないんだよ」
だって、あの人は体裁ばっかり気にして、私のことなんて見てないんだから。そう心の中でつぶやく。
「何言ってるの、それは嘘でしょう。だってお母さんに無視されると悲しくて、苦しくて、生きていけないの」
生きていけないの。その言葉だけ弱々しく呟く彼女は、今にも小さくなって消えてしまいそうだった。大人みたいな振る舞いをするのに、まるで子供みたいなことを話す自分を目の当たりにして、そのアンバランスさに少し悲しくなってしまった。この頃の私にとっては、母がすべてで、母に受け入れられないことは、存在としての死に直結するのであった。
「……そうだった。そうだったね」
昔の私が静かに泣いている。大声で泣くと母が迷惑そうな顔をするから、いつの間にか静かに泣くのが上手になってたんだなあ。泣いている自分はどこか遠くに感じ、まるで他人事のように思える。あの人の言うことが全てだと思ってた頃は、こんなにも幼くて小さかった。
「分かるよ。目の前にいるのにいないみたいな反応されて、いい子で居続けないと話も聞いて貰えなかったものね」
「……そうなの。それがすごく怖いの。でもね、お母さんの言うことは正しいの」
まるで作り物みたいな紫の瞳が私を見据える。未来の自分のことさえも信じず、ずっと母の言うことを信じている。普通に考えて、正気の沙汰ではない。
彼女は同じ自分だけど、考えることはこうも違っている。まるで、今の自分がおかしく感じてしまうくらいに。今の私も、三輪君たちとの出会いがなかったら、一生このままだったのだろうか。そう考えるとぞっとする。でも、そんな幼い自分を否定することもできなかった。だって、その頃は精一杯だっただろうから。
そして、母の言うことが全て正しい訳じゃないと分かっていながらも、自分がどうしたいだとか、そういう思考に至ることさえできない自分が、一層情けなく感じた。
◇ ◇ ◇
わかんないや。そうやって考えることを放棄した彼女は、いつもとは様子がてんで違って見えた。まるで手元から溢れるように、愛想笑いをしながら走って逃げていった。そのことがずっと気になっていた。
家で宿題をしていても、晩御飯を食べていても、風呂に入っていても、気づけばあの蛇石の顔が浮かび上がってくる。今、彼女を一人にしてはいけない気がする。そう思った根拠は全くないが、その言葉には俺を突き動かす力を持っていた。
風呂上がりにすぐ携帯を取り出し、着信履歴の画面を起動する。通話するのは蛇石くらいなので、電話帳を起動するよりもこっちの方が早い。慣れた手つきで受話器ボタンを押し、蛇石を呼び出す。とにかく蛇石に出てもらって、あのとき感じた違和感は何なのか確認したい。
『あ、三輪君。さっきぶりだね』
「っ、蛇石」
思ったよりも早く繋がった。携帯から聞こえてきたのは、さっきの様子とは比にならないくらい明るい声だった。元気があるときの、いつもの蛇石みたいな声だ。
『三輪君から電話くれるなんて嬉しいな。どうしたの?』
「……いや、さっき様子が変だった気がして」
『やだ、そんなことで電話してくれたの? ありがとう。全然大丈夫だよ』
少しだけ、声のトーンが下がったような違和感を感じた。蛇石が嘘をつくときはいつも、俺が絶対気づかないような巧妙な嘘をつく。だから、実際嘘をつかれたことなんて気づいていないのだろう。でも、今のはほんの少しの違和感があった。俺が違和感を感じるくらいだから、きっとこれは本当のことを言っていないんだろう。
『高校どこにしようかなーなんて、ちょっと考え事してただけ。でもやっぱり私は六頴館かなあ』
「なんで?」
『何でってそりゃあ、できるだけ上の高校に行っておいた方が後から楽に決まってるし。それに、六頴館のブレザーなかなか可愛いじゃん? このままボーダーも続ける気だけどさ、もし違う道に興味が出たときに、大学進学が厳しいなんて悔しいってのもあるかなあ』
つらつらと、いつもより少し饒舌な様子で、蛇石の口から言葉が並べられる。電話だとどうも蛇石との距離が縮められる気がせず、向こうに聞こえないよう小さくため息をつく。
彼女は、こちらが彼女の弱いところに詰め寄った分だけ、ちがう方向へ逃げていこうとする。加えて、蛇石は嘘が上手だ。もちろん上手なのだけれど、これだけ深くつながった仲なのだから、こんなつまらない嘘に俺が気づかないわけないじゃないか。彼女に信用してもらえていないことに対して、がっかりと肩を落としてしまうくらいには、蛇石と自分が近しい距離であるという自負があったようだ。
「……蛇石が自分で考えて決めたならいいと思う」
『うん。とっても考えたの。高校は離れちゃうかもしれないけどさ、今だってクラス違ってもこれだけ会えてるもん。私たちは大丈夫だよ』
まるで、自分に言い聞かせるみたいな言い方をする蛇石は、今どんな顔をしながら話しているんだろうか。今すぐその下手くそな嘘を暴いてやりたかったが、プライドの高い彼女のことだから、俺が真っ向から挑んだとしても決して弱音は吐かないだろう。今の距離じゃだめだ。電波でしか繋がることができない、顔の見えない距離じゃ。
このまま引き下がることなんてできなかった。今のタイミングを逃してしまったら、彼女は誰にも本音を言えないまま、大して行きたくもない高校へ通い、一生他人に縛り付けられる生活が続いてしまうような気がした。
蛇石の声を名残惜しみながら電話を切り、その辺にかけてあった上着を適当に手に取る。母に一言出かけてくると声をかけ、勢いのまま外へ出た。すっかり暗くなった夜道を、ぼんやりとした街灯が照らしている。彼女の家の前まで足早に移動し、もう一度電話をかける。
「蛇石」
『……二回もどうしたの?』
先ほどよりも少し低く、それでもって小さな声が受話器から聞こえてくる。
「窓開けて」
『え、』
彼女の家の外にいても、中からがたがたと物音がするのが分かった。閉められていたカーテンが勢いよく開き、内側から明るい光が漏れ出す。それとともに、慌てた様子の蛇石が窓から顔を出した。
『え、なんでいるの』
受話器越しに聞こえる声と、夜道に響き渡る声が二重に聞こえた。彼女は、しまった、という顔をしながら口を塞ぎ、もう一度「なんでいるの」と小さな声で言い直した。
「蛇石が嘘ばっか言うから」
『嘘なんかじゃ……』
「それくらいの嘘なら俺でも分かる」
そう断言すると、蛇石はもにょもにょと「でも……」なんて言い訳を繰り返した。外からじゃ、窓にもたれかかる蛇石がどんな顔をしているのかまでは見えなかった。見えなかったけれど、俺はずっと彼女のことを見つめ続けていた。
『……なんで三輪君は分かっちゃうの』
しばらく沈黙が続いた後、そう弱々しく呟いた彼女は、いつも見せている気丈な蛇石桔梗ではなかった。でも俺は、こんな今にも消えてしまいそうな彼女も、ちゃんと蛇石桔梗の一部であることを知っている。
「……心配だったから」
『やだ。私うまくかくせてたと思ってたのに。それに、勝手に家まで来るなんて反則だよ』
「……蛇石が、こうやって一人で泣いてるんじゃないかと思って」
いつしか、自分が一人部屋に閉じこもっていた時のことを思い出した。無理やり扉を開いて、強引に連れ出そうとした蛇石の姿が、今でも鮮明に思い出すことができる。そんな蛇石が、あの頃の俺と同じように、殻にこもったまま懸命に自分を守ろうとしている。
『っ……』
しばらくの沈黙のあと、受話器からはぐすり、と鼻をすする音が聞こえた。目の前の蛇石は、口元を手で押さえたまま黙っている。
『……わたし、なんで今泣いてるのか自分でもよくわからないの』
「……うん」
今にも消えてしまいそうなほどのか細い声が耳の中に響く。これは、正真正銘蛇石の言葉だ。誰にも影響されてなんかいない、蛇石から出された本心の声だ。
「……弱音を吐くのなんて嫌かもしれないけど、いつも心配してる。だから、頼ってほしい」
『……なにそれぇ』
まるで川が決壊したみたいに、嗚咽とともにぐず、ぐずという音が聞こえてくる。目の前にいるのに宥めてあげられない、このもどかしい距離を飛び越えてしまいたかった。
『……みわくん』
「……何?」
『……ありがとう』
みわくんがつらそうなかおしてるのがすき。いつしか彼女はそう言った。確か、何回か一緒に寝そべった時だったと思う。それを聞いたとき、一体どういう意味なのかと尋ねたが、そのままの意味だよ、と言って笑いかけられたのを覚えている。
彼女の言葉を思い出し改めて感じる。俺は蛇石の辛そうな顔を見るのが嫌だ。彼女が泣いていると、俺も一緒に泣きたくなってしまうし、我慢しているところをみると、どうしようもなく辛い気持ちになる。
辛いのを周りに見せずに隠そうとする彼女を愛おしいと思う反面、もっと周りに寄りかかってもいいのに、とも思う。むしろ、頼ろうとしない彼女に苛立ちすら感じてくる。信用されていないわけではないと思うけど、肝心なときに頼られない自分は、まるで役立たずのようだ。
『私、こんなに母に反抗してるみたいなこと言ってるけど、実際はいつまでも支配されてるんだって、認めるのが怖かったの』
か細く、それでいて力のこもった声が耳元から聞こえてくる。
『だって悔しいじゃん。あんな人一人に転がされ続けて。それで、自分の道を選択していいよって言われても、あの人の思う通りに選択しちゃうんだよ。しかも、それを無意識で。こんなのどうかしてる』
「蛇石がそう思うことは悪いことじゃないと思う。だって、蛇石が考えた結果だろ」
『……悪いことじゃない? 何で? お母さんと一緒の思考回路になってるんだよ?』
「自分の考え全てが駄目だって決めつけたら、余計しんどくなると思う」
『……どういうこと?』
「蛇石がそう考えてしまうのは、今までの積み重なってきたものの影響もあるだろ。だから、それらを全部『おばさんの考え方だから』って突っぱね始めると、余計雁字搦めになって、自分の首を絞めることになると思う」
『それは……』
「だから、そんなに結論を急がなくていいし、一人で決めようとしなくてもいいと思う」
いつも大切なことをひとりで決めようとする、目の前のこの人へ。ずっと思っていたことを口に出して伝える。
蛇石は、俺の言葉を聞いた後、しばらく黙っていた。さきほどの涙はすっかり止まり、固かった表情がだんだん解れていくようにも思えた。
『……ふふ。三輪君、言ってることが全部頭よさそうに聞こえる』
「おい。茶化すなよ」
『だって、本当に感動したんだもん』
さきほどのしんみりしたムードとは裏腹に、聞いているこっちが拍子抜けするような声色で、蛇石はあっけらかんと話してみせた。自分が話したことがちゃんと伝わっているか、不安になってしまうほどの変わりようだ。
『……なんかさ、そう言ってもらえて楽になった気がする』
耳元を抜けるこの声が、やけに愛おしく感じた。よかった。ちゃんと俺の声は蛇石に届いていたみたいだ。
「……散々格好つけたけど、全部先輩の受け売りだから」
『……ふふ、そうやって自分の手柄にしないところ、好きだよ』
真っ暗な街の中で、ただ蛇石の部屋だけが光って見える。彼女の言う「好きだよ」の言葉は、どれだけ耳馴染みのいい言葉だろう。
『三輪君、ありがとう。私頑張ってくるよ』
そう言って、部屋の明かりに包まれた蛇石はこちらに向かって手を振った。先ほどの浮かない表情とはまるで変わっていて、肩の荷がおりたように落ち着いた表情をしていた。
◇ ◇ ◇
三輪君にたくさんもらった勇気を引っ提げて、私は今日戦いに出る。家族に、包み隠さず私の想いを全部話すことにする。そう心に決めて、ゆっくりと肩を回した。
私は絶対に、三門第一へ進学してみせる。母に何て言われようと、父にどんな権力を使われようと、絶対に三輪君と離れたくない。ずっと一緒にいたい。
私は、いい子になんてなりたくない。
家族全員がそろった夕食の時間。静けさしかないその場所で、私はすっと深呼吸をした。父と母の食事が大方終わったところを見計らい、ずっとずっと話したかった話題を切り出す。
「あの。進路のことで大切な話をしたいんだけど」
そう言うと、母はまるで品定めをするかのような顔でこちらを見た。でも、父がいる以上母は私に強く出られないだろう。だから私は、二人が揃うこの場を狙ってきたのだ。対する父は、ただ目線だけをこちらに向け、さほど興味がなさそうな表情にみえる。ああ、そうだったね。私の行動を気にしているのは、良くも悪くも母だけだった。
「前、ボーダーは提携してる高校が二つあるって話したじゃん」
そう話しながら、緊張で時々つっかえそうになる。落ち着いて話せば大丈夫。そう思ってはいても、沈黙という重圧は想像以上に重い。
「それでね……。私は六頴館じゃなくて、三門第一に入りたいと思ってるの」
「……え?」
この家の中だけ時が止まってしまったような、そんな静けさを感じた。でも、私は進路のことをまず伝えられたことに大きな満足感を感じる。
やった。言えた。三門第一へ入りたいって言えたのだ。でも、それだけで満足してはいけない。どうして六頴館じゃなくて三門を選ぶのか。そこまで話さないとこの人は納得してくれない。
「これ、学校の資料。先生に貰ったやつ」
付箋をたくさん付けておいた学校案内の資料を目の前に出す。進学実績の欄にある、名高い国公立や有名私立大学が羅列してあるページを指してみせる。
「学校の歴史が深いから国公立の推薦枠も十分あるし、上位を保っておけば確実に手に入れられるって言われたの。これ、進学実績の表」
次々と説明をする口が止まらない。意外にも、目の前の二人は黙ったまま私の話を聞いている。どういう意味の沈黙なのか私には分からなかったけれど、今の私はこの人たちには負けないと思えるような、そんな無敵感すら感じ始めた。
とりあえず伝えたいことすべてを言葉に出し切り、私はひとつ息をつく。私が話を終えた後でも、二人は変わらず沈黙を貫いている。これからどう話を持っていこうか。切り出す言葉に迷っていると、ずっと黙りこくっていた父がようやく口を開いた。
「……いいんじゃないのか?」
そう言って、父は母のことを一瞥した。まるで、母を悪者にするかのように。
父がすんなり私の味方をしてくれるなんて、そんなこと予想もしていなかった。こういう時には頼りになってくれるんだ。今までは良くも悪くも無関心だったけど、今この場で父のことを少し見直した。
「桔梗だってもう中学二年生だ。何の分別もつかない子供じゃないだろう。高校くらい本人の行きたいところに行かせればいいんじゃないか。最終的なゴールは就職だろう」
そう、その通り。分かってるじゃない。心の中で父の言葉に頷きながら、私は母の方をちらりと盗み見る。母はすっかりと顔色を変え、爆発寸前のような赤い色をしていた。
「でも……! 三門なんてパッとしない公立へ行かせても意味がないじゃない!」
「桔梗。高校は好きなところへ行くといい。父さんも高校受験はうまく行かなかったが、大学受験で挽回して今の企業へ入ったんだ」
「ちょっと、お父さん!」
「……おい、働いてもない奴が、ごちゃごちゃと口出しするな。お前ができなかった分を、桔梗にやらせたいだけだろ!!」
今まで聞いたことないような父の怒鳴り声が、リビング中に響き渡る。それを投げつけられた母は、まるで強者に威嚇された後の小動物のように小さくなってみえた。いつも私の前ではふんぞり返っていた人が馬鹿みたい。まるで裸の王様みたいじゃない。そう心の中で笑っていても、すっきりする気持ちとは少し違うものを感じていた。どうしてだろう。私は三門第一に行けることが決まったのに。三輪君とずっと一緒にいられることが決まったのに。
父はお酒の入ったボトルを手に持って、二階の自室へと向かっていった。時間がすっぽり抜けたみたいに、リビングの中に空白が訪れる。
そうして、私の持ち出した家族会議はまとまった。三輪君と同じ高校へ通っても良いという確約を得ることができ、今まで緊張していた体がだんだんとほぐれていくのを感じた。
「……桔梗、良かったわね。お父さんまで味方につけることができて。私への当て付けが十分達成できたんじゃない」
ものの三十分で何十歳も老けたような顔をした母がそう言った。厭味ったらしい言葉の数々を聞き、胸にもやが薄く広がり始める。
「……違う。別にそういうつもりじゃない!」
「実際そうじゃない。私が全部悪者みたいにされて、しかもお父さんの前で。今まで必死に子育てしてきたのに、全部裏切られた気分よ」
「……私は、私は……」
「それに理由だって、きっと秀次君のことでしょ? まったく、男にかまけて……。こんな馬鹿な子に育てた覚えはないわ」
ああ、さっきまでこの人に少しでも同情してた私が馬鹿みたい。やっぱり、この人はどこまでもひん曲がっていて、期待するだけ無駄だったんだ。
「……知らなかった? 私、本当はどうしようもない馬鹿なんだよ」
自然と口が動いていた。やつれた顔をした自分の母親は、鋭い視線を私に浴びせ続けている。でも、もうこの人なんて怖くない。
「今までとってもとっても頑張ってたの。お母さんに認めて欲しくて、ずっと必死になんでもやってきた。お母さんが私を褒めてくれる時間が、何よりもずっと欲しかったの。……でもね、それがどうでもいいって思えるくらい、どうしても三輪君のそばにいたいって思うの」
三輪君。私の大切な三輪君。私をこの怪物と戦えるだけの勇気をくれて、背中を押してくれた三輪君。三輪君のおかげで、今こうして本音を話せている。母に本音を話せているのなんて、生まれて初めてのことかもしれない。
「何言ってるの。たかが中学生の恋愛でしょ。そんなものどうせ、すぐに壊れるに決まってる。そしたら私の言うことが正しかったって分かるわ。あんな中途半端な高校へ行ってしまえば最後よ。大学だって、どうせパッとしないところにしか入れないに決まってる。お母さんの言うことを聞いておけばよかったって、泣きつくあなたの姿が想像できるもの」
「……多分そうはならないよ」
「生意気な口を聞くんじゃない!!」
叫ぶしか能のなさそうなお母さんの声がリビングに響く。どれだけこの人が癇癪を起こしても、父がリビングへ降りてくることなんてないだろう。
「私、お母さんの言う通り、安定した職業に就いて、一生困らない生活をするつもりだよ」
「そんなのあんた一人でできる訳ないでしょ」
「迷惑は絶対にかけないから」
「……ちょっと、待ちなさいよ」
食べ終わった食器が散乱する机を一瞥し、私は踵を返した。さようなら、お母さん。今まで母の期待に応えるため頑張ってきた私。
「待ちなさい! 桔梗! 戻って来なさい!!」
必死に喚く母の声を聞いても、罪悪感も何も感じなかった。この足は既に三輪君の方向へ向いていた。
母の制止を無視して玄関を開けると、さらりとした空気が私の袖の下を撫でていった。外の空気はこんなにも気持ちがいい。今まで感じていた息苦しさは、もうすっかり感じなくなっていた。会いたい。今すぐ三輪君に会いたい。今のことを全部伝えて、優しく抱きしめてもらいたい。
雲一つないおかげで、星がきれいに見える空の下。三輪君の家の前で、昨日の三輪君がしてくれたみたいに、私も携帯から電話をかけた。何コールか鳴り響いた後、お風呂を上がってちょうどゆっくりしてたであろう三輪君が、慌てた様子で部屋の中に迎え入れてくれた。
「ねえ三輪君、私伝えてきたよ」
「うん」
少し髪の濡れた三輪君は、神妙そうな顔をして頷いてくれた。私の気持ちを全部受け止めてくれる三輪君。三輪君のそばでなら、わたしは安心して息をすることができる。
「三門第一に行きたいって言ったの。そしたら、お父さんはいいよって」
「うん」
「母はあんまりよく思ってなかったみたい。でもね、初めて本当のこと言えた」
「そうか」
「……私が本当に見て欲しかったのはお母さんだったんだよって、やっと言えた」
さっきまでは何とも思っていなかったくせに、三輪君の前でそれを口にすると、段々と苦しくなって少し言葉がつっかえた。すると、たちまち三輪君の匂いで頭の中がいっぱいになる。
いつの間にか、すっぽりと三輪君の胸の中に収まっていた。匂い、体温、三輪君を表すすべての情報が、私の涙腺を緩めさせる。自然と縮こまっていた体も、三輪君の腕の中でようやく力が抜ける。羽を伸ばすかのように、根本から先端まで、じんわりとあたたかい何かが走っていく。いつも優しく包み込んでくれる彼だけど、今日に限っては容赦がない。まるで蛇がぎゅうぎゅうと根本から絡みつくように、私の体全てをぎゅっと抱き寄せ、離さない。
「三輪君、ちょっとくるしい」
「そうか」
「……だからくるしいってば」
返事をしても緩めてくれないから再度抗議の声を上げる。しかし、これまた緩めてくれることはない。困ったなと思いつつも、離してくれない三輪君は、まるで駄々をこねる子供みたいで愛おしいな、という感情も同時に沸きたつ。
「珍しく積極的じゃん」
「……蛇石が頑張ったから」
その言葉を聞いた瞬間、どうしようもなく苦しくなった。からかうように言った私の言葉も、空中にぽかりと浮いていく。この人はいつもそうなのだ。私のことをいつでも見ていてくれて、それを全て肯定してくれる。
本心では、いつでも三輪君に甘えたかったのだ。それなのに、いつも茶化してかわそうとしてしまう。そんな私を逃さないように、三輪君はこうやって離さないでいてくれる。三輪君は、私が甘えたがりなことを見透かしているかもしれない。彼のそばにいると、じんわりと暖かい気持ちになる。私の頭が三輪君で埋め尽くされる。ずっとこうしてふれあっていたい。
次第に、目の前がぐしゃりと滲んでいく。この人の前では、どんな顔でも見せられる。
「……三輪君、ずっと私だけ見てて欲しい」
そう伝えると、三輪君は返事のかわりに、腕の力を少し緩めた。静かに顔をあげたので、私も同じように顔をあげる。三輪君の眼光に撃ち抜かれる。目が離せない。
あ、キスされる。そう咄嗟に思った。三輪君の影が顔に覆い被さるのが分かり、反射的に瞼を伏せる。この人から与えられる幸福の海に、私は溺れてしまいそうだ。
どちらから舌を絡めたのかなんてわからない。まるでくっついてしまうような長い口付けを交わす。三輪君は私を求めている。私も三輪君を求めている。それだけでいい。後は何もいらない。
息継ぎも忘れて、三輪君を肌で、耳で、口で、目で感じる。
このまま窒息して死んでしまってもいい、とさえも思ってる。
「……三輪君、したい」
息が詰まるほど熱い視線を浴びる。
「……俺も、だ」
その言葉を皮切りに、二人で手をつないで、まるで雪崩れ込むように三輪君のベッドへ沈む。全く冷静になることなんてできない。むしろ、この状況でなれる方がおかしいくらいだ。
「ねえ、大好きだよ」
三輪君の胸元に手を当てる。荒い息遣いと、苦しそうに、しかしながら真っ直ぐにこちらを見る三輪君の顔に、思わずぞくりとした。だいすきな人に触られる幸福と、とめどなく溢れ出てくる自身の欲で頭がおかしくなりそうだ。
三輪君の一挙一動を眺めていると、体の奥からじんわりと熱が湧き上がってきて、もう目の前の事しか考えられなくなる。わたし、いきてるんだ。三輪君に求められると、はじめて自分の輪郭がはっきりするような気がするのだ。その行為によって、わたしというものがはじめて形作られるような、そんな特別な余韻に酔いしれた。
◇ ◇ ◇
「蛇石、水」
「ん。ありがと」
特有のけだるさが残る中、三輪君がリビングからペットボトルを持ってきてくれた。部屋着だけどちゃんと服を着ている三輪君に対し、私はまだ何も身にまとっていない。だって、まだこの余韻の中にいたいんだもの。
「……何も考えずにしたの、今日が初めてかもしれない」
「……確かに、反応がいつもと全然違ったかもしれない」
「やだそれ。なんか恥ずかしい。主導権を奪われた気分」
「なんだよそれ」
そう言って三輪君は不満そうに口を尖らせた。また熱が発散しきれていないのか、頬が火照っているように見える。今日の私は特別素直だったかもしれないけれど、三輪君だって欲望に忠実に求めていた気がするからお互いさまなんじゃないの。そう思ったけれど、そのことはなんだか悔しいから言ってあげない。だって、私を真っ直ぐ求めてくれる三輪君の姿は、私だけが独り占めしていたい。たとえ本人相手でも、私の瞳から見た三輪君のことは教えたくない。
「……蛇石」
「ん?」
三輪君の優しい瞳がこちらを見据える。目尻のゆるりとしたカーブが、彼の背負う雰囲気すべてを柔らかく感じさせる。
「……これからも俺の前では、計算とか、忖度とか、そういうのしなくてもいい。絶対分かってやれるから」
ひどく、優しい声が心に響いた。
ああ、この人は、私をどこまで優しさで包み込めば気が済むんだろう。私は三輪君にもらってばかりだ。でも、三輪君はきっとそんな風には思わずに、むしろ私にもらってばかりだと思いこんでいるんだろう。ばか。ばかばかばか。うそ。やっぱばかじゃない。
「何それ。……本当に何言っても嫌いにならない?」
「ならない」
ちょっと、簡単に即答したけど本当にいいの? まったく、普通に考えたら馬鹿げて聞こえるだろう私の言葉にも、三輪君は真面目に答えてくれるんだから。ただただ愛おしい彼の横顔を、私はずっと見つめてみる。
「……もし嘘ついたら?」
「……俺は蛇石と違って嘘はつかない」
もう、私も三輪君にそんな嘘ついたことないよ。そうやって笑えば、三輪君は信用してなさそうな顔でこちらを向いた。いつも外でみる三輪君の顔じゃなくて、もっと柔らかくほぐれた顔をしている。眉尻が緩んでみえて、ああ、なぞってしまいたいなあ、なんて心の中で考えた。
「ねえ三輪君、小指出して」
「?」
意味が分からなそうな顔をした三輪君は、私の言葉のとおり、素直に小指をこちらに向けた。三輪君の左の小指に、自分のそれを重ね合わせる。ぴったり隙間なくくっつくように、ぎゅうぎゅう小指に力をこめた。この先ずっと離れないように。離れてしまっても、もう一度お互いが結びつくように。そう思いを込めて、そっと目を閉じる。
「ゆーびきり、げーんまん」
まるで小さい子供のように、リズムを取りながらお互いの手を揺らし合う。
「うーそついたらはーりせーんぼーんのーます。……指切った」
そっと目を開けると、あきれたような、それでいて柔らかな顔をした三輪君と目が合った。
心の中の荒んだ波が、一瞬ですっと引いていくような、そんな穏やかな顔だった。