4 トライアル・アンド・エラー、エラー、エラー、
休みの日はいつも寝過ぎてしまう。
ゴールデンウィーク明けの学校はいつもの倍疲労がたまるから、その分睡眠で体を休ませなければならない。用事がないから目覚ましはかけなかったけど、そうするとお昼前まで余裕で寝てしまうからもったいない。時計の針が刺す十一の文字に絶望しながら起き上がり、リビングへ降りるべくだるおもい足を動かす。
寝起きの頭をぽりぽり掻きながらリビングの窓を開けると、目の前にはどんよりとした空が広がっていた。こりゃ今日は出かけられないなあ。元々出かける予定はなかったが、こうも雲行きが危ういと不思議と残念な気持ちになる。
「うーん、今日は引きこもって溜めてたドラマでも見よっかな〜」
「今から掃除機かけるけど」
「えー! ちょうど今見ようと思ったところなのにー!」
「じゃあ糸が代わりにかけてくれるの?」
リビングのソファに勢いよく飛び込むと、ちょうどキッチンから出てきた母が非情な言葉をかけてきた。せっかくゴロゴロモードMAXになったところなのに水を差してくるなんて。それなら私が寝こけてる間にかけてくれればいいのに。
「もー……。早くかけちゃってよぉ〜」
「はぁ? 『かけてください』でしょうが」
こわいこわい。触らぬ神に祟りなし。今母の機嫌を損ねさせたら祟られてしまう気がする。凄みのある声に負けた私は、小さく「ごめんなさい」とだけ返して体を縮こませた。そのままソファの上で両足を浮かせ、床に足がつかないよう必死に耐える。筋トレみたいな体勢で足の震えが止まらない中、母はだだくさにハンディクリーナーを動かし、ソファの足元近くを何回も往復させる。掃除機のかけ方って結構性格出るよなあ。几帳面な人は向きとか角度とか統一してかけるイメージだけど、うちの母親はいきあたりばったり。とりあえず汚れてそうなところにかけるタイプだと思う。私の駄々草な性格は絶対に母親譲りのものだよなぁと思いながら、筋トレみたいな姿勢のままテレビへと視線を移してみる。
テレビ画面には旅番組が流れていた。掃除機にかき消されて音声までは聞こえなかったが、字幕テロップを見ていれば大体の内容は分かる。日本では見たこともないような豆を煮込み、いろんな種類のスパイスを鍋にふりかけていく。人が作るご飯って何でこんなに美味しそうにみえるんだろう。朝は何も食べていないし、早く昼ご飯を作ってくれないかなぁ。今日のご飯はなんだろう。また焼きそばとかかな。
掃除機がかけ終わるのを待ちながらぼんやりしていると、急に地鳴りのような低い音が地面に響き渡るのを感じた。激しい物音とともに家がミシリと揺れる。
「……なに、いまの音」
わんわんとうるさかった掃除機がピタリと止んだ。母も異変を感じ取ったみたいで、辺りを見渡しながら真剣な顔をしている。でも、地震のように家が揺れ続けているわけではないし、一体何が起こったんだろうか。窓を開けて外の様子を確認する。でも広がるのはなんの変哲もない景色ばかりで、辺りに一切異変はみられない。
「ねえ、何が起こってるの?」
「……糸。非常用のリュックサック持ってきて」
「え……」
「早く!」
「わ、分かったって……!」
さっきまでのおどけた顔はどこにいったのか、母は至極真面目な顔をして外の様子を確認していた。私は言われたとおりに、物置部屋にまとめて置いてあるリュックサックを持ってくる。中身を最後に確認したのはいつだっけ。ちゃんと下着とかご飯も入ってたっけ。ていうか、今すぐ避難しなきゃならない程度の何かが今起こっているってこと? 目に見えた異変は何もないけど、これから起こるかもしれない「何か」が怖くなり、まるで暗闇の中にいるような気分だ。不安ばかり膨れ上がって、体中の血の気が抜けていく。
「ねえ、これだけでいいの? なんか持ってった方がいい? 水とか……」
「引き返さなくていい! 命さえあれば助かるんだからつべこべ言わずに早く行くよ!」
「ま、待ってよぉ……」
急足の母に続いて外に出ると、ずっとずっと遠くの方に雷のような、紫色の変な亀裂が走っているのが見えた。まるでSF映画みたいな人工的な光。あれが一体何なのかも分からない。ただ「目の前で何かが起こっている」ということだけはわかる。
これから一体どうなってしまうんだろう。今から地球破滅でもするんだろうか。あんなに強かった恐竜たちが一気に絶滅した時みたいに、隕石でも落ちてきて人類はみんな絶滅しちゃうのかな。目の前に大きな隕石が落ちてきたらそこで死を受け入れられるかもしれないけど、まだ助かるかもという希望が捨てきれない状態では受け入れきれない。こんな時に冷静で居られる人なんてこの世界にいるのだろうか。こんな得体のしれないものから、私たちはどうやって逃げればいいの。
なんでこんなことに巻き込まれているんだろう。死にたくない。死にたくない。こっちには絶対に来ないで。だんだん足の震えが止まらなくなった私に、母は真顔で手を差し出す。絶対に手を離すな。母の力強い目がそう訴えているような気がした。私は生唾を飲み込んだ後、母の手を力強く握った。母の手のひらは私と同じように、まるで氷みたいに冷たくなっていた。
◇
最悪な出来事が現実に起きてしまった。
東三門はほぼ壊滅状態。行方不明者も多数。一千人はいるだろうという報道が絶えずラジオから流れる。あんなに平和なところだったのに、私たちの街はたった数日で瓦礫の山に変わり果ててしまった。
それでも私の住んでいる地域は比較的被害が少なく、ご近所にも怪我をした人はいなかったみたいだ。しかし、ニュース番組で流れるショッキングな映像をみると、今まで湧かなかった現実感が襲ってきて、何者かにずっと急かされてるような気分になる。
母は災害ダイヤルを開き、しきりにばーちゃんの伝言板に問い合わせをしていた。しかし、何度やっても伝言板は更新されることはない。ばーちゃんが入居していた施設に電話しても一向につながらないまま数日が経った。もしかしたら施設の電話自体がだめになっているのかもしれない。未だばーちゃんの安否は分かっていない。
数日ぶりに電源が復活した私の携帯には、小学校時代の友達だったり、今のクラスメイトだったりする人から安否を確認するようなメールがずっと鳴り止まなかった。無事だよ。そっちは? と画面に何度も打ち込み、メッセージを電波の流れに押し込んでいく。一通り返信が終わった後、携帯を開いたままお腹の上に置いて、体育館の天井を仰ぎ見た。こんなことが起きなければ、体育館の天井に張ってあるネットのことや、柱に挟まったバレーボールの存在なんて何も知らないまま生活を続けていたんだろうなぁ。
「糸……」
何も考えないままぼうっとしていると、横から母親の弱々しい声が聞こえた。地域の回覧板を手に持った状態で、縋るような瞳で私を見つめている。そこで私はすべてを悟った。きっとばーちゃんは、手の届かないくらい遠い場所へ行ってしまったと。
「……ばーちゃん?」
「そう。名前が載ってたの。おばあちゃん、きっと怖かったと思う」
母は私の問いに答えた後、こらえきれない様子でわんわんと泣きだした。普段からすぐ怒ったり笑ったり、感情の起伏が激しい人だったけど、泣いているところは今まで一度も見たことがなかった。
おばあちゃんの名前が載った紙を握りしめながら、「でもおばあちゃんもずいぶん歳だったから」と言って、またぐずぐずと鼻を啜る。まるで自分に言い聞かせるように、母は「もう歳だったんだから」ともう一度つぶやいた。
私は泣けなかった。大泣きする母をみて、自分がしっかりしなきゃいけない、なんて冷静な頭が働いてしまう。でもお腹の底にはいつまでも黒いものが溜まったままで、だんだん頭がクラクラしてくる。母の啜り泣く音が脳内に響き続ける。目の前の色が抜けていく。
数十分もすれば母は泣き止み、いつものようにたくましい姿を見せた。頬に流れていた涙の川はすっかり晴れていたけど、目元の赤みは決して消えることはない。それを見たら急に安心して、段々と視界が滲んできた。まるで悪いものが身体の中から吐き出されるみたいに、体の奥底から何かが溢れてくる。堰き止められていたものがわっと溢れ出たように、涙の川が一向に止まらなくなった。
子供みたいに泣きじゃくる私のことを、母がそっと包み込んでくれる。なつかしい安心感とともに、頭の中ではずっと失ったものばかり考えて離れなかった。
◇
あれから数日が経った。あの日突然やってきた化物たちは姿を消し、再度街が破壊されるようなことはなかったため、被害の少なかった私たちはいつも通りの生活に戻ることができた。
たった数日間でも避難所生活はストレスが溜まるしよく眠れなかったので、家に帰る足取りは親子ともに軽かった。避難所から徒歩で家へ向かい、玄関の扉を勢いよく開ける。
扉の先には変わらない風景が広がっていて、私はひどく安心した。数日あけていただけなのに家中の空気がこもってしまっていたの窓という窓を全部あけて新鮮な空気と入れ換える。庭の窓を開けると、ひとりぼっちになっている植木鉢が目に入った。施設に入る前、ばーちゃんが大切に育てていた植木鉢。この子の存在なんてすっかり忘れてしまっていたことに気づき、私はなんともいえない気持ちになった。
友子とは避難所から帰ってきたその日にすぐ会えた。数日会わなかっただけなのに、まるで数年間も離れ離れだったみたいに感じる。
顔を見合わせた後でも、友子はあの日のことについて真正面から話に出そうとしなかった。避難中に何を食べていただとか、久しぶりに長時間ウノをやっただとか、くだらない話ばかりで核心に触れようとしない。私もそれに合わせて軽快なしゃべりを展開する。よかった、いつも通り笑えている。私はそう安心したが、しばらく経った後に真剣な顔で「大丈夫だった?」と彼女に聞かれて、今まで取り繕えていたすべてががしゃりと崩れた。「あのね、ばーちゃんがね、」なんて話をし始めようとした途端、友子は唇を噛み締め、溢れる想いをぐっと堪えるような顔をする。
「糸……」
「……友子は知ってるんだよね。ばーちゃんのこと」
「うん……」
「……あのね、ばーちゃんとは施設に入ってからあんまり会えてなかったの。ママも、すごく泣いてたんだ」
そりゃそうだと思う。実の母親が予期せぬ事態で命を落としたのだから、泣いて当然だ。なぜか他人のことのように話す自分のことが変に感じる。
「……あたしばかだからさ、一体何が起きたのか今でも全然わかってなくて。おんなじ三門市でも、あたしたちの方は何もなくて、でもたくさん人が死んだり、連れ去られたりしたところもある」
「……」
あの日。地響きがして、家から慌てて避難したとき。目の前に紫色の亀裂が走った瞬間、絶対にこっちに来ないで欲しいと願ってしまった。東三門があんなめちゃくちゃになってるってことを知っていれば、そんなこと願わなかったかもしれないのに。そしたらばーちゃんや施設の人だって、こうして逃げ遅れなかったかもしれないのに。
「……なんでこうなっちゃったんだろ」
「……友子?」
小さな声で友子はそう呟いた。俯いていた顔をあげ、私よりもずっとつらそうな顔をする彼女の顔を見つめる。まるで心が引き裂かれているような顔。
またこの人は、自分でなくて他人のことでこうも心を砕こうとしている。
「……どうにもならないことばっかで、悔しくてたまらないんだ」
友子は涙を流していた。祖母の訃報を知った母みたいに嗚咽を漏らすこともなく、静かにぽろぽろと泣いていた。眉間の皺が寄ったその顔を見て、きっとこの子はばーちゃんもそのほかの人たちのことも、どうにかして救いたかったんだろうな、なんて他人事のように思った。
さっきまで私は、母が繰り返し言っていた「どうせ歳だった」なんて言葉で折り合いをつけようと頑張っていたのに。それなのに、目の前の人はどうにもならないことに思い悩み、どうにか打開していこうと立ち上がる。どうして彼女はこうも真面目で、こうも尊いのだろうか。
友子だけでどうこうできる問題じゃないのに。そう言いかけて、やめた。今の友子には効きすぎるほど残酷な言葉だったから。彼女を傷つけたいわけじゃないのに、どうしてそんなひどい言葉が浮かんでしまうんだろう。私は何がしたいのだろうか。祖母を救いたかったなんて崇高な考えは浮かんでこない。こんな壊滅的な状況の中でそう思えるのはむしろ異常者の考えではないだろうか。
友子と一緒にいるのに息苦しいと感じたのは、今まで生きてきた中で初めてのことだった。張り詰めた空気なんて、私たち二人の間には全く似合わないものだと思った。