コンクリートも湯だつ午後三時。太陽を遮る木々の間をすり抜けながら、見慣れた道路を早足で通り過ぎる。
夏の始まりはあんなにも心が躍るのに、こうも暑さが続くとだれてしまう。夏を彩る行事は好きだけど、それを楽しむためには暑さに耐え続けなくちゃいけないなんて、私にとっては大きな苦行だ。できれば外を出歩きたくないけれど、ずっと家に居るなんて選択肢は選びたくないし。
冷房の効いた部屋に慣れすぎた私は、少し外を出歩くだけでも気分が悪くなってしまいそうだ。背中を伝う汗をそのままにして、いかに早く屋内に逃げ込むかということだけを考えて歩き続ける。
足を進めると見え始めた、なんの変哲もない素朴な一軒家。満開の草花や、立派な門構えがあるわけでもない。それなのにこの家は、他のどんな一軒家よりもあたたかくて、私を優しい気持ちにさせてくれる。
躊躇いもなくチャイムを鳴らすと、数十秒の空白の後すぐ三輪君が顔を出した。見慣れた白いTシャツにジャージ生地の黒いハーフパンツ姿。足元は無防備な裸足。私くらいしか見たことがないであろう三輪君のオフ姿を目に収めていると、思わずにたにたと笑みが溢れてしまう。
「えへへ、来ちゃった」
「蛇石。……今日は何か約束してたか」
私を出迎えてくれた三輪君は、何やら気まずそうな様子で手を首にやった。
どうやら彼は約束を忘れてしまったのかと勘違いしてるみたいだ。三輪君に非などないけれど、そんなにバツの悪い顔をされたらちょっとだけいじめたくなっちゃう。今日は我慢してあげるけど。
「ううん? 別に何も約束してないよ。今日非番だって聞いたから、三輪君は今何してるのかなーって思って」
「……そうか」
三輪君がお休みをもらっているのは、今日本部に行き初めて知ったことだ。夏休み中の三輪君は、普段学校に行くのと同じくらい、いや、それ以上にボーダーへ足繁く通っている。だから今日もいるだろうと思って隊室を覗くと、なんと三輪君は蓮さんの命令で一日休を取らされているということを教えてもらった。あの蓮さんの言うことに三輪君は逆らえない。ひとりで大人しく家に篭っている三輪君を想像したら、なんだか無性に会いたくなってしまった。
「……外は暑いだろ。あまり冷えてないかもしれないが、よかったら入るか」
「ふふ、お邪魔します」
あまり冷えていないかもしれない、と一言付け足すところが三輪君らしいなあと思った。玄関へ入った途端、ほっとしたあたたかい匂いに包まれる。いつも三輪君から香るこれは、一体何の匂いだろうと思うけれど、何回嗅いでも答えはわからない。
三輪君の誘導のまま、一階のリビングへと足を踏み入れる。三輪君は今日一日この部屋で生活していたらしい。28度に設定された室内で、テレビの中ではキャスターがニュースの原稿を読み上げている。部屋の中心に置かれた机の上には課題の山。三輪君のことだからきっと計画的にコツコツ取り組んでいるんだろう。
「せっかくの休みなのに課題? もう、私抜きでちゃんと息抜きできてる?」
「なんだその言い方。別に心配いらない」
「……ふうーん」
「何だ。近い」
冷たい返事が返ってきたから、不服の声をあげる代わりにジリジリ圧をかけておいた。三輪君は半分嫌そうに、半分嬉しそうにしながら体を後ろに反らす。
ふと部屋の中を見渡すと、コンロ上の明かりがつけっぱなしになっていることに気づいた。何かと思って目を配ると、電球の下には湯気が立ち上ったままの鍋が放置されている。あの湯気の量を見るに、きっと先ほどまで火にかけられていたに違いない。
「何あれ。何か沸かしてたの」
「ああ。小腹が空いたから茹で卵でも食べようかと思って」
「……ゆで卵?」
三輪君の口から飛び出たのは予想以上にかわいいものだった。ゆで卵なんて単語、久しぶりに聞いたかもしれない。あんまりにも可愛すぎて、声を抑えきれずにクスクスと笑ってしまい、それがまた面白くなってしまう。
「……そんなに笑うことか」
「だって……ふふ、ラーメンとかならまだしも、ゆで卵をチョイスするなんて……」
三輪君、小さい頃はお菓子がわりにゆで卵とか作ってもらってたのかな。おばさんなら、子どもの健康を考えてそういう事をするのかもしれない。
「……あーあ、笑い疲れたら食べたくなっちゃった。私の分も追加で作ってよ」
「食べるのか」
「うん。私も小腹が空いちゃった!」
カウンターに放っておかれた卵を横目に、冷蔵庫の方へと移動をする。体の水分が抜けていったところだし、さっぱりしたものとか食べたいなあ。
「レタスとかあったりするかな。三輪君、ゆで卵サラダはいかがですか?」
「それ、いいな」
「よし、決まりだね。おばさん失礼しまーす。……あ、トマトもある」
冷蔵庫を開けると、中には半分に切られたレタスやトマト、袋に詰められたナスなどが所狭しに詰まっていた。その中でもトマトは真っ赤に熟しており、見てるだけで涼しげな気分にさせてくれる。手前に置いてあったレタスとトマトだけ手に取り、カウンターにまな板と包丁をセットする。
三輪君は冷蔵庫から卵を取り出し、ぐつぐつ沸騰した鍋の中にことんと入れた。タイマーをセットした後、どうやら手持ち無沙汰になったのか、その場に立ったまま私の手元をじっと覗き見る。そんなにも見られたらこっちもやりづらくなるんだけど。
「……そんなじろじろ見てどうしたの。もっと量あったほうがよかった?」
「いや、そういう訳じゃないが……。ただ、手際がいいなと思って」
「え」
三輪君のその言葉を聞いた瞬間、思わず手を止めてしまった。今までトマトに向けていた目を、隣に立つ男の方へとそっと向ける。
「いや、手際良いっていったって、ただトマト切ってるだけだけど」
「そうか」
「うん」
三輪君は何も言い返さず、黙ってまな板の上へと目を向ける。私は急に恥ずかしくなり、さっきより気軽に包丁を動かせなくなった。
料理をする機会なんて少ないから包丁使いだってぎこちない筈なのに、どうして三輪君は急に褒めたりしたんだろう。自分が得意だと思っていないことで褒められると、「別にすごくないよ」なんて反射的に跳ね返したくなってしまう。
私がこんな複雑な思いを抱えているのに、隣の三輪君は呑気に私の手元を眺めている。くし形に切ったトマトはちゃんと均等になっているかな。そわそわする気持ちを抑え、なるべく平常心を心掛けながら包丁を引いた。
◇
「いただきます」
両手を合わせ、三輪君と食卓に並ぶ。隣同士に並べたランチョンマットはやさしいベージュ色をしていて、まるで三輪家の食卓を象徴する色合いだと思った。ランチョンマットの上に乗るのは、ご飯と呼ぶにはあまりに簡素な、ゆで卵が乗ったレタスとトマトのサラダ。シーザードレッシングがかけられたそれは、どの家庭でも見られるようなありふれたサラダだ。
三輪君はまずゆで卵を口に運び、次にトマトに手をつけた。口を動かしながら漏れ出た「うまい」の一言に、思わず胸がじんわりと暖かくなる。例えるなら、そうだな。画用紙に色水が染みていく瞬間、といえば伝わるのかな。
「……何笑ってる。もしかして口についてるか」
「ううん? 別に?」
隣でニタニタ笑っているのがバレたみたいで、三輪君は不思議そうな顔でそう尋ねた。私はサラダに手もつけないまま、隣に座る愛しい人の瞳を見つめる。
「……もしも一緒に住んだらこんな感じなのかなあって思ったら、自然とね」
こうやって隣同士でご飯を食べるのなんて、今まで何十回、もしかしたら何百回も繰り返していることだけど、一緒にご飯を作るのは初めてだった。一緒に台所に並んでいると、自然と将来のことを考えてしまう。
三輪君がくれる幸せは、仰々しい贈り物とは少し違う気がしている。毎日の何気ない生活の中で、息をするように自然と手渡されるもの、と表現すれば伝わるだろうか。それは食料のように私の体に補給され続け、今では必要不可欠な物となっている。
三輪君からの供給が絶えてしまったなら、私はきっと息切れして倒れてしまうのだろう。食事をするのと同じくらい、三輪君の瞳を見て、肌を触る。毎日生きていく上で、そんな時間が私にとってはこの上なく必要なのだから。
「……今度小腹が空いたら味噌汁作ってあげるね。蛇石家の味噌汁は凝ってるよ」
「それは美味しそうだな。……気が向いたら、作ってくれ」
「ふふ、いいよ」
味噌汁だけは母から作り方を学んでいるので、唯一美味しく作れる自信があった。ハードルはいくらでも上げておいていいからね、と一言いうと、三輪君はなんだそれ、なんて言って軽く笑った。
気が向いたら、なんて言うけれど、私は今すぐにでも作ってあげたい気分になる。三輪家の食材をまた借りるのは申し訳ないから、次は家で作ったのをデリバリーでもしてあげようかな。それとも、もっと気軽に三輪君に振る舞うことのできる時がくるのかもしれないな。そんなことを思いながら、涼しげなお皿に盛り付けられたサラダをひとくち口に運んだ。