12 東に沈んだ尾びれ


 髭面のあの客はいつもセブンスターを二箱だけ買っていく。ノッポサラリーマンは決まってカツ丼と緑茶。作業着姿の男の人はいつも無糖コーヒーだけ……。入店してくる客を眺めながら、常連客なら何を買うのかが大体わかるようになってきた。
 高校生活もひと段落した五月中旬から、私はアルバイトというものを始めた。平日中心に週に四回程度。時給は大体八百円くらい。
 たくさんあるアルバイトの中でも私はコンビニを選んだのだけど、コンビニバイトはレジだけしてればいいわけじゃないということを、バイトを始める前の私はまったく知らなかった。怒涛とやってくる商品の品出しや公共料金の支払い、荷物の発送……。色々と覚えなきゃいけないことばかりで、どうして軽い気持ちでコンビニバイトを選んだのかと後悔したけど、初日でやめるのは我慢した。今も何だかんだ続いている。
 わからない時はすぐ先輩に聞いてしまうけど、いい顔をしてくれる人ばかりじゃない。実際自分だったら嫌な顔しちゃうと思うし、早く覚えてよねオーラをめちゃくちゃ出されるたびに辞めたくなってくる。でも次のバイト見つけるのもめんどくさいし、数ヶ月やっても覚えられなかったらやめよ。私の能天気な性格はこういう場面で生かされる。
 その中でも一人だけ、いつも笑顔でいろいろ教えてくれる先輩がいた。三歳上の大学一年生で、大体午後のシフトで被る男の人。いつもだるっとしたTシャツを着ていて、事務所に入ってくるときに出す「おつかれ〜」というゆるい音程が妙に耳に馴染む。私はその人のことが別に嫌いじゃなかった。

 ◇

「糸ちゃん頑張ってんね。来月めっちゃシフト入るじゃん」
「わ」
 夜勤の人とバトンタッチし、バックヤードで来月のシフトをチェックしていたところ、後ろから例の男の人に話しかけられた。自分しかいないと思ってたからついびっくりしてしまい、先輩はそんな私を見て「何びっくりしてんの」なんて言いながら頭をぽんと叩いた。おつかれさまです、と言葉を返し、ぐちゃぐちゃのバイト着を詰め込んだトートバッグをキュッと握る。
「もうすぐ新型のゲーム機発売されるじゃないですか。発売されてから没頭できるように、今のうちに貯めとこうと思って」
「へえ、めちゃくちゃ計画的じゃん。意外とそういうの計算できるタイプなの?」
「え、逆に計算できないタイプだと思ってたんですか?」
「うん。お金の管理とかヘタそー」
 先輩は頬杖をつきながら私をからかうようにジロジロと目を動かす。右目の下にある泣きぼくろがまんまるできれいだなぁ。会話の内容とはまったく関係ないことを考えながらも、「もー!」なんて声を出して怒ったフリをする。すると先輩は笑いながら満足そうに、また私の顔を覗き込んだ。
「今日久々に上がり被ったことだし、家まで送ってあげるね」
 その時の、今からいたずらするみたいな顔に惹かれてしまって、私は無言で首を一回だけ縦に振った。その瞬間、先輩の口元はにこりと弧を結び、軽い足取りで先に事務所から出ていく。心の奥がなぜだかざわついた。

 ◇

「明日は学校行くの?」
「行かなきゃダメな日なんですよ。でも明後日は課題だけだから朝からバイトです」
「うわ、働くねぇ〜」
 日中は半袖でも問題ないくらいの気候になったけど、夜になるとさすがに風が冷たく感じる。本当はバイト先からバス一本で帰ることができるけど、歩きでめちゃくちゃ時間がかかるわけじゃないし、せっかく送ってくれるって言うから今日くらいはいいかと思い、人出の少ない通りを先輩と並んで歩いている。
 先輩は友子と同じしっかりとした黒髪だ。わざとらしくワックスべたべたでもなく、ノーセットでもなく。なんていうのかわかんないけど、とにかく都会にいそうな髪型。うちの高校に色気づいた男子はたくさんいるけど、やっぱり大学生だと垢抜けて見えるなぁ。
 私はこの人のことをいつもタナカさんと呼んでいる。下の名は「広海」という字を書くらしいけど、なんて読むのか全然わかんない。
「どう? 高校で友達できた?」
「……まあたぶん?」
「多分って何。友達かは微妙ってこと?」
「うーん。別に話すは話すんですけど、休みの日に遊ぶかって言われたらビミョーです」
「あ〜成る程。なんとなく分かったわ」
 学校の様子を思い浮かべながら話を進めていく。私と同じように髪色が派手な子もいれば、全く話したことのない暗そうな子もたくさんいる。みんな授業時間のギリギリに登校し、授業が終わればスタスタ帰っていく感じだから、放課後にどっか行く〜とか遊ぶ〜って雰囲気じゃないかな。学校で話す分には話題に困らないしいいんだけど、学校外ってなると何話せばいいかわかんないから私からも誘う気は全然ないし。
 タナカさんは三門市内の大学に通っていると教えてくれた。大学にはいろんな学部があって〜とか、ボーダーの有名人を見かけたことがあって〜とかそんなとりとめのない話。ふうん、と適当な相槌を返してもタナカさんは気にせず話を続けていく。話自体は別に興味ないけど、向こうがたくさん喋ってくれる分には話題に困らなくて助かるなぁ。道路に漂う晩御飯の匂いをたどりながら、今日の晩御飯は何なのか考える。今日のお昼は豚キムチが入ってたから、きっとキムチはなくなっちゃってるんだろうなぁ。
「あ、あたしの家ここです」
 ぼんやり歩いていたらいつの間にか家のそばまでたどり着いていた。さっきまではいろんなご飯の匂いが漂っていたのに、ここについたら途端に匂いがしなくなっちゃった。
 ありがとうございました、と伝え、玄関の門を開けようとする。すると先輩は「ちょっと待って」と言いながら私の手を引いた。ひんやりとした手が、私の手首をクイっと引っ張る。
「あのさ、俺と付き合ってくれない?」
「……え?」
 突然、タナカ先輩の言葉が頭の中に乱入してきた。なかなか衝撃的すぎて、晩御飯のことなんて頭から飛んでいく。確かに先輩からの好意は薄々感じていたけど、こんな急に言われるほどだとは思わないじゃん。ちょっといいな、って思われてるくらいだと思ってたよ。
「ほら、糸ちゃんってすごい頑張り屋じゃん。前からいいなって思ってたんだよね。もしよかったら……だけど」
 先輩は恥ずかしがることもなく、まっすぐと私の目を見つめてくる。こういうことは慣れているのかもしれない。私は今までタナカ先輩のことを意識したことはなかったけど、こうやって近距離で見つめられるとどうも恥ずかしくなってつい目を逸らしたくなる。先輩に掴まれている右手がだんだん熱くなっていくのを感じる。
 昔、たしか中学二年生の頃に初めて彼氏ができたことがある。といっても一週間足らずで別れたし、手を繋ぐことすらしてないから彼氏って呼んでいいのかわかんないけど。あの時は急に冷めて嫌になったけど、それに対してこの人は私のことを大切にしてくれそうな気がした。コミュ力高くて話題に困らなさそうだし。断る理由が特にないから、言われるままオッケーしちゃってもいいのかも。試しに付き合ったらすごく好きになれるかもしれないし。
 ふぅ、と息を一回はいた後、勇気を出して先輩の顔を見た。先輩のピアスに街灯の光が反射してる。あんなところまで穴開けて痛くないのかな。
「あの、あたしで……よければ、ですけど」
 真っ直ぐ目を見るつもりだったのに、いろんな恥ずかしさから耐えられなくなってつい目を泳がせてしまった。情けない返事になってしまったのに、先輩はにっこりと笑って私の頭をわしゃわしゃと撫でる。あまりにもぐしゃぐしゃになったから抗議の声をあげると、タナカ先輩は途端に真面目な表情に切り替わって、髪の毛を直そうとした私の両手をがっしりと掴んだ。
「……大切にするから」
 顔がどんどん近づいてくる。反射的に少し後ろに下がってしまったけど、両手が塞がったままでは何の抵抗もできない。ドキドキしながら両目を瞑ってみると、ふわりと唇に柔らかい感触がした。一瞬触れただけでおしまいで、ゆっくりと温かな体温が離れていく。おやすみ、と小さく呟いた先輩は、また頭を一撫でした後、夜道へ戻っていった。

 人生で初めてキスというものをした。唇が触れた瞬間、相手のものがべたべたしていてちょっと嫌だった。
 離れていく唇を見ながら、なんだ、こんなもんか、とがっかりした。
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 ◇
 
 教室の窓からは雲ひとつない青空が見える。書きっぱなしの黒板に誰も触れようとしないまま、いつの間にかお昼の時間になっていた。
 授業後半から夢の世界に旅立ってしまった私は頭を抱え、自分のノートを見返してみる。ノートに走る数本の曲線を見て、船を漕ぎながらも必死に板書を写そうとした思いを受け取れたけど、結局睡眠欲に負けてしまったじゃんと自分を叩きたくなった。
 そんな私の目の前に茶髪の女の子がゆらりと現れる。クラスメイトの小佐野瑠衣、もといオサノはコンビニのビニール袋を片手に持ちながら、私のすぐ前の席へと腰をかけた。「現国めっちゃ寝たわ〜」なんてあくびをする彼女の頬には、教科書の段差でできたであろう直線状の痕が浮かんでいる。私も寝ちゃった……と罪を懺悔すれば、「じゃあくまのノートは役に立たないね」なんてグサリと刺さることを言われてしまった。
「諏訪隊って確か夜勤だったよね。お疲れ様」
「そーそー。仮眠してもやっぱり眠いんだよね。寝るのはしょうがない」
 たまご蒸しパンらしきものを頬張りながらゆるゆると話を進めていく。いつもコンビニご飯を食べてるオサノとは対象的に、私は母親お手製のお弁当。たまに小腹が空いてコンビニフードを買ってしまうけど、大体お昼は白米ばっか食べている。
「そういえば朝さ、近くのコンビニにめっちゃ髪色可愛い子がいた」
 携帯をいじりながらオサノがそう話題を出してきた。お店でレジしてくれる人の顔って数分経てば忘れてしまう気がするけど、こんなお昼まで覚えてるってことは相当タイプの髪色だったのかな。確かにコンビニって金髪の人でもバイトしてるし色々自由なんだろうなぁ。そう思いながらオサノの話に耳を傾ける。
「へえ。よっぽど可愛かったんだね」
「だってハイトーンの金髪に水色のインナーだよ。なかなか勇気いりそうだけどめちゃくちゃかわいくない? あたしも染めようかな〜」
「……え?」
「ん?」
 金髪に水色のインナーを入れている人物なんて、私の中には心当たりしかなかった。街中でもそうそう見かけない珍しい色だし、もしかしたら私が知ってる人本人だったりする? 前彼女に会った時、はにかみながら髪色を自慢されたことを思い出す。
 でもコンビニバイトやりはじめたなんて聞いたことないし。糸の他にも同じ髪色の人が存在しているかもしれない。そう思いながらオサノの方へ体を向ける。
「ひょっとしてボブ頭?」
「そー。カラコンもめっちゃ派手だった」
 薄い水色がかった瞳の幼馴染の姿が連想できた。ここまでくるときっと別人ではないだろう。私は腹を括り、ため息とともに頭を抱える。
「……それ、もしかしたらあたしの幼馴染かも……」
「え〜? マジ?」
 それが大マジなのである。突然の疲労感におそわれる私とは対照的に、オサノはさほど驚かない様子のまま、ようやく割り箸を開封し始める。今日のオサノメシはコンビニのパスタサラダ。ひょっとしたら糸がお会計したかもしれないパスタサラダ。ドレッシングべたべたする〜、なんて小言を並べるオサノを見ながら、私はいつまでもコンビニ店員の正体が気になって仕方なかった。

 ◇

 次の日の朝。少し早めに家を出て、学校へ直行せずにコンビニへ寄り道する。一高生御用達のコンビニエンスストア。普段は放課後くらいしか行かないけど今日は別。オサノの言っていた派手髪のバイトの子は一体どこかと思いながら入り口の自動ドアを潜る。腑抜けた「いらっしゃいませー」の声で反射的に振り向くと、そこには金髪に水色のインナーが特徴的な女の子が立っていた。確かにそれは、私の幼馴染にしか見えなくて。
「……糸!」
「あ、友子だ。今日は弁当じゃないの?」
 昨日オサノが言ってたのは本当に糸だったの。ていうかいつからバイトなんて始めたの? それもなんでこんな場所に決めたの? 頭の中でぐるぐる言葉は浮かぶけど、私は金魚のようにパクパクするだけで何も言えなかった。私はすごく驚いているというのに、対する糸は全然驚く様子が感じられない。「なんだ、もう見つけたんだね」と言わんばかりの余裕さ。ていうか咄嗟に弁当の心配されるって何。そりゃあお昼は毎日母親の弁当食べてるけどさ。
 入り口で突っ立ったままの私を迷惑そうにしながらいろんな人が通り過ぎていく。誰かにぶつかってごめんなさいって言ったけど店内のどこかへ消えてしまった。レジにもたくさんの人が並び始めたから私も大人しく店内に紛れ込む。そして時々レジの様子を覗き見る。糸はすごく無表情のままだけど、手慣れた様子でひとつひとつの会計を済ませていく。すっかりバイトも板についてるって感じだ。やり始めて結構長いのかな? もしかして四月くらいからもう始めてたりしたのかな? ドリンク売り場に立ちながら、私はいつまでも悩んでいた。

「お待たせしました。こちら温めますか?」
「いや、大丈夫です……」
 お弁当があるというのに期間限定に釣られてビビンバおにぎりを買ってしまった。それと何の変哲もないお茶。糸はスピーディーにスキャンしながら、抑揚のない声で合計金額を読み上げる。
「……まさかこんなところでバイトしてるなんて」
 後ろに並ぶ人がいないことを見計らって、できるだけ短い言葉でそう伝えてみた。目線は財布の小銭一直線。なかなか一円玉が見つからない。
「地元だといろんな人に会ってめんどくさいでしょ。ここなら知らない人ばっかりだし、高校の近くだと普通のサラリーマンはあんま来なくて楽なんだよね」
「ふうん」
 時々、糸は突拍子もないことをし始めることがある。今はこんなに気怠げに振る舞っているけど、実は昔から熱しやすく冷めやすい性格だ。これ! と思ったものにはすぐ飛びついて、気づいた時には既に身を引いていることが多い。
 それにしても、私くらいには事前に教えてくれてもよかったのに。昔から糸とずっと仲がいい自覚はあったし、そもそも糸がここのコンビニを選んだ理由だって、ほんの一パーセントくらいは私のことが入ってるのではなんて思ってるのに。
「……ねえ、何で急にバイト始めたの?」
 袋詰めされるおにぎりたちを見ながら、純粋な疑問を投げかけてみる。
「えー? 別に。遊びすぎたらお金なくなったの。……おしぼりはおつけしますか?」
「……はい。お願いします」
 いつもよりテンションが低い様子を見て、これ以上は答えてくれそうにないかと思った。そろそろ新しいお客さんも増えてきたし、邪魔になっちゃうから退かないと。そう思いながら小銭をトレーの中に入れると、糸は手際よくレジを操作し、一瞬だけこちらに視線を向けた。
「……あと学費ね。通信制って結構高いらしくてさ。いつまでも親のすねかじってられないから」
「……」
「……何」
「ううん。糸は相変わらずだなぁと思って」
「何が? あ、袋詰め雑だった?」
「そんなことない。丁寧にありがとう」
 なんだ。てっきり糸が遠い世界へ行ってしまったのかと思ってしまったけど、全然そんなことはなかったみたいだ。学費の話が出て納得したし、糸も糸なりにいろいろ考えていたみたいだ。おばさんにはきっと行ってないんだろうなぁ。知ったら感動しちゃうだろうなぁ、と心の中で想像してみる。
 糸は昔から変わらない。変わらないけど、きっと変わったこともたくさんあるんだろう。今回のバイトの件みたいに、私に何も言わないまま始めたことも色々とあるかもしれない。ただの幼馴染だし、そもそも知らせる義務なんてないしね。それでも知っておきたいと思ってしまうのは、糸にとって重荷となってしまうのかな。
 いつまでもこんなことを真面目に考えてしまうのは、糸が見慣れないコンビニの制服を着てるせいかもしれない。あと、いつも勉強の時はだるそーうにしてるのに、仕事になるとこんなにテキパキ動けるのが意外だったのかも。私が糸のことを百パーセント知らない分、糸も私のことを百パーセントは知らないんだと思う。それでも別にいいじゃん。糸が元気にやってれば。そうやって頭の中に言い聞かせる。
「……これからたまに来てもいい?」
 レジでの一連の作業が終わってしまい、手持ち無沙汰になった私は糸にそう声をかけた。ちょっと弱気になってしまったのは、最近あまり話せていなかった分かもしれない。
「なんであたしに聞くの。コンビニなんだし、来たいときにくればいいんじゃない」
「それもそうか。……ふふ」
「なに」
「なんでもないよ。じゃあ、またね」
「うん」
 糸の返答はかるいものだった。何も意味を含ませないまま、私を優しく受け入れてくれる、そんな言葉たちだった。
 ビビンバおにぎりとペットボトルのお茶が入ったビニール袋をぶら下げ、私はまっすぐ自動ドアの方へと歩いていく。すると、ありがとうございました〜、とまた気の抜けた声が店内に響いたので、さっきまでのテキパキしたレジ捌きは何だったのだろうと思い、ちょっとだけ笑えてしまった。

Lost stars