9 だってあちこち痛い


 キュ、キュと、床に室内シューズの擦れる音が絶えず響いている。
 明るい照明に目がチカチカしながらも、目の前の光景についつい視界が吸い寄せられてしまう。両チームの後輩らしき学生たちが観客席全方の手すりに寄りかかり、絶えず「ファイト」だの「ナイス」だの甲高い声が響き渡る。
 大きなブザーの音とともに、それぞれのチームの命運が決まってしまう。コートに立つ彼女たちは私と同年代とは思えないくらい背が高くて、しっかりしていて、最後まで諦めの表情を見せようとしなかった。試合終了のブザーがなった瞬間、ポーカーフェイスを貫いていた彼女たちの表情が緩み、顔をしかめながら天を仰ぐ人もいれば、満面の笑顔でチームメイトと喜びを分かち合う人もいる。彼女たちが遥か遠い世界の人みたいに見えて、この体育館で自分一人だけ場違いだなんて感じてしまう。
 普段なら絶対こんなとこ来ないけど今日は特別。だって友子の最後の大会なのだから。
 私の隣には友子のおばさんが座っていて、呑気に水筒のお茶を口に含んでいるみたいだ。おばさんは何度か大会に足を運んでいるみたいで、今日もゼリー状になったスポーツ飲料の差し入れを大量に持ってきている。私は特に持ち物はなく、小さなカバンに財布と携帯だけというラフな格好だ。
「ねえおばさん、友子は次の試合だよね?」
「うん。確か西側のコートだったような気がするけど」
「もうそろそろ出てくるかなぁ」
 先ほどまでコートにいた二チームはすでに撤収しており、他校のジャージを着た女の子がモップがけをしている最中だった。友子、さすがに緊張してたりするのかな。でもどうだろう。見た目によらず怖がりなところはあるけれど、ここ一番の場面では物怖じせずに挑める強さはあるから、きっと心配しなくても大丈夫だろうなぁ。座ったまま前屈みに頬杖をついていると、白地に青ラインが入ったユニフォーム姿の選手がコート内に入場してくる。その中でも一際目立つ長身の女の子の後ろ姿を見つけ、こっちを振り返ってくれないかな、なんてことを考えた。
「糸ちゃん、友子出てきたわね」
「ね。バスケ部みんな背高いはずなのに、友子はやっぱり一番大きいんだね」
「相手チームも結構長身多いし、どうかなぁ。祈ることくらいしかできないけど……」
「あたしもおばさんと一緒に祈るよ」
 友子は観客席に気を取られたりせず、真っ直ぐと目の前の現実に目を向けていた。チームメイトと円陣を組んだ後、両チームから五人ずつコート内に入っていく。
「はじまる……」
 いつの間にか隣のおばさんよりも私の方が緊張してるみたいだった。手汗は絶えず出てきてベトベトするし、もう口の中が乾いて仕方ない。ジャンプボールが挙げられ、友子の長い手がいち早くボールへと到達する。そうして先制権を勝ち取ったのち、目にも止まらぬ速さで彼女たちは突き進んでいく。
「すご……」
 瞬きする間も惜しいくらいの試合展開が目の前で繰り広げられる。ゴールネットの揺れ動きが治らないうちに、次の攻防へと状況が変化していく。ボールのいく先を追いながらも、目に止まるのはやっぱり黒髪の幼馴染の姿だった。

 ◇

 その後、点を入れたり入れられたり。見逃せない試合が続いた末、友子たちは惜しくも負けという結果に終わってしまった。
 ミーティングが終わるのを待っている間、私は体育館の外階段でぼーっとしながら時間を潰していた。おばさんは差し入れを配ったり他の部員を労ったりしてるみたいだから、きっと室内のフロアあたりにでもいるんじゃないかな。私だって、友子以外に何人か顔見知りはいるし、せっかく来たんだから声くらいかけた方がいいかなとは思う。でも、大切な試合に負けた後なのに、あまり話したことのないクラスメイトに声をかけられても「タイミング考えてよ」って絶対なるに決まってる。どうせ声をかけるならもっと落ち着いた後に、なんて考えたまま一生動かない未来しか見えない。まあでも、あまり面識のない彼女たちにとても感動させられたのは事実だから、心の中からありがとう、お疲れ様って言っとく。
「糸。ここにいたんだね」
 ふと背後から声が聞こえた。びっくりして振り返ると、汗で幾分かしっとりとした黒髪の幼馴染がすぐそこにいた。白色の眩しいユニフォーム姿ではなく、よく汗を吸いそうな紺色のTシャツを身につけている。
「びっくりした。……おつかれさま」
 もっと気の利いた言葉をかけられたらよかったけど、肝心の言葉が何も出てこなかった。それを誤魔化すように、自分の両足を一層引きつけて、体操座りのまま小さく縮こまる。
「うん。……見にきてくれてありがとう。負けちゃったけど」
「そんな、ベスト8なんてすごいじゃん。全部友子のリーダーシップのおかげでしょ」
「……あたしは全然だよ。みんなにたくさん支えられたおかげだから」
 そう言いながら友子は私の隣に腰を下ろす。自分の頑張りを誇示するでもなく周りの力のおかげと謙遜するなんて、いかにも謙虚な友子らしい返答だ。周りの子が今まで友子についてきたのも、友子が今まで真剣にバスケへ向き合ってきた証だと思うのに。でもそう言うとまた彼女は否定するのだろう。
「……ねえ。高校でもバスケ続けるの?」
 これだけ打ち込んでいるんだし、この先もずっと続けるんだろうな。そう思いながら質問を投げかける。試合中の友子は見たことないけど、高校になったらふらりと見に行こうかな。女子とはいえバスケは迫力がありそうだし、授業でやってるから最低限のルールも分かるはずだ。
 友子はなぜか目を泳がせた。あ、ひょっとしてまだ落ち込んでいたかな。まだ負けたばかりのデリケートな時期にバスケの話題を振ってしまったことを少し後悔する。まだ中三の夏だし、別に高校のことなんて決めてなくてもいいと思うよ。そう言いかけた言葉は、次に続く友子の言葉にかき消された。
「……あたしね、ボーダーに入ろうと思ってるんだ」
「……は?」
 あたしね、ボーダーに、はいろうとおもってるんだ。
 友子が何語を喋っているのか最初は全然わからなかった。はるか宇宙に飛ばされたような気持ちになって、とても感情が追いつかなくなる。
 友子が、ボーダー? なんで急に? 今まで話してきて、友子がボーダーに入りたいだなんてことは一度も聞いたことがなかった。それなのに、どうして。頭の中では常にハテナマークが浮かんでいる。だってそれくらい信じがたいのだ。
 私は何も言えなかった。なにそれ、意味がわからないんだけど。言葉が喉まで出かかっているというのに、何も言葉にすることができない。
「……あたしね、あの日の糸の表情がずっと忘れられなくて」
 友子は私の方へ目も向けず、ずっとまっすぐ前だけ向いていた。あの日、がどの日をさすのかは、三門で暮らすと決めた人なら誰でも分かると思う。
 今彼女が見ているのは目の前の夕焼け空じゃなくて、遠い昔の情けない私なのかな。もしそうだったとしても、今の私はずっと何も言えないままだから。
「あたしの家は被害も何もなかったからさ。……本当に自分でも浅ましいと思うんだけど、ちょっとほっとしちゃったの。でも、あの後おばあさんのことを聞いて……それで東三門の状況を知っていくうちにさ、私は……」
 雨が滴るように、ぽつぽつと話を進めていく友子のことをただ眺める。すっかり空は黄色とオレンジのグラデーションを作り、水色はどこかへ追いやられてしまった。じきに藍色に侵食されていくのだろう。いつだって時間の入れ替わりは一瞬だ。
「……何もしない自分のままじゃいけないんだって。いつどうなってしまうのか誰にも分からない。そうやって、今まで通り学校に通ってる間でも、バスケやってる間でも、頭の片隅ではずっとボーダーのこと考えてた」
 いつの間にかヒグラシが泣いていた。家の近くでは滅多に見ないというのに、この辺は緑が豊かだからなぁ。キキキキ、となんとも言えない悲壮感を漂わせた後、役目を終えたようにどこかへ飛んでいってしまった。つがいになるメスが見つかったのかもしれない。ヒグラシのきれいな泣き声がいてくれないと、夏の夕方はひどく空虚になる。
「……あたしは他人を守る強さが欲しい。何もできないままの自分は嫌でたまらないの。……あの日からずっと心に重しがかかっているみたいで、それがすごく気持ち悪かった」
「……」
 ずっと空間だけを見つめていた友子がこちらを見た。目が合わさった瞬間、私も現実に引き戻される。友子のまっすぐな瞳から底知れない恐怖を感じ、その場で身震いしたくなるほどこわかった。
 彼女って一度決めたことはてこでも動かないような頑固さがあるしなぁ。きっと私からの言葉なんて、彼女の固い覚悟の前では灰になって消えてしまうのだろう。ねえ友子、「他人を守りたい」なんて崇高なこと、私は今まで考えたこともなかったよ。
 一体友子はいつからこのことを考えていたんだろうな。あの日の顔が忘れられないなんて、私は相当ひどい顔でもしていたんだろうか。友子の頭から離れないくらいケッサクのやつ。あの時の私のことなんて、一瞬で忘れてくれていいレベルなのに、友子の人生にそんな形で影響を与えたくなかったな。
 取り返しのつかないところに来てしまったように感じた。直前の分岐点で私は誤った選択をしたのかもしれない。リロードしてもう一度やり直せるなら、一体どんな選択をすれば軌道修正できたのだろうか。
「……友子にはボーダーなんて全然似合わないよ」
 言い終わってからはっとした。口元を両手で隠す。違う。こんなひどいこと言おうと思ったんじゃない。そう思いながら慌てて友子を見たけど、彼女は悲しそうに笑っただけだった。
 友子からは私のことを責めようとする気配は全く感じなくて、私はそこでさらに苦しくなった。なんで責めてくれないの。友子がたくさん考えて決めたことなのに、やる気もなくて駄々草な生活ばっか送ってる私が浴びせていい言葉じゃない。たとえ友子が許したとしても私は私のことを許したくない。
 違うって撤回したかった。でも、一度言った言葉は取り戻すことができないし、いくら言い訳を重ねたってもう手遅れだと感じた。もうだめだ。私はもうだめなんだ。

 私はあの日からずっと抗っている。みんなが当たり前みたいに受け入れたボーダーからも、警戒区域という名前で隔離された知らない人々の家の山からも、私の目の前で人生を変える決断をした幼馴染からも。
 ばかみたいな抵抗だと笑われるかもしれない。でも、力も強さも持たない私が唯一できる方法はこれしか思いつかなかった。

Lost stars