5 リタルダンドがいい
どれだけ立ち止まっていても、時間は関係なしに過ぎていく。桜の蕾が芽吹いて散り、森も青々と色づいたかと思えばあっという間に枯れてくように、季節は猛スピードで私たちの遥か先へと進んでいく。流れについてこれない人はわざわざ追いかけてくれない。ただ砂時計のように流れていくだけ。
それでも自然界に生きるものは季節の流れに置いていかれることはないし、大抵の人間もそうだ。でも、私だけはどうにも追いついていく気力がない。それに、どうして必死に追いついていかなきゃならないのか、その理由がわからない。
◇
窓から差し込んでくるうっとうしい明かりで目が覚める。目覚まし時計が七の針を指しているのを確認し、まだ七時半になったばっかじゃん、と悪態をついた。布団の中でもぞもぞと蠢いたりして、我ながら芋虫のよう。最近かえてもらったばかりのタオルケットを抱きしめると、ふんわりと洗剤の優しい香りが頭中に広がっていく。
そうやって布団の上でぼんやり揺蕩っていると、家中にピンポーン、と間の抜けたチャイム音が響いた。この時間にインターホンを鳴らす相手なんて一人しか考えられないし。大方予想はつきながらも、私はそのまま布団を被って寝たふりをつらぬく。
「おはようございます。糸は?」
「こりゃ今日もきっと休みだわ。友子ちゃん毎日ごめんね」
「ううん。全然大丈夫です。じゃあいってきます!」
「いってらっしゃい。いつもありがとねー」
下の階から二人分の声が鮮明に響いてきた。私はタオルケットを被ったままの状態で静かに耳をすます。訪ねてきた人物の予想は的中。やっぱり私の幼馴染だ。友子の声が聞こえた瞬間、なぜか私は息を止めてしまう。苦しくなる間もないままに友子は家から出て行き、玄関のドアががちゃりとしまる。私はそれを合図に息を吸い直す。はあ、やっと呼吸をつなげることができた。
うーん、なんて言いながらベッドの上で背中を伸ばしていると、カタカタと誰かが階段を登ってくる音が聞こえてきた。母は絶対にこの部屋に来るだろうと直感が告げたので、私はいっそうタオルケットにくるまって、いずれ来る強襲へと身を備える。毎朝の攻防の始まりだ。
「……いーとー。いつまで布団被ってんの」
めんどくさそうな様子で、母はノックもしないまま自室に入ってくる。さっき友子と喋ってた時よりも二段も三段も低い声だ。怒ってるような声のトーンだけど、その中に覇気は感じられない。いつも通りの母の声。
「……んー、あと十五分……」
「もー。学校行かないのは百歩譲って許してあげるけど、いつまでもダラダラ起きないのは許せないから。さっさと起きろ!」
「わー! あたしの布団!」
両手で必死に握っていたというのに母の馬鹿力には敵わなかった。あっという間にタオルケットが剥ぎ取られてしまい、ハーフパンツのおかげで露出した足元が肌寒くなる。
「もう少ししたら私も出るからね。お昼は冷蔵庫の中ね」
「……へーい」
そう言って母は嵐のように部屋から出て行く。まったく、布団はぎはぎ星人め。あの人を返り討ちにしてやりたいけど、もし実行した暁には後の代償が大きすぎる気がするからやっぱやめとこ。ばかなことを考えながら、仰向けで唇を尖らせる。
別にずっと休んでるわけじゃないし、一週間に一回くらいはちゃんと学校に行くようにしてる。その時出された宿題だってちゃんと家でやってる。休んでる時の宿題はさすがにやりきれてないけど、勉強苦手でもちゃんと取り組もうとしてるんだから、そこんところはちゃんと評価してほしいな。
休みが多い分、当然授業も虫食い状態になっているのは致し方ない話だ。全然理解できてないうちに猛スピードで進んでいってしまうんだから。分かるようになるまで問題を解けばついていけるようになるだろうけど、そうまでして必死に同じことをやろうと思う気力がなかなか湧かなかった。
ベッドの淵の方に寄り、壁に寄りかかる。シーツにいつの間にかできたシミを眺めてぼうっとしていると、窓越しに学校のチャイムの音が響いた。今頃友子はクラスメイトたちと授業を受けている。母だって今まで通り仕事に行っているし、テレビをつければ平日の朝のニュース番組が流れるだろう。いつまでも普通に戻れないのは自分だけな気がして、いっそう胸が締め付けられた。
私だって頑張れば今まで通りの生活に戻ることなんて簡単だと思うけど、それすらも億劫でたまらない。このまま家に居続けたっていいことはないし、周りに迷惑をかけてしまうことも分かってる。そんなことを考え始めたらキリがないから、早く通常通りの生活に戻るべきだ。
すべて頭の中では分かっているつもりなのだけれど、それでも私はいつまでもここに居たかった。
◇
「糸ー? 入ってもいい?」
「どーぞ」
コンコン、と二回ノックの音が部屋に響く。声色を聞く前から、階段を上るリズミカルな足音で友子が来ていることは分かっていた。かろやかな声が響いた後、ドアノブが回される。すると、さわやかな香りとともにそよ風が部屋の中に訪れた。この匂いは多分、彼女の愛用する制汗剤のやつかなぁ。そのまま友子へ視線を移したかったけど、今はちょうど大事なボス戦の真っ最中。一瞬でも目を離せばゲームオーバーになってしまう。コントローラーを握りしめ、テレビにできるだけ意識を集中させようとするけど、頭の片隅で友子のことが気になるのはしょうがない。あ、無駄なダメージ食らっちゃった。これはコンティニューした方が良さそうかなぁ。
「何やってるの」
「マリオストーリー」
どんどん削られるHPにやる気を無くしつつも、なんとかコンボを繋ごうとコントローラーをカチャカチャいじる。右、左、上、下。相手からの攻撃を間一髪のところで回避していたのに、いつの間にか追い込まれて逃げられなくなった。そのまま大技が決まってしまい、画面の中のマリオは戦闘不能状態になる。「コンティニュー?」という文字が浮かんだ画面を余所に、そのままコントローラーを地面に置いて後ろを振り返る。
「ごめん、お待たせ」
「ううん。糸が負けるなんて珍しいね」
「まあ終盤のボスだしね。やっぱ装備もちゃんとしとかなきゃ勝てないな〜」
テレビ画面から彼女へ目を移すと、友子は夏服姿だった。まだ私は半袖の制服に袖も通したことがないなぁ、と思いながら膝丈のスカートに目をやる。冬服よりも幾分か薄い生地なんだろう。太陽の光の下では透けてしまうような心もとない生地で、すぐ風に煽られそうだ。
友子はシングルベッドの上に腰かけるようにして座っていた。座椅子に座ってゲームをしていた私は、ベッドに頭を預けるような体勢をして座椅子に体重をかける。お尻の部分が浮いてぐらぐらしちゃう。背もたれから飛び出た頭がちょうどベッド上にフィットする。すぐ隣に友子の太もも。部屋に入ってきた時よりも濃いレモンの匂いが鼻を掠める。
「……部活帰り?」
「うん。今週から部活も全面再開だよ」
「そーなの」
「……悩んだけど、あたしはやっぱりバスケ部に入ったよ」
「うん。友子バスケ上手いし、それが一番いいと思う」
「ありがとう。糸は美術部に入る予定だったんだっけ?」
きっと友子ならすぐにレギュラーになっちゃうんだろうなあ、なんて思いながら天井を見上げてたら、急に自分の話を振られてびっくりしてしまった。もたれかかっていた座椅子を元に戻し、そのまま後ろを振り返る。私、友子に部活の話したことあったっけ。無意識で会話していることがほとんどだから明確な記憶ではないけれど、多分したことはなかったんじゃないかな。それなのにどうして友子は知ってたんだろうと不思議に思っていると、なかなか返事が返ってこないことに戸惑っているのか、友子の口角が少しずつ崩れていくのが分かった。ああ、早く答えなきゃ。せっかく友子に来てもらったのに困らせてばっかりだ。
「……うーん。入ろうかと思ってたけど、もういいかなって」
「……どうして?」
「元々すごくやりたかったわけでもないしね。別に絵が得意なわけでもないし、それよりも家でゴロゴロしてる方があたしには合ってるかな」
すらすらと、自分でも驚くくらいに薄っぺらい言葉が口から出ていく。でも、これが私の本心だし、別に後ろめたく思う必要はない。ひとつの物事に熱中して取り組む根気がないのは、今に始まったことじゃないし。友子みたいに無心でボールを追いかけられる気力もないし、別にゆるゆる生活したっておかしいことじゃない。逃げることは別に悪いことじゃないって、小学校時代の先生だって口酸っぱく言ってたし。
「……そっか」
友子はなぜかさみしそうな顔をした。それを見てると急にばつが悪くなって、とても友子の顔が見ていられなかった。
私はテレビに視線を逸らし、なんてことないようにゲームの「やり直す」ボタンを押す。するとコミカルな音楽と一緒に間抜けなキャラクターが映し出されて、その空虚さが今は心地よかった。
ボタンを押す。加速する。もう一回押す。ジャンプする。敵が来る。ボタンを押す。攻撃する。そうやって私は無心でゲーム画面を眺めていた。
友子のさみしい顔をなんとかしてあげたいと、心のどこかでは思っていた。でも、今の私にはそんなことはできないなんて、やる前から諦めモードになっている。
「……ねえ、糸がゲームしてるとこ見てていい?」
しばらくゲームの音楽しか流れなかった部屋に、ひとつ友子の声が響く。
「別にいいけど」
ついそっけない返事になってしまったけど、友子はそんなこと気にせずに画面に注目しているようだった。一体どんな顔をしているんだろう。すごく気になったけど今は大事な局面だ。ゲーム画面から目を離すと負けてしまいそうだから振り返ることもできず、ただひたすら目の前のボスに向き合う。
敵の攻撃で体力が削られてく最中、後ろでそっと息を飲む音が聞こえる。私が動かすキャラクターに感情移入でもしているんだろうか。動かしてるのは私なのに、なぜか友子の方が真剣に向き合ってる気がする。それがとても彼女らしくて、なんだか意地を張ってる自分が馬鹿みたいに感じた。
さっきはボロ負けしたボス戦も、今回は友子が後ろにいたおかげか集中して取り組むことができ、ギリギリだけどなんとか勝つことができた。やった、なんて小さい声が漏れ出た後、後ろから「すごい!」と小さく手を叩く音が聞こえる。
「……友子の方が真剣だったね」
「え?! なんで?! 糸の方が絶対集中してたよ。コントローラーかちゃかちゃ動かしてすごいね」
「そりゃあカチャカチャ動かさなきゃ負けちゃうしね」
画面に表示された「クリア!」の文字並びを横目に、ようやく友子の方へと体を向かせる。そこには先ほどよりも自然な笑顔を浮かべた幼馴染がいて、それを見てると私も自然と笑っていた。「あたしには絶対できないなぁ」と笑う友子を見ながら、逆に友子がやった方がギャグ的な意味で面白くなりそうだなぁと考える。
「……ねえ、見てるだけでほんとに楽しかった? やりたいとかは思わないの?」
「……うーん。やるのももちろん楽しいけどさ、あたしは糸がやってるのを見るのが好きだから」
「……ふうん」
友子ってばやっぱり変なの。人がやってるのを見て楽しむなんて、私には到底考えられない。
画面に片隅に表示されたセーブボタンを押し、ゲーム機の電源を切る。真っ暗になったテレビをよそに、友子に「喉渇かない?」と尋ねた。友子は「ちょっと乾いたかも」なんて答える。確か冷蔵庫の中にカルピスがあったはずだ。ちょっと待っててと一言かけて、気だるい体を起こしながらリビングへ向かおうとする。部屋の扉を開けると、廊下にはオレンジ色の光が溢れていた。