6 朝焼けの裾を引っ張って

 
 熊谷家の朝は慌ただしい。朝起きたらすぐに顔を洗い、食卓に座ってご飯に手をつけるのがいつもの習慣だ。その間になかなか起きてこない弟を母が起こしに行って、父が「行ってきます」と玄関から出ていく。2階からドタバタと聞こえてくる足音を聞きながら味噌汁を流し込み、私も急足で部屋へと戻って着替えを済ませる。
 最近は朝でも気温が高くなった。夏の入口、とでもいうべきだろうか。半袖のセーラー服に袖を通し、テレビで流れる星座占いの結果に意識を集中させる。はやぶさ座は三位。朝一番に挨拶した相手がラッキーパーソンらしいけど、それじゃあ私のラッキーパーソンは母親になるってこと? そんなの、はやぶさ座のほとんどの人は家族がラッキーパーソンになっちゃうじゃんなんて思いながらリビングに戻り、食事を済ませた食器を流しへと運ぶ。出る準備が万端になったところでようやく弟が下に降りてきて、母もシャキシャキと洗い物を始める。
 足早に家から出ると、隣の家から何やら水の音が聞こえてきた。朝から人の気配がするなんて珍しいと門の前から覗き見ると、そこにはよく見知った幼馴染の姿があった。
「糸」
「あ、友子」
 彼女は明らかに部屋着であろうグレーのTシャツと短パンを身に纏い、気怠げにホースで水を撒いていた。夏の始まりに似つかわしい涼しげな音に、体感温度も幾分か下がったような気がする。
「糸が早起きしてるの珍しいね」
「そう? 最近の水やりはあたしだよ〜。大抵は友子が学校行ってからになっちゃうけど」
 まだ起きたばかりなのだろうか。大きなあくびを噛み殺そうともせず、大口を開けて深く息を吸いこんでいる。一体どんな言葉を返そうか迷っていると、糸は「あ、蛙」なんて呑気に呟いた後、蛙のいる方向にホースを向けた。そんなにやると逃げちゃうでしょ、とつい漏れてしまった私の声に対し、彼女は心底楽しそうににやりと笑う。
「ばーちゃん、こんなに草ばっか増やして何がしたかったんだろうねえ。ママとあたしじゃいつか草ボーボーにしちゃうよ」
 そう言いながらも、毎朝の水やりは欠かさないところが糸らしいと思った。糸は昔から文句は人一倍言う方だ。しかし、いくら憎まれ口を叩こうと、それは本心じゃないのは分かっている。
「……糸」
「んー?」
 ホースから溢れる水の音は止む気配がない。庭一面に敷かれた土の色がみるみるうちに変わっていく。糸はこちらを振り返らないまま軽い相槌をうつ。寝癖のついた黒髪のボブが、太陽の熱をどんどん吸収していくようだ。
「……そろそろ学校来ない? 糸がいなくて寂しがってる子たくさん居るけど」
 私の言葉が彼女に届いた瞬間、糸はホースを動かす手を止めた。それは地面の一点へ集中的に降り注ぎ、ジョボジョボと水溜りを作っていく。
「……えー。めんどくさいし、まだいいかなあ。行きたくなったら行くよ」
 私たちの間に風が吹き抜けた。庭の草木をさわさわと揺らし、熱を持った風が首元を掠める。黒い髪の毛がゆらゆらと揺れ、糸の色白な首元が露わになる。
 糸はあの日からあまり学校に来ていない。前までは毎日迎えに行っていたけど、それが糸の負担になってしまうといけないので最近は行っていない。クラスが違うので糸の出席状況はあまり分かっていないが、ふらりと遅刻して登校し、ふらりと一人で帰っているらしい。「加藤ちゃんはたまにしか来ないけど、来たら普通に話すよ〜」なんて部活のチームメイトが教えてくれる通り、一匹狼を貫いているということはなさそうだ。昔から愛されキャラだった糸だから何も心配することないと思うけど、彼女がクラスでうまくやれているか、それがやっぱり気になってしまう。
 相変わらずのらりくらりとした笑顔を崩さないままで、糸はこちらを振り向いた。黒い髪に光が反射してキラキラと輝いてきれいだ。
「ねえ、友子はあたしがいなくて寂しい?」
 にこりと笑いながら、それでいて奥底に何かを含んでいるような顔で、糸はまっすぐ私のことを見つめる。それは、寂しいって言ってほしい思いが顔から滲み出ているようで。
「……もちろん寂しいに決まってるじゃん」
「あはは、じゃあ学校が終わったら遊びに行く?」
「ちょっと、そういう話じゃ……」
 私の言葉を聞き終わらないうちに、糸は蛇口を止め、長く伸ばしたホースをいそいそ片付け始めた。そういえば、ここに居てから何分くらい経ったんだろう。そろそろ学校に行かなきゃ遅刻かもしれない。
 このまま無理やり糸を連れて走ることもできたけど、それはなんか憚られた。糸はあの日から少し変わってしまった。昔の糸なら、容易に腕を引っ張ることができた。でも今は、それをしていいのか少し躊躇ってしまう。
「ねえ友子、いってらっしゃい」
「……うん。いってきます」
 時間を気にする私に気づいたのか分からないけど、糸は相変わらず眠たそうな顔をしながらこちらにゆるゆる手を振った。彼女は学校へ行く気なんてさらさらない様子だ。
 ねえ糸、今日はプールの授業があるんだよ。そう言いかけた言葉は宙に溶けていく。
 結局言えないまま手を振りかえし、道路の方へと踵を返した。朝から蝉が大合唱していて耳障りだ。
 糸はこれから家でおばさんとふたりっきりなのか。そう思うと、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「……ねえ糸、今日の夜はうち来なよ。おばさん夜は仕事でしょ?」
 数歩進んだ後、さも今思い出したような口ぶりで彼女に言葉を投げかける。これくらいなら、きっと糸の負担にはならないはず。ひとりで食べるご飯より、みんなで食べるご飯の方がいいに決まっている。いつの間にか日陰に逃げていた彼女は、猫みたいな瞳をまんまる輝かせた後、きゅっと目尻を上げて笑った。
「えっ、友子の家行っていいの? じゃあねえ、ハンバーグが食べたいな」
「はは、言っとこうか」
 友子大好き! なんて軽い口を叩く彼女にもう一度手を振り、今度こそ門を跨ぐ。
 家に帰ったら母にちゃんと言わないといけないなあ。そんなことを思いながら、先ほどよりも幾分軽くなった足を前後に動かし、小走りで学校へと向かっていった。

Lost stars