加古さんとクッキー作り

 ボーダー本部の建物内には一通りの設備が整っている。訓練室や作戦室はもちろん、食堂や仮眠室など、一定水準の生活ができるような部屋まで完備されている。もちろん、中学生の私は親の許可なしに外泊できないので実際に入ったことはない。が、これだけ施設が整っているのだから、もしも大きな災害で閉じ込められたとしても、数十日は余裕で生き延びられるのではないだろうか。まあ、災害があってもなくても関係なしに、ボーダーで寝泊まりしながら仕事をする大人たちはゴロゴロといるのだけれど。

 そんな私は人生で初めて、共用キッチンがある部屋へと足を踏み入れている。隣にいるのは加古望先輩。東隊に所属する、年上の女の先輩だ。
 どうしてこの人と二人きりでキッチンに並んでいるのか。それを説明しようとすると長くなるのだけれど、彼女がよくここで料理をしているという噂は三輪君からかねがね聞いていた。加古さんの作る料理はものすごく美味しいものと不味いものの両極端らしく、三輪君なんて思い出しただけで眉間に皺を寄せ、どこか遠い目をしたりする。きっと記憶から薄れないくらいインパクトの強いやつなんだろう。それなのに、ものすごく美味しい時もあるらしくて、加古さんは料理が上手なのか下手なのかわからない、と三輪君は真顔で呟いたことがあったっけ。あまりの真剣な顔に、しばらく笑い転げて仕方なかった時もあった。
 そこで、エレベーターでたまたま加古さんと一緒になったタイミングで話を出してみると、「もうすぐバレンタインだから一緒にお菓子を作らない?」なんて意外なお誘いを受けたのだ。蛇石家のキッチンは常に母親が独占しているし、目を掻い潜りながら本命チョコを作るのも億劫に感じていた私は、加古さんの魅力的なお誘いにふたつ返事で話に乗った。以前ケーキを作ったときだって、母が台所を使う時間と被らないように調整するのが面倒くさかったし。それなら、共用キッチンで広々と料理をした方が気が楽なのは明白だろう。

 共用キッチンは掃除が行き届いていて、水回りや冷蔵庫の中まできちんと整頓されていた。大きな作業台の前に、加古さんと二人で並んで立つ。加古さんは私よりも背が高くて、隣を向くときは見上げなければならない。手足がすらっと長くて、黄金色の瞳だって印象的だ。一度目を合わせたら離せなくなるくらい、まるで海外モデルのように整った顔をしている。
 私は手元に視線を移した。ボウルの中に柔らかくなったバターと砂糖、卵を順番に投入する。卵は一気に入れずに、数回に分けて満遍なく混ぜていく。砂糖のじゃりじゃりした感触がなくなるまで混ぜた後、スケールで薄力粉の分量を量る。レシピ通りに数字が整わないとなんだか気持ち悪いので、量りながら少しずつ調整していく。
「あら。いちいち量らなくても美味しく作れるわよ。料理はフィーリングよ」
 スケールに釘付けな私を横目に見ながら、加古さんは飄々とした様子で声をかけた。彼女は制服の上から華やかなエプロンを身につけている。大人っぽい雰囲気が印象的な、水彩模様の花柄エプロン。加古さんの顔立ちを引き立たせるような淡い色合いだ。
「加古さんの分はそれでいいですけど、私の分は量らせてください。加古さんみたいなセンスはないので」
「そう? 蛇石ちゃんは慎重ね」
 きっちり量りたい私に対し、横にいる彼女はためらうこともなく、目分量でひたすら薄力粉を振るっていく。薄力粉の袋から直にボウルへ投入していく様なんて、自宅のキッチンでは決して見られない光景じゃないか。こんな荒技、大胆で失敗を恐れない加古さんだからできる所業だ。
 つい横の様子に気を取られてしまった。もう一度目の前のボウルと向き合い、振るった薄力粉が生地に馴染むよう、ヘラで慎重にかき混ぜていく。うーん。混ぜ始めのこの瞬間、いつやってもあまり得意ではないなぁ。粉が飛んで面倒くさいし、思い通りに動いてくれなくてイライラする。
「それにしても、まだバレンタイン前なのによかったかしら?」
 誘った身で聞くのはどうかと思うけど。そう付け足しながら、加古さんは上機嫌な様子で話を切り出してきた。粉っぽい生地にイライラしてた私とはまるで大違い。ボウルから顔をあげ、余裕の笑みを浮かべる彼女へと目線を移す。
「はい。今日は本番じゃなくて練習なので大丈夫です。……三輪君には、一番美味しいものを作ってあげたいから」
「まぁ。蛇石ちゃんったら健気ね」
「どうも」
 まだ一月中旬にさしかかったあたりだったので、街中もバレンタインムードに染まるにはまだ早かった。それなのにバレンタインへ向けたお菓子作りを決行するなんて、一足、いや、二足くらい先取りのスタートじゃないだろうか。
 それに、どうして加古さんがこんな早い時期に私を誘ってきたのか。よく考えれば不思議でしょうがないが、理由を聞いたとしても「気が向いたから」だとか、そんな気まぐれな答えが返ってくるんだろう。わざわざ聞くまでもないので、特段質問なんか投げかけたりはしない。
 手を動かし続けていると、ようやく生地にも粘り気が出てきた。ほろほろと崩れていた様子とは大違いで、バターが馴染んだクリーム色の塊が、テカテカと綺麗に光沢を保っている。ヘラをシンクへ戻してやり、手袋をつけた右手でまとまるようにこね始めた。生地を握り潰すたび、ぐにゅりと奇妙な感触がする。
「……出発はいつなんですか?」
 生地から目線を離さないまま、私は虚空に向かってそう問いかけてみた。加古さんがどんな顔をしているかは分からなかったけれど、きっとしんみりした顔はしてないんだろう。だって、彼女がそんな顔をするところなんて、全然想像がつかないから。
「そうね、あと半月くらいじゃないかしら。そろそろ荷造りを進めなきゃね」
 加古さんは何も抱えていないような、そんな軽い声色で返事をかえした。
 加古さん、そして三輪君が所属する東隊は近々、近界への遠征任務を任されていた。きっと長い遠征になるのだと思う。もちろん大きな危険も伴うはずだ。
 しかし、東隊に任された任務とはいっても、私の大好きな三輪君だけは意図的に遠征メンバーから外されていた。三輪君はそのことについて何も言及しようとはしなかったし、私もあえてその話題を出すことはしなかった。いくら私たちの距離が近くても、触れてはいけないひみつの壁が、確かにそこに存在している気がして。いつもなら、地雷に踏み込んでもまあ許されるだろう、なんて自信があったけど、今回ばかりは試す気にならなかった。
「……ねえ加古さん。三輪君を行かせないのは隊の判断? それとも上ですか?」
 ずっとずっと、気になって仕方なかったことが零れ落ちた。きっと三輪君は自分から「近界には行かない」なんて言ったりしないだろう。だとしたら、きっと隊の人間か、それよりももっと上の人物が関わっているはず。加古さんはきっと、私の真正面からの質問を躱すことはしないだろうし、三輪君にわざわざ告げ口することもないと思ってる。だからこそ、この人に聞いてみたいと思ったのだ。
 彼女の言葉を待つ間、やけに口の中がパサパサに乾いてしょうがなかった。乾いた唇を舌先でなぞる。潤ったのはほんの一瞬で、数秒後には砂漠のように張り詰める。
「うーん。それは両方じゃないかしら」
 抑揚のない声で、目の前の女の人はそう呟いた。向こうの世界はきっと、今の三輪君には苦しいものかもしれないわね。そんな言葉も後から並べられる。
 三輪君を行かせないと決めたのは、隊と上層部両方の判断だった。そうやって答え合わせすることはできたが、すっきりするどころか逆に複雑な気分になってしまった。詰まった息をぽつりと吐く。どんな答えが返ってきたら正解だと感じたのだろう。自分の頭の中のことなのに、答えは全く検討も付かない。
「ねえ蛇石ちゃん。三輪君が遠征に行かなくて安心した?」
 くっきり二重の双眼が、私を捉えて離さなかった。悪戯めいた表情のまま、私の返答を黙って待っている。
 いきなり核心を突かれてどきりとした。アイスピックで氷をかち割るように、何気ない動作でありながらも、鋭い針は確かに突き刺さる。私の考えていることなんてとっくに見透かされているかもしれないけれど、もし気づいてもそっとしてあげるのが大人の対応なんじゃないの。
 それなのに、わざわざ突いてくるところなんてすごく加古さんらしい。そんな媚びない彼女が好きだけど、今だけは煩わしく感じる。
「……三輪君が、どこか目の届かないところに行ってしまうのは嫌だから。これでよかったです」
 丸まりかけた生地を目の前に、すっかり棘が取れてさみしくなった人の後ろ姿を思い浮かべた。ごつごつと骨張っている体と、不健康な青白い肌色。手の届く範囲にいるからこそ美しく見える。だって、遠く離れてしまえばその他大勢の人間の中に紛れ込んでしまいそうだから。
「ふふ、正直ね。私正直な子は好きよ」
 クスリと笑う声がやけに脳内へ響いた。ふうと息を吐き、続けて新鮮な空気を取り入れる。甘ったるい匂いに頭がくらくらしてくる。
 どうか彼を連れて行かないで。私が全く知らない人に変えないで。新しい何かに触れて、どんどん変わっていく三輪君なんて見たくない。ずっと黒い繭の中に閉じこもって、目の前の人形にでもずっと刃を突き立てていればいい。人形がぼろぼろになったら私が新しいものを用意してあげるし、もしも自分に刃を突き立てようとしたらすぐに止めてあげるのに。
 放置する時間が長かったせいか、せっかくまとまった生地はあっという間に柔らかくなってしまった。冷蔵庫で寝かせない限りは綺麗に型抜きできないだろう。引き出しからめん棒を取り出し、無言でぐいぐいと押し当てる。生地がぐにゃりと曲がる。めん棒に力を入れるたび、あんなに歪だったかたまりがどんどん平らになっていく。
「加古さんは……怖いとかは思わないんですか?」
「怖い? 何を怖がるの?」
「何をって……」
 伸ばされてどんどん薄くなる生地と一緒に、自分の声もどんどんと小さく尻すぼみになっていく。
「……もしも、遠征に参加したことで、自分が今まで考えてたことが揺らいでしまったら、とか……」
 思考を手繰り寄せながら、雨粒を弾くようにぽつぽつと言葉を並べる。
「今まで頼りにしていたものが本当は嘘だった、みたいな、そんな展開を目にしてしまったらどうしようって考えちゃうんです。極端すぎる表現ですけど、百パーセントそうならないとは言えないじゃないですか」
 私が話している間中、加古さんの瞳は一切ブレることなく、私の瞳を見つめ返してくれた。抽象的な説明しかできなかったのに、きちんと汲み取ろうとしているのが伝わってくる。
「うーん。まあ、その考えも少なからず理解できるわ。当たり前だけど、此処にいる限りは一方向からの見方しかできないものね」
 でもね。そう言葉を紡ごうとする彼女から目を離せなかった。長い睫毛が頬の上に影を作り出す。それは瞬きをするたび、鳥のようにばさばさと羽ばたく。
「でもね、変わることって楽しいのよ。変化を恐れていたらつまらないわ」
 そこにあったのは、いつもの大人びた加古さんとはまた違う、年相応の笑みを浮かべた女性の姿だった。
 そんな台詞をいとも簡単に言い放ってしまうこと。身軽に歩き、気が赴くままに立ち去ってしまえること。それらが全て羨ましくて、そして疎ましかった。
「私は……変わらないことの方が大切です」
「そう。勿論そういう考え方も否定しないわ。変わらないことも美しいもの」
 加古さんはそう言いながら、目の前でぺちゃんこになった生地にクッキー型を押し当てた。ふやけた生地では上手に型抜きができず、歪でゴツゴツした、いかにも失敗作なハートができ上がる。
「でも、生焼けのままじゃ体に毒よ」
「……確かに、クッキーはそのままだと駄目ですね」
 歪なハートをつまんだ彼女は、「このまま焼いたらどんな形になるのかしら」なんて興味津々な顔で呟いた。先程までの様子とは打って変わり、今の姿は誰もが知っている加古望像そのものだ。
 胸のざわざわが収まりきらないうちに、加古さんはいつもの様子で私に軽口をたたく。一瞬戸惑ったけど、彼女のおかげで戸惑いはすぐに消えた。先程までのやりとりは嘘だったかのように、いつも通りの先輩後輩の会話に変化する。

 単純に、私が三年の月日を重ねたとしたら、先ほど加古さんが言ったような台詞を躊躇いなく使えているのだろうか。どうしたら、そんな風に物事を考えることができるのだろうか。何もかもにしがみ付くわたしは、永遠に子供のままなのだろうか。
 彼女の軽やかさが羨ましいけれど、自分は永遠にそうなれないんだろう。真っ直ぐに伸びる金色の髪の毛が、私の瞳の奥を曇らせた。

Lost stars