8 ただしいよりもたのしいがいい
お昼休みの真っ只中。私は騒がしい中庭を抜け、北校舎の昇降口を抜けていく。
職員室やら普段滅多に使わない特別教室やらが集まった北校舎は、教室が並ぶ南校舎に比べて格段に人気が少ない。給食のせいで満タンになった胃を揺らしながら、だらだらと一人で廊下を進んでいく。下を向くと、所々に散らばった埃とともに青色のスリッパが目に入った。左足は「加藤」と書かれた平凡なもの。右足には間抜けなくまのイラスト。これは友子が新しくスリッパを買い替えたときに勝手に落書きしたやつだ。「あたし、字あんまキレイじゃないからこういうの書くのやなんだよなぁ」って小言をつぶやく友子の顔を見ながら、「じゃああたしがかいてあげよっか?」と軽い調子で話しかけたのを覚えている。百パーセント冗談のつもりだったのに、なぜか彼女は「ほんと?」とか言いながら新品のスリッパを差し出してきた。本当に私が書いていいの? なんて言いながら描いたのが、この腑抜けたくまちゃん。その時の友子はとても嬉しそうな顔をしていたから、私も履きたいだなんてわがままを言ってしまった。そのわがままは難なく通り、今私の右足は友子の名残が残っている。
ぼんやり歩いていたら目的地に到着したので、入り口の扉に手をかける。外の掲示板に「保健室にいます」と表示があったので、特にノックはせずにそのまま力を入れた。ガラリと扉があき、奥のデスクに座る保健室の先生と目が合う。今はちょうど誰もいないみたいだ。真ん中らへんに置いてあるピンク色のソファ目掛けてとぼとぼと歩く。
「せんせ〜。なんか熱っぽい気がする」
「あら加藤ちゃん。給食は全部食べられた?」
先生は体温計を片手にそう話しかけてくる。差し出されたそれを受け取り、カッターシャツのボタンを一つだけ開けて脇へ突っ込んだ。なるべく高くならないかなぁと脇を強くしめるけど、これでほんとに高くなったことは一度もない。今日の給食美味しかったよね、という先生の声を横目にピピピピと無機質な機械音が響く。
「三十六度四分。平熱ね」
「あれ、おかしいなぁ。体温計壊れてる? おでこはあっついんだけどなぁ」
「機械だから加藤ちゃんの手のひらよりは正確じゃないかな」
「え〜。先生ひどい」
保健室からは運動場がよく見える。中学生になってまでもいまだにグラウンドで遊ぶ男子の姿を見かけて、これだから中学は、なんてため息をついた。先輩だか後輩だか知らないけど、砂まみれになったスラックスのまま戻ってくるようなやつはどうせ教室でもうるさいだろうし、デリカシーだって絶対ない。
そして、こういうタイプの男子は無類のボーダー信者が多いという印象が私の中であった。この歳になってもヒーローとか言って喜んでるなんてばかみたいだなって思うけど、クラスのほとんどはボーダーに対していい印象を持ってる人ばっかだから、どっちつかずの私は少数派の立場だ。
受け入れられないものでも無理やり受け入れさせようとする風潮が漂う教室内は、座っているだけでもだんだん息苦しくなってしまう。それに比べて保健室は居心地がいい。何も強制されることないし、日当たりもいいし。ここでぬくぬく光合成でもしていたいや。
「ねえ、体育の授業ここで寝ててもいい? 今生理なんだよね」
「あれまぁ。今何日目?」
「二日目」
「薬は持ってきてないの?」
「ない」
「あぁ、それはつらいね。でも顔色は良さそうだし……湯たんぽでも持ってく?」
「それがさっきまで真っ白だったんだよ先生。あ〜、ちょっとでも走ったらもう倒れちゃうかもしれないな……どうしようかな……」
そうやって先生に泣きつくマネをしていると、がらりと元気よく保健室の扉が開いた。反射的に入り口の方を向いたら、なんとそこには保健室とは縁がなさそうな幼なじみが立っているではないか。予想外の展開に思わずうわ、と言いかけてしまう。友子は律儀に失礼します、と頭を下げた後、こちらに目を配らせた後足早に近づいてきた。
「糸! やっぱりここにいた!」
「げえ……」
「あら、熊谷さんいらっしゃい」
友子はこちらをじいっと見てくる。ああ、軽くサボるつもりだったのになかなか厄介な展開になっちゃったなぁ。そう思いながら口を尖らせていると、友子が先生に「糸は大丈夫ですよね?」と確認を取っていた。直接私に聞けばいいじゃん! って思いながら「生理痛がね! つらくて!」と口を挟んだけれど、先生は無情にも「これだけ大きな声が出せるなら大丈夫そうね」と笑いかけてくる。あれ、保健室の先生は白衣の天使なんじゃないの……? こんなに女子生徒が困っているのに助けてくれないなんて、世の中は不公平だ。
「じゃあ大丈夫じゃん。今日は試合やるから、糸に来てもらわないと困るんだよ」
「え。試合ってなにそれ。めんどそ〜」
「もー……。あのね、前回の授業でチーム決めしたんだよ。糸はあたしと同じチーム」
「ええ、友子と一緒?」
「なんでそんな嫌そうなの」
「だってサボれないじゃん」
「サボらずにやればいい話でしょ!」
「友子の熱血教官め……」
幼馴染がきてから保健室が急に賑やかになった。チームのことなんて知らないし、それよりもここでまったりしていたいんだけど。それでも、心のどこかでは友子が迎えにきてくれて嬉しいというかわいい感情がひょこりと顔を出している。めちゃくちゃ構ってちゃんな自分がくやしい。
そんな私の思いには全く気づかないまま、友子は容赦なく腕を引っ張りながら連れて行こうとしていく。ちょっと。バスケ部の腕力をここで見せつけないでよ。体育館に着く前に私の腕がダメになっちゃう。
「ちょっと! 手がもげる!」
「熊谷さん、加藤ちゃんをよろしく〜」
私がぐいぐい引っ張られるのを見ながら、保健室の先生はニコニコと手を振った。体調不良の生徒をそんな笑顔で送り出すなんてひどい。友子が保健室に来た時点で、五時間目の体育はサボれないという事実が確定してしまったようだ。なんてことだろう。
保健室を出ると、廊下はひどく閑散としていた。南校舎の昇降口へ入り、階段のところでようやく引っ張られていた右手が解放される。まだ私たちは制服のままだから、昼休み終わりのチャイムがなる前に着替えなくてはならない。わざと体操服忘れてこればよかったかな、なんて思いながら階段に足をかける。友子は軽い足取りで階段を登っていく。段差に足をかけるたび、形の良いふくらはぎに筋肉が浮き上がる。さすが部活で鍛え上げられた体。私の柔らかい体は脂肪が揺れるだけだよ。
「……もー、友子ってば強引だよ」
「だって授業遅れちゃうじゃん。あたしもまだ着替えてないし」
階段を登り切らないうちにそうやって小言を呟くと、友子は律儀に返事をしてくれた。授業開始ギリギリの時間だから、更衣室はもう誰もいないかもしれない。遅刻して注目されるのは嫌だし、仕方ないから急いで着替えるか。先ほどよりも少しスピードを上げて階段を駆け上がると、友子は嬉しそうな顔をしてにやりと笑った。
◇
「じゃあ二人一組になってパス練習。はじめー!」
サバサバとした女教師の声が体育館に響く。
結局授業に少し遅れてしまったけど、まだ準備体操の段階だったので難なく合流することができた。チーム別に整列したところで教師からの指示が出される。友子と目が合って、何も言わないままでも自然とラリーが始まる。最初はオーバーハンドパス。笛の音が鳴ったらアンダーハンドパス。どちらかというとアンダーハンドパスの方が楽なので好きだ。
頭上のボールをひたすら捌いていると、少しずつ腕がだるくなっていくのがわかる。普段動かないからこそすぐ筋肉痛になりそう。
「やば、手の血管が死ぬ音がする」
「ナイスパース。もっと低くてもいいかも」
「そんな器用に調節できませーん」
「とか言いながらできてるじゃん」
手とボールが擦れる音。ぽいんという間抜けな音。ひとつひとつはさほど大きくないのに、大人数で一斉にボールを扱うと途端に体育館が騒々しくなる。
「ちょっと一旦ストップ。熊谷と加藤! みんなにお手本見せてあげて」
「げえ」
ぽんぽんとラリーを続けていたら、私たちの隣で女教師が立ち止まった。嫌な気配を感じていたら予想は的中。なんと体育館全体を私たちの周りに集合させ、あろうことかお手本を見せろと無茶振りしてきた。なんでこういう時に私を指名するの? 出席率がよくないから嫌がらせしてるの?
友子はみんなの視線なんてへっちゃらみたいだった。さすが女バス期待の星。ボールが天高く上げられ、友子の手先がきれいにスナップする。ボールはゆったりと私の頭上にまで降りてきて、それを迎えるように手のひらを差し出す。見られているって意識するとダメになるけど、もう下手でもいいやというヤケクソの思いで私もパスを出す。軌道を描いたボールは友子の頭上に戻り、友子は慣れた手つきでもう一度私にパスを出す。なんだ、案外私もできるじゃん。こんなに安定してパスを出せるのは絶対に友子のおかげだけど、私も意外と下手じゃないじゃん、なんて一人で自己肯定感が上がる。
「はい、二人ともありがとね。どう? 二人のラリーのどこがいいと思った?」
ホイッスルの音が鳴り、教師が他の子に話を振り始める。これで手が全く上がらないのは悲しいけど、おおっぴらに褒められるのもなんか恥ずかしいな。ラリーが終わった私はすぐその場に体操座りをし、ひやひやした気持ちのまま無機質な体育館の床を感じていた。キョロキョロ周りを見渡していた最中、一人の黒髪ツインテールの女の子が空高く挙手をする。体操座りなのにあの背筋のよさって何ソレどういうこと?
「はい。パスの位置が終始安定してました」
「その通り。この二人はお互いのトスがまっすぐ頭上に降りてきてたね。アンダーハンドパスはオーバーよりもボールの軌道がコントロールしやすいけど、やみくもに手を使えばいいってもんじゃない。みんな、一旦手元で三角形作ってみて?」
ほら、こうやってみて。頭上よりも少し上に三角形を掲げる教師に注目が集まり、周りの生徒はみんな同じ動きをしているようだ。変な宗教団体みたいで面白いなと思いながら周りを見ていると、クソ真面目な顔をしてみんなと同じポーズをしている幼馴染が視界に入った。それがあんまりにもシュールすぎて、私はみんなにバレないようにひとりで笑いを堪える。
その後、私たち二人に対する公開ホメホメ大会がなんとか終わり、チームに分かれて作戦立てタイムとなった。私は前回も前々回も休んじゃったんだけど、チームメイトはみんな優しいから私のやりたいポジションとか色々聞こうとしてくれた。そんな気遣いはむなしく、私はポジションとか役割とか全然わかんないからとにかくおまかせしちゃうけど。体育の授業なんてもっと気楽にやればいいんだよ。教科書とか教師の意味わかんない話とかに向き合わなくていい唯一の教科なのに。
「ねえ、みんなの前でやらされるとかサイアクだったね」
チームメイトたちがミニホワイトボードに向かっている間、隣にいる友子にこっそり耳打ちをする。
「何言ってんの。最近動いてないとか言う割に上手かったじゃん」
「それは友子のボールが取りやすかったから……」
「もう。素直に言葉を受け取ればいいのに」
あはは、と屈託なく笑う幼馴染の顔に、体操服の白がまぶしく反射する。体育館に舞う埃はまるでスターダストのようだ。
子供の頃、部屋中にちかちかと瞬きながら浮遊する物体がなんともいえないくらい綺麗で、しばらく目を奪われていたのを覚えている。その正体が埃だと母に暴かれた瞬間、夢ががらがらと崩れていくようにがっかりしたなぁ。
「ねえ糸。今日は部活ないから久々に一緒に帰ろうよ」
赤いマグネットがホワイトボードをぬるぬる動いていく間、友子は私を真っ直ぐ見ながら話しかけた。私たちの周りには星屑たちが瞬いてる。まるで、私たちを中心に浮遊しているみたいで。
「……別にいいよ」
「じゃあ昇降口で待ち合わせね」
にか、と笑った友子は、まるで何事もなかったようにチームの作戦会議へ戻っていった。私は輪の近くにいたけど、周りの子が何を話しているのかは頭の中に入ってこなかった。ただ、薄ぼやけた体育館の中で笑う友子の顔だけが、絶えずリピート再生されていた。
◇
クラスメイトと適当にさよならの挨拶を交わしたあと、つめたい廊下を機械的に降りていく。ぼやけた昇降口にはすでに幼馴染の姿があって、友子は私を見つけた瞬間にリュックの肩ひもに手をやった。
「帰ろっか」
「うん」
これ、なんてことないような返事に聞こえるけど、本当はめちゃくちゃ嬉しい気持ちを抑え切れない女の台詞。
だって友子と二人で帰るなんて久しぶりだし、ちょっとくらい浮かれたりもする。それは致し方ないことだ。友子は全然そんなことないみたいで、いつも通り大股の足でタンタンとリズミカルに進んでいく。
「友子のクラスは終わるの早いね」
「うん。担任がせっかちだからいつも早いよ」
「へー、あたしと相性良さそーだね。来年その人が担任にならないかなぁ」
「それはないでしょ。毎日急かされまくっていやになるよ」
糸は絶対早く帰りたいだけでしょ、なんていたずらっ子のように笑ってくる。なんだ、バレちゃったかぁ。バレちゃったならしょうがないなぁ。
ゆるゆると歩いていると、ふと脇道に生えてたオナモミの実を見つけた。とげとげとした立体的な楕円の形がびっしりとついている。いかにも痛そうなとげだけど、触ってみると見た目よりはちくちくしてないんだよなぁ。目の前のそれを二、三個片手で取り、少し前を歩く友子の背中に向かって投げつける。
「え、何か投げた? ……ってあ!」
さすがに背中に何か投げつけられた感覚はあったらしい。友子はリズムよく後ろを振り返り、長い両腕を背中に回した。
「いーとー! よくもやったわね」
「あはは、ごめんって!」
小さい頃私がよく投げつけたの覚えてる。あの時は小学校でなんかの探検に行っていて、最初は友子の背中にひっそりとつけただけだったんだけど、他の子が真似していろんな人にひっつき虫をつけはじめたから、道路の真ん中でひっつき虫大戦争が始まってしまったんだっけ。事の発端になってしまった私は当時の担任にコッテリ絞られたんだよなぁ。今思い返してみれば、友子にだけひっそりつけた私よりも、無差別に投げ散らかして騒ぎを大きくした男子の方が有罪な気がするけど。あの子は結局叱られたんだっけ。昔のことすぎて全然思い出せない。
「わ」
昔のことに思い馳せていると、とんと叩かれたような重みを背中に感じた。背中を手でまさぐると予想通り、ちくちくした物体が背中にしっかり張り付いている。後ろを振り返ると、にやにやといたずら顔した幼馴染が数歩離れて立っていた。どうやらあそこから振りかぶって投げたんだろう。
「……友子のはもはや物理攻撃なんだけど」
「え?! そんなに力は込めなかったんだけど……」
「うそだぁ。背骨砕けたかと思ったよ」
「……なんだ。心配してソンした」
実際は全然痛くなかったんだけど、わざと痛がるふりをして友子の様子を伺う。最初はバカ真面目に受け取ったみたいだけど、次第にいつもの呆れ顔に戻っていく。自分が投げたくせに心配しちゃうなんて本当に人がいいなぁ。私だったら開き直っちゃうと思う。
いつの間にか私は、友子の顔を大きく見上げるようになった。彼女は昔から身長は高い方だったと思うけど、普通の女子なら中学くらいで止まる身長も、友子は止まらないまますくすく成長しているようだった。このままいくと何センチまで伸びちゃうんだろう。これ以上見上げなきゃいけなくなると話すたびに首に負担がかかっちゃいそう。
「友子は全然身長が止まんないねぇ。どんどん目線が高くなる」
「うーん。そろそろ止まるかなって思ってるのに全然止まんないんだよね」
身長の話を出した途端、さっきまでの子供みたいな顔はすぐ引っ込んで、頭を押さえながらなんとも言えない表情をした。スポーツやってたら長身の方がゆーりじゃんか、なんて軽口を叩いても、うーんとか何とか言って嬉しそうな顔はしなかった。
「……ひょっとしたらあたし女の子じゃないのかも」
バカ真面目な顔で、いきなりなんてことを言うんだと思った。今のアンニュイな顔は、そういうことをグルグル頭の中で考えてたってこと? 友子のことをばかだって思ったことはあまりないけど、今回ばかりは言わせてもらう。すごくばかだ。ばかすぎる。身長ごときで女の子じゃないだなんていったら、オリンピックに出てる只者じゃない女性アスリートたちはどうなるんだ。彼女たちが一体何センチなのかは知らないけど、少なくとも今の友子より三十センチはでかいんじゃない。ひょっとしたら五十センチかもね。
「はぁ。でかいおっぱい持ってるのに何言ってるんだか」
「な……。胸は関係ないでしょ!」
吐き捨てるように言葉を吐くと、友子は顔を真っ赤にしながらぴーちくぱーちく文句を言い始めた。
「だって女の象徴といえばおっぱいじゃん」
「サイテー。いつか怒られるよ」
「だれに?」
「……あたしとか」
「もう怒ってんじゃん」
確かに怒ってるけど……と言いながら幼馴染は言い淀む。友子が女じゃないならあたしはどーなるのって返したら黙っちゃった。何ソレ。フォローのひとつくらいしてほしいんだけど。