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 ヤムライハ様に言われたからではない、決してない。
 そうやって唱えながら、俺は最初から登録されていたその名前を呼び出す。時刻は夜八時、俺の感覚に照らし合わせるとこの時間はもう退勤していていいものだが、残念ながらこの世界に労働基準法というものは存在しない。シンドバッド様でもそういうのは思わなかったんだなあ、と思う。寧ろ、働かなければいけない時に働かないなんて! と言い出しそうだった。そうやって考えると、ブラックの神様か何かなのかもしれない。これだけ一気に世界を変えた人に対しての言い草じゃあないけれど。ちなみに俺はちゃんと時間労働制にしている。従業員の多くがこどもなので、一日五時間が目安だ。忙しいときもあるけれど、出来るだけ残業はないようにしている。ゾーダン石の生産速度を絞ったのもそのためだ。まあ、付加価値を高める意味も、環境保護の意味も勿論あるが。
『はい』
疲れ切った声での応答がある。自分で思うのも何だけど、これ多分仕事の連絡だろうと相手見ないで取ったな、と思った。しかし、このまま黙っているわけにもいかない。挨拶、名乗り、用事は…結局思いつかなかったのでとりあえず今はおいておこう。
「あの、ええと、こんばんは。ヨナです」
『ああ、ヨナ………』
いち、に、さん。ジャーファル様の脳内で検索が終わるのを待っている。俺の名前はそんなに珍しくもないものだったけれど、それはもといた世界の話だ。こちらの世界では、正直珍しいだろうな、と思う。まあ、疲れている人間にはそんな理論通じないし、それにきっと、ジャーファル様も俺が連絡してくるなんて思ってもいなかっただろうし。
 俺は、作ろうと思えば用事を作ってパルテビアまで出てくることは出来たのだと思う。実際、新しい世界の中心はパルテビアだったのだし、幾ら此処がレーム属州の片田舎とは言え、ある程度稼いでいる商会の責任者がやることなんて、それはもう、思いつかないのが難しいほどには思いついた。
―――なのに、
思う。俺は、ジャーファル様に連絡するためのそれらしい理由一つ、思いつかないのだ。この差は何だろうな、と思う。パルテビアに出向くこととジャーファル様に会うことは、必ずしもイコールではないからだろうか。何の連絡もせずに行ったところで、俺はよくてジャーファル様の働いているところを見ることが出来るか出来ないか、そんなところだと思う。
 ジャーファル様に。
 俺が、何か働きかける、ことになるからかもしれなかった。少しずつ、まるで様子を見るかのようにジャーファル様が動いてみせるのを、俺は待っているだけでいれば、もしかしたら俺の懸念事項なんて越えてしまって、そうしたら俺は逃げ出すことも、誤魔化すこともなく、ジャーファル様に向き合えるのかもしれなかった。…全部、ただの言い訳と言われればそれまで、だけれど。
『………え?』
脳内検索が終わったのか、小さな声が漏れ出た。
「こ、んばんは…」
『え、えっ!?』
次に叫び声が上がったかと思ったらそのまま落下音がした。何かが落ちる音ではなく、多分、通信機が落ちる音。大丈夫なんだろうか、これ。魔法道具なので核さえ壊れなければどうとでもなるとは知っているけれど、ヤムライハ様のデザインで貝の形をしているし、普通に落としたら尖ってるところとかが欠けそうだ。
『えっ、はっ!? えっ、夢!?』
「現実です」
こんな反応をされると何かとんでもないことをやらかしてしまったような心地になる。まあやらかしたに入るのだろうが。あれだけ唱えたにも関わらず、ヤムライハ様の所為にしてはいけないだろうか、なんて思った。
『ヨナっ!?』
「はい…ヨナです…」
 ここまでで恐らく五分とか経っている。今日は早めに切り上げよう、と言って、自室に戻ってきていてよかった。こんなぐだぐだな会話、誰かに聞かせるものじゃあない。商談であればまだしも、こんな毒にも薬にもならないもの。いや聞かれたくないのとは違って。
『な、何かあったんですかっ!?』
「あ、いえ…別に用とかはないんですけど…」
『ちょ、ちょっと待ってくださいっ! 部屋を移動します』
「そういうことはしなくていいですっ」
『させてください!』
がたがた、ばさばさ、と絶対何か崩れる音がした。部下だろう人たちの驚く声も聞こえる。すみません、俺だってどうかと思っているんです。そう心の中で謝りながら、ジャーファル様の移動が終わるのを待つ。部下の人たちに、何か緊急の案件が来たと思われていないといいのだけれど。無理だろうなあ、と思いつつ俺はそんなことを願う。もし俺がそんなことをし始めたら、多分従業員たちは何事かと思うだろうし。まあ俺は別にジャーファル様から連絡が来たところでそんな反応はしないだろう、と言えるけれど。今はそういう話ではないのは分かっている。
 ばたん、と扉の閉まる音がして、それからはあ、とジャーファル様が息を吐く音がした。それはため息などではなく、未だ現実が信じられないような、そういう浮き立った音に聞こえてしまったのは俺が悪いのだろうか。妙に胸の辺りが浮ついた心地になるのは、きっとジャーファル様がそう思っているだろうと俺が想像しているからだ。引っ張られるな、と思うのにどうにも身体は言うことを聞いてくれない。せめて悟られなければいいけれど。目の前にしているのではない、通信機越しなのだからそれくらい出来るだろう、とは思うけれど、この通信機、魔法で動いているからか、もといた世界の電話よりずっと、やけに高性能だった。困る。いや、何も困らないのだけれど今だけは困りたかった。電話というのは一度声がそのまま伝わっているのではなく、一度電子音に分解されたものが再構築されて聞こえているだけなのだと、そうやって聞いたのは何処でだっただろう。俺はそこまで頭が良くないのでそれが本当か嘘か分からないが、もし本当であれば、この通信機だって同じはずだった。詳しい命令式については知らないし、教えてもらったところで理解は出来ないのだが、きっといつかヤムライハ様がやったように、声をそのままルフに託して飛ばすのとは違う。声、音、その他諸々を記録して、タイムラグなしに通信機の向こうへと打ち出す、そういう仕組みのはずだ。何が言いたいかと言うと、魔法であろうが高性能に聞こえようが、これは別にジャーファル様が直接言っているのでは、ないのに。
 俺は、一体何を落ち着かないでいるのだろう。
『ほ、本当に用事もなく、連絡してくれたんですか…?』
「よ、用事を、考えようと思ったんですが、その、思いつかなくて」
『別にっ、いいんですよ!? 用事なくても!』
「俺が気になるんです! いやっ、その、結局連絡、してるので、何を言ってもなんですが…」
もう何が言いたいのか分からなくなってきた。でも、それはジャーファル様も同じらしい。
『ええと! ………元気ですか』
「そ、それなりに。…ジャーファル様は?」
『私も、それなりに。………あはは、いざ話していいとなると何話せばいいのか分かりませんね…』
俺が誤魔化そうとしているときに、先にそうやって素直に言わないで欲しい。俺がどう出て良いのか分からなくなる。
 しん、と言葉がなくなったのに、どうしてか通信機の向こうにジャーファル様がいない、とは思わなかった。僅かな呼吸の音も、通信機が拾ってしまうからかもしれない。どうにもならなくなって、ソファの上に膝を引き寄せる。革製の靴にはもう慣れたと思っていたけれど、やっぱり部屋の中でまで履いている気にはなれなかった。
『…その、』
「はい」
『先程元気かと聞きましたが、元気なのは知っていました』
「え、っと…そう、ですか…?」
『ヤムライハとは、よく連絡を取っていると聞いていたので…』
なるほど。ヤムライハ様からそのまま漏れていたのだろう。まあ、俺だって俺の状況を秘密にしてくださいとは言っていないのだし、別にいいけれど。しかし、ヤムライハ様だって直接ジャーファル様と連絡を取るのは難しくなってきた、なんて言っていたのに、そんな貴重な時間を俺の話題に費やしてもいのか、とは思った。だって、それこそヤムライハ様は理由があって連絡しているのだろうに。
「魔法道具の実験に付き合っているだけですよ。あと、いろいろと…恩もありますし」
『………私、だって』
 むう、と頬を膨らませられたのが、見えなくても分かった。そんなこと、分からなくてもいいのに。
『きみに恩を売っていいのなら、幾らだって売れるんですけど』
「そういう、のは…」
言葉を濁す。恩。確かにそんなもの、ジャーファル様はそれこそ山ほど売りつけられるだろう。片や世界で一番大きな商会のナンバーツー、片や田舎の元・奴隷商人だ。その前に変換したって、片や一国の政務官、片や別の世界から来たことを口にしない不審者。釣り合いなんて取れそうもない。
―――いつ、だって。
ジャーファル様のくれるものは、俺の手に余る。…こんな、緩やかに、会話している、時間だって。
『分かっています。きみ、そういうの苦手ですよね』
「………苦手、というわけでは…」
『ヤムライハに付き合っているのも、彼女が恩の押し売りをしてこないというのもあるでしょう』
「…あの方はあの方で、もう少しそういうの、覚えて欲しい気もしますけど」
マグノシュタットは研究機関という体系がメインであって、商売自体がメインではないのだ。こういう世界になったからには研究機関が見放される、ということはないだろうけれど、やっぱり元手がある方が楽だろうので、俺としては何かしら取れる時に取っておいて欲しい気持ちの方が強い。自分たちが独占で売ることの出来ない魔法道具の試用実験に関わっているのは、あの人のそういうところが心配だから、というのもあって。
『あとは…』
 とかなんとか、考えていたから、ではないけれど。
『単純に彼女のことを気に入っていますよね』
「………は?」
ジャーファル様のその言葉には、思わずそう返してしまった。
『王宮にいたときも、私といるよりヤムライハといる方が楽しそうでしたし』
「いやいやいや、何言い出すんですか?」
本当に何を言い出すんだ? 通信機を持っている方とは逆の手を側頭部に当てる。何がどう、ということはないのだけれど、多分掻きむしりたくなったのだと思う。そんなことをしたらジャーファル様に確実に聞こえるから理性が働いたのだ。いや、違う。どうして俺がそんなジャーファル様の一個人的な感想を前にして髪を掻きむしりたくなんてなるんだ。
『…本当に、そう思っていたし、そう思ってるんです』
「それは、だって…ヤムライハ様は、俺の………なんて言うんですか、第一発見者、ですし」
『なら、私がきみを一番に見つけたら、今ヤムライハにしているように接してくれましたか?』
「それは………ない、ですけど」
『でしょう?』
「でも、だって、それは…ジャーファル様とヤムライハ様では、何もかもが違うからで…」
『…すみません、きみに連絡をもらえて、思った以上に浮かれているみたいです。そんな、きみに言い訳させるつもりで言ったんじゃあないんです』
ヤムライハになりたいわけじゃあないんです、と囁かれる。心臓が、ぐらり、と揺れた。ような、気がした。心臓は揺れないはずだった。少なくとも俺はそう思っている。
 だって、そんな。
 ジャーファル様がヤムライハ様に嫉妬している、みたいな。
『…あの、』
照れ隠しでもするように、ジャーファル様が笑ったのが分かった。おかしい、おかしい。通信機越しでは表情は見えないはずなのに。俺は、表情だとかそういうものがあまり分からないから、ともとの世界でだって、そこまで電話が得意ではなかったのに。
『パルテビアに、来ませんか』
「よ、用事もないのに」
『用事が必要なら作ってください!!』
今更、ジャーファル様だけは分かる、なんて言いたくなかった。
『観光案内くらい、出来ます』
「…本当ですか?」
『ほ、本当ですっ!』
「本当の、本当ですか?」
『…ッ、私だって、観光名所くらいは抑えてますってば…!』
 そんなふうに言われてしまえば、じゃあ確かめに行くしかないですね、なんて俺が返してしまったのも、仕方のないことなのだろう。




















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