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いつもは無表情である顔が尾形を見た途端に少し、ほんの少しだけれどもほころぶのを見てしまえば回れ右をして逃げるという行為は選択出来なかった。相手に見つかっているのが一目瞭然だからである。
「おや」
白々しく男は近付いて来て、尾形に声を掛けた。
「奇遇ですね」
何が奇遇か。反射で返そうとするのを一旦飲み込んでも、結局返す言葉は同じようなものにしかならない。
「何が奇遇ですか。―――岳中少尉殿」
「その呼び方はやめてくださいと、何度も言ったような気がするのですが、兄様」
「自分からも何度も申し上げたように規律が緩みますので」
「脱走した身で未だ規律にこだわるとは、やはり貴方は可笑しな方だ」
やはり知っていた。舌打ちしたいのを堪える。どんな人間であっても彼は尾形よりも地位が上なのだ、例え細かい所属が違っても。
まだ熱に魘されていた頃に一度見舞い――ーあれが見舞いと呼べるかはさておき、病室にやって来ただけで、その後は一度も岳中は病室には顔を出さなかった。自分が回復したのを確認した尾形は、岳中を待つ理由などないのでそのまま病室を抜け出し、二階堂を連れて谷垣の口封じへと向かった。尾形が重傷を負ってから山に入った面子を聞いて、生き残っているのであれば谷垣だろうと当たりをつけたからだった。かくしてその予想は当たった。
当たったが、一度は逃げられその後やりあっている中で鶴見中尉に追手を掛けられ、殺害が叶わず逃げ遂せたのはそう前のことではない。
このまま二度と、会うことはないのだと思っていた。彼があのあと、一度も顔を出さなかったことを恨んだことはない。恨むような間柄ではなかったし正直二度と来るなとも思ったし、そもそも所属が違うのだからそうホイホイ顔を出せるようなことはないだろう。彼だって少尉なのだ、自身の仕事もあるだろうし新任ではないと言えども教育係としての補佐もついていることだろう。もしかしたら尾形のところへ来たことでその補佐にとんでもなく叱られたのかもしれない。叱られろ、とすら思う。
「何故、此処が?」
「厳密な計算があった訳ではないのです。ただ、噂を聞いたものですから、もしかしたら兄様もこれを追い掛けているのではと思ったのです」
馬鹿ではないことは知っていたが、こうして自分に関連することで発揮されるとまた少し微妙な心地になる。もっと他に発揮する場所があっただろうに。
「軍は、どうしたのです」
「事実上の除籍、とでも言えば良いのでしょうか」
何を言っているのか。尾形は目眩のする心地だった。そんな言い訳が尾形に通用するとでも思っているのか。
「母が亡くなりましたので家に戻ることになっております」
長期休暇です、と言われても素直に頷けるはずがない。
とはいえ、彼の家の事情も尾形は知っていた。不出来な兄に、優秀な弟。よくある話だ。家のものは優秀な弟にすべてを託そうと画策したものの、弟はそういったことにとんと興味がなく、なあなあのまま押し付けられたようになり、その一人息子もそれを受け継いだようにのらりくらりと生きている。
「なので正しくは既に少尉ではありません」
捨てられたようなものですからね、と言う彼からは悲しそうな気配は微塵もしない。まるでふざけて言って見せたので尾形が笑うのはいつかと、待っているような。
岳中が軍や軍人であること自体に執着がないことは分かっていた。
「貴方のことを兄様と呼んでも何ら可笑しくはない立場になりましたね。ただの元・お偉いさんの一人息子になったのですから」
軍に入ったのも祖父の薦めであり、友人である花沢勇作との付き合いもあったからだと聞いている。伯父の反対もあったようだし、本人は学者を目指したい気持ちもあったと言っていたことを覚えている。
「…父親が草葉の陰で泣いてるのではありませんか」
「まさか。あの父上に限ってそのような可愛らしい真似、してくださるはずがありません」
手を叩いて喜んでいるのではありませんか、と彼は続けた。
「家のことはどうせあの不出来な伯父がどうにかするのでしょう。母が亡くなれば口出しの出来る人間は最早いませんからね。俺に姉か妹でもいれば考えたのかもしれませんが…」
生憎一人っ子ですし、その手の駒の数では向こうの方が上です、と。確かに彼の伯父には息子が二人、娘が三人いると聞く。息子二人は岳中より年が上であり、既に中央へと手を掛けているのだとか。
もしも岳中翔人が鶴見の邪魔になりそうな素振りがあればもう少し情報が手に入ったかもしれないが、良くも悪くも岳中も彼の伯父にしても鶴見にも金塊にも関係のない部分であった。まるで鶴見を頼るような言い方は気に食わなかったが、それでもあの男の手腕は認めているのだ。そこに嘘を吐いても仕方ない。
「…此処へは何のために」
「貴方を追い掛けて」
やはり、と言葉を探す尾形に、岳中はああ、と続ける。
「捕まえるためではありませんよ」
なんでもないような言い方だ。もっと安心しろと全面に押し出された方が心おきなく疑えるものを。やりにくい。
「そもそも貴方のところの中尉…鶴見中尉、でしたか? あの方とは特に交流もありませんし」
「…なら、何故」
簡単な話ですよ、と岳中は神妙に頷いた。ここは笑うところじゃあないのか。
「貴方のことは大騒ぎになっていましたからね。すぐに中尉殿が静めましたが、あの場にいた者は貴方のことを知っているでしょうね。第七師団の者であれば知らない者はいないだろうと思います」
「…貴方は第七ではないでしょう」
「その通りですが、丁度俺が二度目の見舞いに行ったら貴方がいなくなったと病院中が大騒ぎで」
お医者様は大層ご立腹でしたよ、と岳中は続ける。
「お怪我の方はもうよろしいので?」
「………はい」
良くはなかった。完全に完治する前だったからこそ病院を抜け出すなんて騒ぎになったのだ。それでも聞かれたからには尾形は答えるしかない。
岳中は嘘ですね、とは言わなかった。言わなかったがすべてが本当だと信じたのだという感触もなかった。今までどおりだ、とも思う。腹の中を見せない、男。
「兄様」
そのくせ甘ったるい様子でその呼び名を使う。やめろと言っても聞かない。脳みそが詰まっていないのかもしれない、と思えれば良かったのだろうか。
「ご一緒してもよろしいですか?」
ここで断っても着いてくることは明白だった。何度も何度も断るよりかは一度受け入れて、何かと理由を付けて振り切る方がきっと良いに違いない。
「お好きなように」
笑うことも忘れていた。睨み付けるような形になったと思うが、岳中は何も言わなかった。やはり分かりづらい笑みをふわりとその頬に浮かべて、岳中はありがとうございます、と尾形の横へと立った。
そしてそれまでの遣り取りが一切合切嘘だったかのようにするりといつもの無表情に戻った岳中を見て、ただ浮かんできたのは面倒だな、ということだけだった。
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