幸福の定義について



 最近とあるカフェに通うことが増えた。実のところ外に出るのはあまり好きではなかったし、最初もそのカフェに行ったのはただの偶然で、だからと言って家や職場から遠いという訳でもなかったから、今も通っているのだけれど。本を読んでいるようなふりをしつつ頼んだコーヒーを飲みながらその時を待つ。毎回それが成功する訳ではないけれど。
 ページをぱらりとめくった瞬間に、あ、来た、と私は思う。
 痩身の男。記憶と少し変わったように見える男。彼を遠目に眺めることが、最近の私の楽しみだった。と言っても、顔が好みだった訳ではない。私は彼のことを知っていて、それでたまたま見かけたものだからもしかしてこの近くに住んでいるのでは―――もっと簡単に言うとまた見れるのでは、と思ったからこうして通うことにしたのだった。私の淡い期待はびっくり仰天そのまま叶えられ、どうやらこの近くに住んでいるか仕事をしているかの彼はよく向かいを通り掛かる。それを私は眺める。何もせずに、ただ、眺めるだけ。話し掛けるつもりもないし、彼を追いかけることもしない。けれども彼の顔を少しでも見られる可能性があるのだから、私はこのカフェに通うのをやめないだろう。
 彼と会ったのは、大学に通っていた頃のことだった。会ったと言っても、図書館で一度、たった一度だけ彼と会話をしただけ。彼はそんなことを覚えてはいないだろうけれど、その時私が読んでいた本がきっかけで幸福の定義について話し合った。
 幸福なんて非常に曖昧なものについてよく議論など展開させたと思うし、今思えば感情論入り混じったひどく稚拙なものだったと思うけれど、それでも私は楽しかった。私から見た彼もとても楽しそうに見えた。だから私はそのことを今でも覚えていて、偶然に見かけた彼をこうして眺めるに至っている。
 議論は途中で終わってしまった。あれ以上言ってもきっと答えは出なかったし、有意義なものにもならなかった。だから彼は友人に呼ばれてすぐに図書館を出て行ったし、それ以降の接触はなかった。リード、と呼ばれているのを聞いて彼がリードという名前なのを知ったくらい。その後、論文や他のもので彼が顔を出しているのを見かけて、彼がスペンサー・リードという名前であることを知った。これは学生として正規の手段で手に入れられる情報だったし、そもそも彼はその頭脳で有名だった。
 いつものように彼が通りを横切っていったところを眺め終わって、私は本に栞を挟んだ。残りのコーヒーを飲み干して、外へ出る。
 そして、息を呑んだ。
「やあ」
目の前に、彼がいた。紛れもないスペンサー・リード、先程通りの向こうへと消えていったはずなのに。
「ええと、その、僕たち、」
困ったように言葉を探しているリードを遮るように私は言う。
「幸福の定義について、」
「うん」
「今ならまだ少しマシな話が出来るかもしれない」
 言うことにかいてそれか、と思わなくもないけれど。あの議論がなかったら私は偶然彼を見かけたってこうしてカフェに通い詰めることはなかっただろう。だからきっとこの言葉であっているのだ。
「僕も、ええと、それはそう思う。そして多分昔思っていたよりもこれは有意義な対談になると思うし。それに、」
リードは後ろのカフェを指差した。
「あそこに、ほら、誰かのお気に入りのカフェもあることだし」
「…うん。あそこはすごく良いよ」
誰のお気に入りかなんて言う必要はなかった。
 前より少しだけ美しくなったスペンサー・リードを前にして、私は笑う。
「それでね、ええと、今更聞くのは失礼だって分かってるし、そもそも僕は一度見たり知ったりしたことは忘れないんだけどね」
「知ってる」
私はあの図書館で名乗らなかった。彼との共通の友人もいなかった。彼が私の名前を知ることは不可能だ。多分。
「私はシャーロット・ポップルウェル」
「ポップルウェル」
「そう、よろしく」
手を差し出すと彼は薀蓄を述べようとして、それを飲み込んだらしかった。
「僕はドクター・スペンサー・リード」
「はい」
「よろしく」
握り返して来た手は思っていたよりも子供のようで、それがなんとなく嬉しくなって笑ってしまった。






(ああ、もう! なんで笑うのさ!)





下敷きを敷かずにできた筆跡の溝に時間の妖精がいた / 岡野大嗣


















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