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痛みと熱の中で意識は彼岸と此岸を行ったり来たりしているような心地がしていた。勿論比喩である。あのまま雪の中にいたら死んでいただろうが、こうして救出され意識を取り戻したあとであればそう死ぬような傷でもない。痛みはあるが、こうして治療を施されている中で死に至ることもないだろう。身体中で痛みがひしめき合っているし確かに一度は死ぬと思ったし実際死にかけていたとは思うけれども、今は顎の痛みが目立つくらいで死にそうではない。銃が握れない間に自分の技量がどれだけ落ちるかということを考えるとひどく腹立たしいが、腕にも指にも異常はないようなのでなんとかなるだろう。
尾形百之助上等兵がこうして此処で熱に魘されているのにはのっぴきならない事情があるのだが、その事情については尾形の顎が砕けているために正しく伝えることが出来ないでいる。誰かがあの後杉元を追ったのか、戦友などという甘い言葉とその団結に甘んじる精神に殉じたものがいるのか、重傷である尾形には余計な情報は入らない。じわりじわりとまた意識が現実から剥離していくような心地がして、深い眠りに落ちようと最後の手を離そうとした時。
「兄様」
その声だけがやけにはっきりと聞こえて、思わず痛めていない方の腕を動かした。
腹違いの、祝福された弟亡きあと、尾形をそのように呼ぶ人間はただ一人しかいない。尾形に腕を掴まれたその人はふ、と笑ったような気がした。
「おや、生きていらっしゃったのですか。兄様」
「…、」
「分かっておいででしょうが顎が砕けているのです、尾形上等兵。小言は全快してから聞きましょう。しかし規律規律と可笑しな方でいらっしゃる」
どうして此処に、と思う。彼はそもそも別の師団所属のはずだった。尾形の疑問を嗅ぎ取ったかのように男は実は、と言葉を続けた。
「淀川中佐から連絡を頂いたのです。以前お話ししたことを覚えていてくださったようで」
恐らく尾形が最後に見たのと寸分違わない表情をしているのだろう、彼はまるで尾形に、お前は自由に身体を動かすことすら出来ないのだ、と突きつけるように丁寧に指を一本一本外していった。その優しい手付きの意図が分からずに唸ってみせると、別に取って食ったりはしませんよ、と彼は言った。そんなことを心配しているのではない。
―――岳中翔人少尉。
今は亡き、花沢勇作少尉の幼馴染。その能面のような無表情は愛に満ち溢れて育ったのがよく分かる花沢少尉の横では違和感が大きかったはずなのに、二言三言交わしてすぐにそんなことを忘れたのはどうしてだったか。花沢勇作の印象が強すぎた訳ではない。ただ―――ただ、そうだ、尾形を真っ直ぐに見つめてきたその瞳の中に、花沢勇作と同じような光を見たから。ああ、この男も花沢勇作と同じ種類の人間なのだ、と一瞬で把握したのだ。そもそも最初から、同じ種類の人間でなければ彼の隣に立っていることなどなかったのだろうが。
尾形と岳中の接点は花沢勇作のみで、その接点がなくなったこの数年、顔を合わせることもなかったはずなのだが。話をしたというのは一体何なのだろう。岳中が尾形について何を話すというのかまったく想像もつかない。友人の腹違いの兄だ、なんてことを積極的に言うものだろうか。尾形は自分が父親からないものとして扱われたのはその出自故だと思っていた。母親は浅草の芸者、父親は近衛歩兵、外聞が悪かったから。花沢勇作のような類まれなる高潔さは凡百には備わっていないものなのだと思っていた。
「大したことは話していないのですよ」
やはり岳中は思考を読むようにして言葉を続ける。
「大切な友人であった花沢が、尾形上等兵をとてもとても敬愛していたのだと、そう言っただけです」
それの何処がだけ≠ネのか。そうは思えど誰だって知っているようなことを今更言葉にされたところでそれが何になるとも思えない。
さて、と岳中は立ち上がる。尾形には数分に感じられたが本当はもっと時間が経っていたのだろうか。
「そろそろ行かねばなりません」
本当は用事があってこちらへ寄ったのです、と岳中は聞いてもいないことを呟く。他に誰かいるのだろうか。気配は分からない。
「また近いうちに会えると良いですね」
―――兄様が早く良くなりますように。
手の甲をするりと滑った指先の、でこぼことした引っ掛かりが存在の証明のようで。
それが久々の再会の記憶だった。
デフォルトネーム読み方
岳中翔人(たけなかしょうと)(ドラッグ表示)
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