3 ひかり、そう呼ぶはずのもの
ぼやけた夕日の中で、紺色のブレザーが鮮明に浮かび上がる。六年間使い倒したピンク色のランドセルは、いつの間にか紺色のスクールバッグに替わっていた。
中学へ入学した四月のこと。初々しい雰囲気を隠しきれず、膝丈のスカートを死守する新入生たちの中でも、熊谷友子は相変わらず目立つ存在だった。
もちろん、彼女のスカートが著しく短いだとか、制服を着崩しているという意味での「目立つ」ではない。すらりと伸びた背丈のせいか、はたまた彼女の底知れぬ人望のせいか。新しいクラスでもすぐに馴染み、入学して一か月足らずだというのに、すでに友子は輪の中心にいるようだった。
わざわざ「ようだった」なんて付け加えているのは、私は現場をこの目で見ていないから。なんと、中学に上がるとともにクラスが離れ、今までのように会う機会は少なくなってしまった。
別に、これまでもクラスが離れることは何度かあったし、「一番仲がいい友達」ランキングをつけるとしても、昔からずっと一位だったわけじゃない。流動的な間柄だけど、良くも悪くもこの関係性がずっと続くと信じて疑わなかった。今までもそうだったのだから、これからもそうに違いない。悪く言えば腐れ縁である私たちは、物理的に会う頻度が減ったかといってどうにかなるような間柄ではなかった。
友子は持ち前の運動神経を発揮し、すでに何個かの部活動から熱烈に勧誘されているようだ。小学校の頃だってスポ少では絶大な支持を集めており、夏はソフト、冬はバスケットボールで活躍していた。中学からはバスケ一本に打ち込もうかな、なんて呟いていたのを覚えている。
そんな彼女に対して私はというと、運動はてんで苦手だった。また中学の体育は始まったばかりだけど、小学校のような生暖かい授業内容ではない。運動神経の優劣がシビアに階層化される授業内容では、私のようについていけない者にとっては苦痛な時間だ。「ドンマイ」や「頑張れ!」と言われるたびに、足を引っ張ってしまう自分の運動神経が嫌になる。こんな時、友子がいたならば。きっと友子は「あたしがボールを取り返してあげる!」なんてヒーローみたいな台詞を口にして、その言葉通り本当にやってのけるんだろう。
いけない、つい話が脱線してしまった。それで、彼女は仮入部期間中ずっと引っ張りだこの状態で、なんと一日に二カ所のペースで各部活動を回らされているらしい。「バスケ部に入るつもりだ」って一言断ってしまえばいいのに、人のいい彼女のことだからきっと断れないんだろうな。気まずそうに笑う友子の顔がたやすく頭に浮かぶんだもん。それは友子のいいところでもあり、悪いところでもある。
私は友子みたいに先輩に勧誘されたりしないので、放課後は全くのフリータイムだ。そんな最近の私の行く先は、北棟の三階の奥の部屋。人気の少ないその場所にはひっそりと美術室が佇んでいる。
今日も今日とて階段をのぼり、美術室の扉をそっとあけると、ちょうど教室の真ん中らへんで上級生たちが談笑しているところだった。私の姿を確認した先輩たちは「糸ちゃん」と手を振ってくれるが、数秒後には何事もなかったように会話を再開する。過度に構おうとせずに自分の時間を優先にする先輩たちの無遠慮さが、私には逆に居心地よく感じた。
教室の後ろの方に進むと、私と同じ学年の子たちが数名、お互い間隔を空けた状態で座っている。私は一番窓側後方を陣取り、スクールバッグの中から自分のスケッチブックを取り出す。
この位置からは、窓越しに体育館がよく見える。もしも友子がバスケ部に入るのなら、ここから彼女の姿を見ることができるだろう。ちょっと後ろを向けばグラウンドの方まで視界に入るし、もしもバスケ部を選ばなかったとしても彼女の頑張っている姿は見られるかもしれない。もちろんそれが入部の動機ではないけれど、美術部の印象にプラスの加点がついたのは事実だ。
今日はバレー部とバスケ部の見学に呼ばれていると、少しくたびれたような顔でそう言っていたのを思い出す。体育館の扉は閉まっているが、休憩時間になったら開くかもしれない。スケッチブックを目の前に窓の方をチラチラと盗み見る。
いつまで経っても開かない扉にヤキモキしていると、学校のどこかから吹奏楽部らしき楽器の音が美術室まで響いたのが分かった。これはたぶんトランペットの音だ。遠くまで響く快活な音色。いっそこの音色に乗ってどこかへ行きたいなんて、ばかみたいなことをぽつりと考えた。
◇
コツコツと、リズミカルな靴底の音が道路に響いている。夜が更けたせいですっかり暗くなった道を、見覚えのある長身の女の子がそのまま通り過ぎようとする。街灯の明かりに照らされた艶やかな黒い髪の毛。友子、と小さな声で話しかければ、彼女は周りをキョロキョロと彷徨った後、私を見て目をまん丸にした。
「糸!」
「お疲れ様。さすが運動部は練習長いね」
私は家の玄関先にぺたんと座りながら、ぼうっと友子の帰りを待っていた。声をかけた後、大きなエナメルバッグに負けないくらい長い四肢がこちらへずんずん伸びてくる。加藤家の門をくぐって目の前まで来た後、彼女は大きなエナメルバッグを地べたにぽすりと置いた。水色のしっかりとしたエナメルバッグ。これくらいの大きさなら一泊旅行くらいは余裕で準備できそうだなぁ。毎日これを持って登校するなんて、それだけでもう筋トレになるんじゃないだろうか。私にはきっと無理だと思いながら眺めていると、友子は不思議そうな顔をして私の顔を覗き込む。
「こんなとこ座って何やってたの」
「別に何も。ぼーっと風に当たってただけだよ。ほら、最近あったかいから外が気持ちいいでしょ」
「まあ確かにね。……でもまだ夜は冷えるじゃん」
そう言いながら友子はよいしょ、と地べたに座った。筋肉で引き締まった足が橙色の電灯にさらされる。優しく心を照らしてくれるような、まるで友子みたいにあたたかい色だ。
「今日は何部の体験だったの?」
「バスケ部だよ。今までいろんなところ体験したけど、やっぱバスケが一番楽しいな」
「じゃあとっとと入部決めちゃえばいいじゃん」
「だってまだ勧誘されてる部活あるんだもん。全部行かないとさすがに申し訳ないじゃん?」
「バスケ部入るって決めてるのに?」
「う……」
そうやって友子は分かりやすく言い淀んだ後、別にいいじゃん、なんて唇を尖らせる。人が良いことはいいことかもしれないけど、ちゃんと断る力も必要だ。そんなことを、この幼馴染を見ていると感じることがある。
瑠璃色の空の中に、小粒の星たちがちかちかと煌めいている。今流れ星でもながれてくれたら、私は何をお願いするんだろう。別に今困ってることは特にないし、うーん。五月に控える中間テストの解答が欲しいとか? そこまで考えて、我ながら頭が悪すぎるなと笑いそうになる。
そんなしょうもない願い事しか思いつかない私でも、友子は呆れ笑いしつつも一緒にいてくれるんだろう。幼馴染って、目には見えないけどすごい強力な繋がりがあるなと、改めてそんなことを思う。友子は私のこと面倒な幼馴染と思ってるかもしれないけど、中学に上がってからもなんだかんだ一緒にいる今が、私に対する友子の答えなんだろう。
「それで、バスケ部では何の練習してたの?」
「えっとね、まずは体幹と筋トレでしょ。その後パス練習と三対二。あとシャトルランと……」
「え、めちゃくちゃスパルタじゃん……。さすがの友子もくたくたでしょ」
「その通り。もうエネルギーゼロなんだよ。お風呂入ったらすぐ寝ちゃいそう」
「でも一日寝れば鉄人に元通りでしょ」
「糸はあたしを何だと思ってるワケ」
「スーパーウーマン」
「ふっ、何ソレ」
友子は軽快に笑いながら玄関の柱部分にもたれかかる。歯並びのいい口元が無防備に開いているのを見ると、私はなぜか心もとない気分になる。なんて言うんだろう。部屋の電気はちゃんと消してきたっけ、なんて外出先で不安になるような、なんかそんな感じ。
「……ねえ友子」
「何?」
「クラスに良い感じの人いた?」
私は足を抱えたまま、体操座りの姿勢で問いかけた。対する友子ははぁとため息をついて、呆れた顔をしながらにやりと笑う。彼女は足を投げ出したままの姿勢を整えて、私と同じ体操座りの姿勢になる。
「まーた恋バナ? 糸は本当に恋バナが好きだね」
「だって気になるじゃん。どう? イケメンはいた?」
「まだ全然話してないんだからそんなの分かんないって」
「顔だけならかっこいいかどうかはすぐ分かるじゃん!」
「あたしは中身重視なの!」
いつまでもはぐらかす友子に負けじと問い詰めていたら、いきなり私のほっぺたをむにりとつまんできた。そのまま引っ張られてぐにゃりとほっぺたが伸びる。力加減してくれてるみたいから痛みは感じないけど、ちょっとだけ喋りづらい。
「いはーい! 暴力はんはーい!」
「糸だってあたしのことよくつねるくせに!」
「つねってないよ。スキンシップじゃん」
「じゃああたしのこれもスキンシップ」
「スキンシップかあ。じゃあ許す」
ゆるすんだ、と友子は笑いながら、ほっぺたを引っ張っていた手をゆるめ、もう一度頬に触れてきた。その仕草はまるでごめんね、なんて言ってるみたいで。私だって散々やってきてるからこれくらいいいのに。
友子はいつもきれいに笑う。口角は左右対称に上がり、きゅ、と口がかまぼこみたいな形になる。そんな友子の顔を見てると、いつの間にか私も笑っている。
「ねえ友子」
「何?」
「お腹すいたね」
「ね。ご飯は何かな」
なんてことない会話をして、二人で顔を見合わせて笑う。ここにいるといろんなおうちからの夕飯の匂いが漂ってくる。一番色濃く匂うのはカレー。これはたぶん我が家の晩ご飯。どこからか魚のにおいもしてくる。これは友子の家から匂ってくる気がする。今日はたくさん食べられそう、と呟いたら、お茶碗二杯くらいはいけるな、と友子が言う。弟に負けてられないもんね、なんて返したら、別に競ってるわけじゃないんだけど、と恨めしい顔をされた。