俺の当初の目標は、特に問題なく外に出ること、だった。国はともかく、王宮にずっといるのは困るだろう。俺には何も出来ることはないし、タダ飯食らいになってしまう。けれどもこうなってしまった以上、俺が此処から出るには俺の身の潔白を証明しなくてはならず、俺にはその方法が思いつかなかった。
 朝起きて、食事を摂って、ジャーファル様のところへと顔を出す。昼食を摂って、また政務室に戻って、夕食の時間になるまで其処にいる。何をするでもなく、ぼうっとしているのは身体にも頭にも悪かったけれど、俺にはどうしようも出来なかった。何せ、俺は今ひどい不審人物なのだ。身の潔白が証明出来ない以上、大人しくしているしかない。夕食のあとは部屋に戻って、外に出ないように部屋に鍵をかけられる。それについては厳重だなあ、と思ったくらいだった。部屋から自由に出られなくても困ることはなかったし。
 シンドリアでは、監視の意味も含めてほとんどジャーファル様と共に過ごしたと思う。読み書きなんかを覚えたのはジャーファル様が教えてくれたからで、あれは絵本すら満足に読めなかった俺を憐れんでの特例だったのかもしれない。…憐れんで、というには鬼のような指導だったのだけれど。私だって暇じゃあないんです、と言われればそうだろうな、としか思えなかったし、俺も俺で読み書きくらいは出来るようになっておいた方が良いだろう、と思ったので必死になった。その成果あって今は読み書きで困ることなんて何もないのだけれど。
 読み書きが出来るようになってからは、図書館への立ち入りも許可されるようになった。勿論、好きなときに好きなだけというわけではなく、毎度毎度ジャーファル様が一筆書いてくれるようになったというだけ、なのだけれど。正直やることのなかった俺には随分な娯楽だったし、まだ簡単な絵本程度しか読めないものの、知らない物語ばかりで境遇を忘れるくらいには没頭出来た。時折知っているような話に巡り合っては、どんな世界でも同じような話が出来るんだな、と懐かしく思うようなこともあったが。
―――特別、
未練があるわけではなかった。家族もいなければ、友人もいない、大切なものだってなかった。小説やら漫画やらはそこそこ読む方だったから、続きを読めないのはまあ、悲しいと思えば悲しかったかもしれないが、未練というほどのものでもなかった。
 だから、と繋げるのもなんだけれど。
 懐かしむことはあっても、帰りたいとは思わなかった。読み書きを覚えるのに必死になったのも、それがあるような気がした。自分のことなのに曖昧だったけれど、当時はそこまで考えていなかったのだ。否、考える余裕がなかった、の方が近いのかもしれない。
―――こんな、
自分の持っている常識が、ほんの一欠片程度しか通用しない世界でも。
 俺は、死にたくないと思える程度には、生き汚かったらしいから。

 図書館に向かうのは本当に数少ない娯楽だった。本を読むこと自体もそうだが、基本的に外を歩き回るのが好まれない俺にとっては、窓から見える建造物だとか雲の様子だとか、行き交う人々、果ては廊下の装飾までが面白くて仕方なかった。これまで生きてきてそこまで勉強してこなかったことを、悔やんだのはきっとこの時は一番だろうと思う。
 真っ白なタイルが続く廊下。どんな石で出来ているのか分からなかったけれど、傷も少なくて頑丈なのだろう、ということが伺えた。革製の靴が主流なのもあるだろうが、だからと言って金属の重い鎧を来た者が来ないわけでもないだろう。不思議だなあ、とのんびり歩いていると、後ろからぱたぱた、と足音がした。
「あ!」
王宮内でも走る人がいるんだなあ、と思っていると、角を曲がってきたらしいその足音の主が声を上げる。
「ヨナ! いた!」
名前を呼ばれて、驚いて振り返ると、息を切らせたヤムライハ様がいた。
「ヤムライハ様」
「探してたの!」
何の用だろう、と思っていると走って近付いてこられた。と、思ったらそのまま両手を取られた。此処にシャルルカン様がいなくてよかったな、とだけ思う。剣の錆とかにされそうだ。
「あのね、ちょっと調べたいことがあるんだけど…来てくれる?」
「え」
ヤムライハ様のお願いであれば俺に断る理由はない。ない、というか断る権限がない、でも良かったが。ただ、ここで俺が勝手に頷いてしまったら、ジャーファル様の監視から勝手に外れようとした、というふうに受け取られないだろうか。ちょっと俺の判断にはいろいろと余る。
 俺が渋っているのがどう見えたかは知らないが、ヤムライハ様は肩を竦めて、だめかな、と問うてきた。上目遣いもプラスされたそれは正直、たいへん可愛らしかった。あんまり男に、というか現在怪しさナンバーワンの男にやるべき仕草じゃあないと思う。俺はそれをどう伝えるべきか迷って、迷って―――放棄した。
 代わりに、渋った理由を言うことにする。
「ええと、ジャーファル様に…」
「あ、そっか! 伝えておかないとね」
ピュイ、と音がした。え、と言う間もなくヤムライハ様の手のひらから蝶のような光が飛んでいくのが見える。それを目で追っていると、取られたままだった手が握られて、引かれる。
「これで大丈夫!」
「あ、えっと…? 今のは…?」
「私の声を風に乗せてジャーファルさんのところまで飛ばしたの! ヨナはちょっと借ります〜って言ったから、怒られたりはしないと思うわよ!」
「あ、はい…それなら、大丈夫かと思います…」
そういえば、魔法らしい魔法は落ち着いてから初めて見たな、と思った。最初の時はあの高度を浮遊させられたのもあって、普通に気絶したし。慣れていない人間が思ってもいない高度から急降下すると意識を失うんだな、と半ば他人事のように思ったくらいだ。
「ふふ」
 手を繋いでいなくてもちゃんとついていくのにな、と思いながらそのままにする。いちいち言うのもなんだが違うように思えてしまって。そんな俺の様子にかは分からないが、ヤムライハ様が笑う。
「ヨナでも、ジャーファルさんが怖いのね」
「あー………はい」
そうではなかったけれど、まあ大まかに言えばそういうことになるだろう。俺が怪しい動きをしたらすぐさま殺されてしまいそうだし。というか、ジャーファル様が監視を買って出たのだってそういうことだろうと思っているし。
 ヤムライハ様は気にした様子もなく、暫く笑ってから、そういえば、とまた指先に蝶のような光を集める。さっきの見間違いじゃあなかったんだな、と思って見遣ると、また嬉しそうに笑われる。普通に可愛いので勘弁して欲しい。
「ヨナにはこれが見えているの?」
「え、あ」
問われてから、しまった、と思った。本当に蝶の形をしてるんだな、とか思っている場合じゃなかった。でも、ここで否定するのもおかしいだろう。素直に頷く。
「………はい」
「そうなんだ! なら、魔法使いの素質があるのね」
普通不審者にそういう素質がある、と分かったら警戒するものじゃあないのか。
 そうは思ったけれど、あまりにも嬉しそうなヤムライハ様に俺が何を言うのも忍びなく、無難にそうなんですね、とだけ返しておいた。



















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