三輪くんの名前が好き

「ねえねえ三輪君」
 私の前を歩く背中に、ひとつ言葉を投げかける。すたすた歩いていた彼は急に立ち止まり、丸くて黒い頭がヒュンとこちらへ向いた。無言のままじっと見つめてくる三輪君は、黙って続きの言葉を待っている。
「ふふ、呼んだだけ〜」
 無防備に開かれた手のひらが目に入ったので、すかさず私の右手を滑り込ませた。手を握りながらそう伝えると、三輪君は分かりやすく嫌そうな顔をする。あはは、やっぱり変な顔すると思ってたよ。リアクションが予想していたまんまで、相変わらず分かりやすい三輪君のことが愛おしくなる。用がなくても名前を呼び続けることなんてしょっちゅうあるのに(もちろん本当に用がある時もあるよ)、毎回ちゃんと反応してくれる三輪君は素直で可愛いなぁ。
「あれま、怒っちゃった?」
「別に。ただ用のある時だけにしてくれ」
「えー、だって三輪くんの名前ってすっごく呼びやすいんだもん。ね?」
 繋いだ手は解かれないまま、三輪君は呆れた様子で再び歩き始めた。今だって全然用がないわけじゃないし、ただのコミュニケーションの一環じゃんか。そう心の中で思ったけれど、これ以上話を出すと三輪君がさらに黙っちゃうような気がしてやめておく。
 ジリジリと差し込む日差しが背中を焼いてきて鬱陶しい。ああ、早く三輪君の家につかないかなぁ。コンビニの手提げ袋が歩くたびにずしりと重く感じる。
「ねえ、三輪君は自分の名前って好き?」
 頭の中で『みわしゅうじ』の並びを反芻しながら、ふと気になったことを投げかける。
 私は三輪秀次という名前が好きだ。おばさんが彼のためだけに選んだ特別な言葉だし、『三輪君』って何度でも呼びたくなるくらい素敵な音の並びだから。
「好きか嫌いかなんて考えたこともない」
「ふうーん」
 濁した答えがまた三輪君らしいと思った。彼のことだから、「自分の名前が好きだ」なんて即答するとは思ってなかったけどね。私の間延びした相槌は、両側から響き渡る蝉の声へと吸い込まれていく。考えたことないとか言ってみたって、三輪君はきっと自分の名前が好きなはずだと思うよ。だって、あの家庭で育ってきたなら必ずそう思うに決まってるもん。
 私はずっと、三輪君のことを下の名前で呼んでいない。三輪君だって、私を下の名前で呼ばない。
 それでも私たちは何の不都合もなく続いているけれど、長い付き合いなのになんで下の名前で呼ばないのかと、他人から奇妙がられることがある。たかが呼び方ひとつで距離感が決まるわけないと分かってるし、他人からの視線なんてどうでもいいけれど、世間と私たちの間には噛み合わないものがあるんだな、なんて実感して、頭のどこかから冷めた音が抜けていく。
 こんな考えを抱えているなんて面倒くさいと思われるかもしれないけど、だって初めて会った時から三輪君は三輪君のままで、決して『秀次』ではないのだから。名前呼びで感じる違和感の正体はきっとこれだと思っている。
「蛇石は……」
「ん?」
 蝉の声と手提げ袋だけが擦れる音が響く道路で、三輪君は独り言のように呟いた。彼の顔を覗き込んでみても、その顔から表情は読み取れない。じわりと背中に汗が伝うのがわかる。これはきっと暑さのせいで、それ以上はなにもない。
「……いい名前だと思う」
「……ふ」
 じわりと嫌な予感を感じていたというのに、三輪君の口から出たのはひどく拍子抜けの言葉だった。何それ、褒めてるの? 非難の言葉は言葉にならず、代わりに笑いが込み上げる。なあに三輪君、もしかして私に気を遣ってくれているの? 確かに自分の名前が嫌いだって話をしたことがあるかもしれないけど、そんなことで私が拗ねているとでも思ったの? 無言で歩いている間に、彼の頭の中ではそんな安直な考えが回っていたなんて。いつでもまっすぐな三輪君が眩しすぎて、しばらく肩の震えが止まらない。
「……何で笑ってるんだ」
「だって三輪君が可愛くって……ふっ」
「また俺のこと馬鹿にしてるんだろ」
「馬鹿になんかしてないよ。三輪君が可愛すぎて、一生離してやんないって思ってる!」
 繋いでいた手を解いて、代わりに両手を三輪君の首に巻きつけてやる。こっちに引き寄せようと頑張ってみたけど、人目を気にしてる三輪君は全身で抵抗を示した。力勝負になると悲しいことに負けてしまうんだなぁ。足が浮きそうになるのをこらえながら、私はありったけの力で三輪君に抱きつく。
「あはは、三輪君力持ち〜」
「暑い! しつこい! 早く帰るぞ!」
 半ば引きずられる形になりながらも、いつもの道路を三輪君と一緒に進んでいく。
 空に向かって「三輪君」と名前を呼ぶ。隣から「蛇石」と返事がかえってくる。誰にも理解されなくたって、誰も味方がいなくなったって、私は三輪君といる限り生きていられるんだよ。巻きつけた手を一層きつく締めながら、眩しい日差しからそっと目を逸らした。

Lost stars