17 たまらないむごさであなたはまっすぐだ

 
 桜の蕾が膨らむ時期。明日にでも開花するんじゃないかとニュースで毎日言っているけど、家の近くの桜の木はまだまだ咲いてくれない。
 春から憧れの大学生活が始めることになり、私はボーダー推薦で三門大学への入学が決まった。見知った同級生も先輩もたくさんなので、さほど緊張はしていない。実家通いも決定しているので、新生活の準備なんてものも必要ない。
 
 ただ、私の幼馴染は、春から三門を出てしまうことになった。
 記憶もない頃からずっと一緒だった彼女と、春から離れ離れになってしまうことになるなんて想像がつかない。私たちもそんな年齢になったんだと頭の中では分かるけど、あまり実感は湧かずにもやもやと変な気分だった。
 
 ◇
 
「え、もう行っちゃったんですか? 確か来週って……」
 今頃引越し準備をしていると思って、昔糸にもらったキーホルダーでも見せに行こうと思ったのに、加藤家は既にがらんとあいた状態だった。玄関先のおばさんから溢れた「あの子先に行っちゃって……」という言葉の意味が分からなくて、私はその場で何度も聞き返してしまう。
「友子ちゃんと会うと引っ越したくなくなっちゃうからってねぇ。まったく、馬鹿な娘だよね。今まで友子ちゃんに散々助けてもらった恩を忘れたのかって」
 おばさんもぐちぐちと小言をいっているにもかかわらず、どこか寂しそうにしている様子が見てとれた。そりゃそうだ。ずっと二人で生活してきたんだもん。おばさんだって寂しいよね。私だってこんなに寂しいんだもん。糸のばか。そうやって小言をいったって糸には届かないし、そもそも新しい住所も教えてもらってない。もう、糸は三門の何もかも置いていくつもりなのかな。
「お別れ……言いたかったのにな」
「なに、一か月もすれば寂しくなってふらりと帰ってくるんじゃない」
 そうやっておばさんは軽く話すけど、私はそんな気全然しなかった。パタリと音信不通になって、このまま一生会えないような気がした。私、糸とは大人になってからもずっと会いたいし、それぞれに家族ができても付き合いを続けていきたいと思ってたのにな。
 もぬけのからになった加藤家の前にいてもどうにもならない。ひとりの喪失がこうも胸をチクチクと痛めつけてくる。
「友子ちゃんは三門大だっけ? 大学でも頑張りなよ」
「……ありがとうございます。おばさんも……寂しくなっちゃいますね」
「なに、反抗娘がいなくなってせーせーするよ」
 おばさんは笑う。寂しそうに笑う。冗談を言ってるつもりだろうけど全然そんなことないよ。おばさんをこんな顔にさせるなんて、糸はひどい子だ。
 もう。一言くらい、私に知らせてくれればよかったのに。

 ◇

 憧れの一人暮らしはワンルームから始まった。テレビと机、それとベッドを置いたらもう部屋はきゅんきゅん状態。せまいけどこれが意外と落ち着くんだな。トイレとお風呂は一緒のタイプ。本当は別々がよかったんだけど、家賃を比較して泣く泣く諦めた。だって別々にするだけで万単位も跳ね上がるんだもん。都会の物価は恐ろしすぎる。その他にも重視したい条件はたくさんあったけど、稼ぎが少ない今のうちはとりあえず我慢しておいた。引っ越したくなったら引っ越せばいいし、一人暮らしは気楽だ。
 入社式はまだまだ先だけど、三門でダラダラしてても仕方がないので早めに引っ越してきた。毎日やることがないので近所の店を散策したり、街をぼーっと眺めたり。まだ稼いでもないので無駄遣いはできないけど、今度あそこのケーキ買っちゃおうとか、あそこの花屋に通いたいなぁとか、そういうこと考えるだけで楽しくなっちゃうよね。自分のために時間とお金を使うのってとっても充実した気持ちになるし。それに、遅くまでゲームしてても誰にも何にも言われないし、早速一人暮らしを謳歌しまくっている。
 散策も終わり、だらだらと帰路へと向かう。古くさい黄土色のアパートにたどり着き、集合住宅特有のごちゃついたポストを確認する。すると、そこには何やらかわいらしい封筒の手紙が入っていた。私、母にしか住所教えてないはずだよなぁ。もしかして、と思いながら封筒を裏返すと、やっぱりそこには幼馴染の名前が並んでいた。何も言わずに出てきたからいつか連絡がくるだろうと思っていたけど、まさかお手紙が届くなんて。少しのワクワクと胃が切れそうな不安を抱えたまま、私は小走りで玄関へと向かっていった。
 
 鍵を開けたら靴を脱ぎ捨て、ぐちゃぐちゃになった布団へダイブした。ショルダーバッグを地面に置き、仰向けになりながら封筒を透かしてみる。もちろん中身は透けるはずもない。机に放ってあったハサミを取り出し、恐る恐る封を開けてみる。数枚の便箋を取り出し、意を決してペラリとめくった。懐かしい友子の字だ。小さい頃から全然変わらない、友子の几帳面な字が並んでいる。
「友子……」
 胸がきゅっとしまった。無心で文字を追い、彼女の残り香を少しでも感じ取ろうとする。日は既に沈みかけていて、開けっ放しの窓には西日がさしていた。
 
 ◆
 
 糸へ
 
 突然いなくなってびっくりしたよ。あたしに何にも言わずに言っちゃうなんて水臭くない? おばさんもなんだか寂しそうにしてたよ。
 
 春から東京に行くって聞いた時はびっくりした。なぜか、糸とあたしはずっと近くにいるような気がしてたんだよね。でも、糸は糸でやりたいことがあって行くんだし、あたしも笑顔で送り出したいって思ってる。

 離れてもずっとあたしたちは友達だし、こっちに帰ってきた時は声かけてよ。糸のためにも三門はあたしたちで守るから。なんて、そんな大層なこと言える実力じゃないんだけどさ。

 そういえば、糸のおばあちゃんが育ててたお花、今年も蕾が膨らんできてたよ。これからはあたしも水やり手伝っちゃおうかな、なんて。糸が帰ってくるまで枯らさないように頑張るね。

 じゃあ、一人暮らしで体壊さないように、ちゃんとしたご飯食べるんだよ。外食しすぎはだめだよ。なにか愚痴りたいことがあったら電話でもメールでも聞くし、いつでも連絡待ってるね。

 ◆

 便箋三枚にも渡って書き留められた言葉を何度も読み返す。つい何度も同じ行を読んでしまう。すべて読み終わった後、無意識に止めていた息をそっと吐き出した。
「……あたし、友子に会わないまま出てきちゃったのに」
 可愛らしい丸文字を眺めていると、頭の奥で幼馴染の顔が鮮明に浮かんでくる。やぶれた封筒に手を伸ばし、表面をペラリとめくる。そこには見慣れた筆跡で「加藤糸様」なんて文字が並んでいた。それを取り囲むように並ぶのは檸檬の挿絵。爽やかなデザインが特徴的な封筒が、友子の好みによく合っているなぁと思った。
 そういえば、部活帰りの友子からはよく柑橘系の制汗剤の匂いがした気がする。香水の匂いではなくて、ドラッグストアに並んでいる制汗剤のような匂いのやつ。友子によく似合う香りだと思っていたけど、一度も本人に伝えたことがなかった。
 あの時嗅いだ檸檬の香りがどんなだったかなんて、もう思い出せなくなっていた。もしかしたら、友子から檸檬の香りがしていたことすらも忘れていくのかもしれない。
 
 きっと友子は知らないままなんだろう。私が友子の手に触れる時はいつも、気づかれないように息を止めていたことを。宝物みたいなその背中が、私の視界から外れてしまうことが何よりも怖いと感じていたことを。
 気づかないままでいい。私のことなんて忘れきって、遠くで思いっきり笑っていればいい。

 早く時間が過ぎ去ってくれたのなら、なんてことを思う。時間が解決するという言葉があるように、時が経つにつれてあらゆる記憶は薄れていき、その時感じたものも少しずつ思い出せなくなっていく。
 それでも、そうじゃないものもきっとある。やがて友子の中の私は薄まっていくかもしれない。けれども、私の中の友子はずっと原液のままで、瓶の底でしずかに揺蕩っていくのだろう。なぜだか不思議とそんな気がした。

Lost stars