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じゃあ、と尾形さんは進行方向を指差す。
「俺はあっちにいるから、終わったら走ってくれば良い」
「あっちって大雑把な」
「じゃあ目標はあの木の辺りだ」
つまりあの木にはいるつもりはないのだろうな、と思ったがそこまで突っ込んで聞く時間はなさそうだ。仕方ない。僕は言われた通りにふらふらと歩き出す。なかなかこの雪道を歩くのは骨が折れる。
そんなことをしていると、後ろから誰かの近付く音がした。
「伊佐早先生!」
振り返ると、兵隊さんがいる。見覚えがあった。鶴見さんのところの兵隊さんだ。病院にも何度か来ていた。…尾形さんの、見舞いとして。僕も何回か会話したはずだ。
「どうしてこんなところに」
「鶴見さんのところの…。どうしてこんなところに、って僕の台詞ですけど…聞かない方が良いですか? ああ、ええと、僕は尾形さんが脱走したので捕まえに」
「尾形上等兵殿が?」
「はい。監視付きでなら訓練して良いと許可出したじゃないですか。あの人その途中に逃走しまして…え、もしかして知りませんでした?」
「いえ、まさか! でも伊佐早先生が尾形上等兵殿を追っているとは…」
「そりゃあ追いもしますよ。僕、あの人を生死のふちから引っ張り上げたんですよ? いや、正確には白栖先生ってことになるのかもしれませんが…なのにその努力をドブに捨てるような真似、許せないでしょう! まだあと半月はベッドとお友達になっててもらわないといけないのに!」
話しながらふつふつと怒りが戻ってくる。そうだ、本当はもっとベッドと仲良くしていてもらわないといけないのに。
「ああ、そういう…。あの、先生。書き置きなどは残しましたか?」
「残したと思うんですが…。あれ、もしかして僕も探されてました?」
「もしかしても何も! 鶴見中尉殿がとても心配なさっていましたよ」
「鶴見さんが? それは―――」
どういうことなのか聞こうとして、その言葉は遮られた。
音が遅れてやって来る。ぐらり、と傾いた身体が僕とは逆方向に倒れる。僕は手を伸ばすことすら出来なかった。
―――死んだ。
華麗なほどに一瞬でやって来た死だった。病院に運び込まれる生命というのは、というよりも僕が立ち会う死というのは大抵が藻掻いて藻掻いてそれでも取りこぼされていく類のものだったので、こういうものもそういえばあるのだとぼうっとしてしまった。
ふらり、と足が縺れそうになる。合図、そうだ合図と尾形さんは言った。これは尾形さんが撃った。それは僕でも分かった。騒ぎ立てる脳を叱咤して兎に角動けと身体に命令する。もし尾形さんが先程の兵隊さんとついでに僕も殺そうとしていても、頷いたからには尾形さんが指定した方向へと走るべきなのだろう。ああ、全く、これは確かに分かりやすい合図だ。舌打ちをして走り出す。意外にも足は震えていなかった。そりゃあ当たり前か、と踏み出す。というかこんな町の近くで銃声をさせて良かったのだろうか。思考が回っているのに、もっと空回りしろとすら思ってしまう。信じている、と言いたかった。信じる・信じないの前に選択肢はそれくらいしかないだけなのに。
なんとか指定された木の元へと辿り着く。尾形さんがひょっこり顔を出す。
「よく走れたな」
まるで小さな子供にするように頭を撫でられた。何も、なかったかのように。
「―――、」
何を言ったら良いのか分からなくなって、やっとのことで言葉になったのは純粋な疑問だった。
「何故ッ」
尾形さんの表情は変わらない。
「逃げるだけなら生命まで奪う必要はないと?」
「…ッ、その通り、です。尾形さんの腕なら膝を砕くことだって可能でしょう」
死よりも痛みの方を人間は恐れると聞くし、殺すよりも非道なことは幾らでも思い付く。此処で殺してしまうよりも例えば脊髄を損傷させたりする方が苦しいのではないだろうか。
僕の考えていることが分かったのか、アンタも相当だよな、と尾形さんは言った。尾形さんも同じことを考えてはいたらしい。少し笑って、それからすっと表情を消す。ぐっと、顔と顔の距離が近付く。
「アンタ、生きてたら助けに行くだろう」
何を言われているのか、一瞬分からなかった。理解したく、なかったのだろうと思う。
「そうされちゃ困るんだ。だから殺した」
「な…に、を」
「アンタは一瞬で助かるか助からないかが判断出来る。死んでるか死んでないかも。でも、それでも、そいつが生きてるなら少しでも延命させようとする」
例えその延命が辛いものであっても、殺してやるなどの甘い考えは持っていない。ある意味ひどい人間だ、と尾形さんは続ける。僕は否定出来ない。それは図星だからというよりは、尾形さんに知られていることを僕は知っていたから。
だって、尾形さんは見ている。僕がその判断を下すところを。
「だからちゃんと殺した。アンタが、センセーが何処にも行かないように」
視線を合わせていられなかった。思わず落としても尾形さんは特にそれには触れない。けれども逃さない、とでも言うように言葉を続ける。
ずっと、用意していたのだろうか。ずっと、探していたのだろうか。僕が脱走患者を捕まえた日から。自分が脱走する日のために、その計画にどう考えても邪魔な僕を、どうするべきか。
―――殺せば、簡単だっただろうに。
呆然と思う中で、殺されなくて良かったとは微塵も思えない。
「流石のアンタでも死体に縋り付くような真似はせんだろう」
アンタが、それを、アンタに許さないことを、俺は、知っている。
息が止まりそうだった。
実際止まっていたのかもしれない。尾形さんの手が背中に回って、とんとん、と叩く。まるで幼子をあやすように。いつか僕が赤子にやってみせたように。
とんとん、と。
顔を上げると、尾形さんはもう笑っていた。
「熱烈な告白だとは思わんのか?」
「………流石に、思えるほど余裕ないですよ」
僕にはまだ、笑えるだけの余裕もなかった。
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