イブは還らない
ブラック・クイーンというのはとても良い女だった。それはハッキングなんてものに関わる人間は殆どすべてが知っている事実で、その良い女がやはり凄腕のハッカーのものであるのはあまりに当たり前のことだった。手を出そうなんて思っていたことはなく、ただ彼女の構築したものを見ていることが出来るだけで、幸せだった。
けれどもそれもすぐに崩壊が始まる。
「アルゴス」
彼女が小さく、まるで助けを呼ぶように一度だけ呼んでくれたことがあった。ギリシャ神話の巨人の名前。辞書を開いてみたページに載っていただけの、縁のない名前。それでもあの時ほどそれになりたいと思ったことはなかった。百の目があれば彼女をずっと見守っていることが出来るのに、死角など何処にもないのに。
それから少しして、彼女が捕まったと聞いた。そのまま表の仕事を任された、と。わざとだ、と思ったのを彼女に直接伝えることはもう出来なかった。
そうして年月は過ぎ、まさか彼女がまた目の前に現れるとは思わなかった。それがシェーンが引き込んだ事件だったことも驚きだった。
「ノーラン」
シェーンを乗せた救急車が行くのを結局見届けて(いろいろあって結局協力したようなしてないような感じで現場にいる羽目になったことは違う話なのでおいておく)、突然彼女が振り返って俺の名前を呼ぶものだから更に驚きだ。別に本名を突然呼ばれたことにではなく、彼女に呼ばれたことに驚いた。彼女にとって俺はアルゴスでしかないと思っていたから。付き合っていたシェーンとは違う、ノーラン・ポップルウェルは彼女の人生に登場しないのだと思っていたから。
「ああ、えっと、こっちの名前で呼ぶのは初めてだよね。…アルゴス」
「いや、ノーランで良いよ」
「うん、そう言ってもらえると助かる。あのね、ずっとお礼が言いたかったの」
「何で?」
「だって、貴方だけだったから。私が就職した時に、本当に何も仕掛けてないお祝いメールくれたの」
「そんなことないだろ」
「ううん、そんなことあるの」
何かの間違いだよ、と言う。努めて優しく。
「ううん、貴方が信じなくても、否定しても、私はそうだって思い続けるから。あと、ついでにどうでも良いかもしれないけど私のお守りの写真見てくれる?」
「お守り?」
「そう、お守り」
彼女がきらきらさせた携帯を取り出して、そしてスライドで呼び出した写真は。
「クジャク。可愛いでしょう。これね、ずっと私のお守りなの」
「…ブラック・クイーンには少し地味じゃないか?」
「そんなことないし、私はもう、ブラック・クイーンから羽化したから」
クジャクちゃんにね、と言う彼女に、クジャクで派手なのは雄だと言うべきか言わないべきか迷って、彼女の後ろにいた彼女の仲間と顔を見合わせてしまった。
(雄だと言うのは彼が言った)
喉元にカッター
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