序話
その日、安辺もえぎは金兵先生に呼び出されていた。話の内容なんて分かっている。もうすぐ女学校を卒業するというのに、まだ就職先も決まらないままでこの先どうするつもりですか。孤児院には高等学校を卒業した人の面倒を見る余裕はありませんよ。就職先の選り好みなんて貴方、出来る立場ですか―――云々。もう耳にたこが出来るほど聞いた話だ。そして更に付け足すのならば安辺とて何も考えていない訳ではない。とは言え金兵先生の紹介してくる職場はあまりに野暮ったくて新鮮味にかけるため、このままでは安辺もえぎの魂は死んでしまう! とそんなことを思うのだ。勿論、金兵先生の言うこともちゃんと分かっている。この田舎で生きていくにしろ、何処か少し離れた町に出て行くにしろ、就職先を早めに決めてしまわなければ苦労するのは目に見えている。金兵先生は口うるさく少し時代遅れではあるが、それでもこの孤児院の子供のことをちゃんと考えている人なのだ。
でも、先生の紹介先はつまらなそう、なのよねえ。
それが正直なところでも。
さて、なんて言い訳をしよう。紹介される先々のことをつまらないと言ってしまえばそれこそ拳骨をもらう羽目になるだろう。ついこの間だって偉い先生方の前で読んだ作文について呼び出しをくらい、開き直ったら拳骨をもらったばかりなのだから。うんうんと言いながら悩んでいた安辺は、ふと、それに気付いた。
長い。
そう思った。
影だった。長い、とても長い影。日が傾けばその影は長くなる。そのことは分かっていたはずだけれども、こうもはっきりと目にしたのは初めてな気がした。その影は安辺の行先にいたけれども、足早にそこを去っていってしまって、慌てて駆け出してもその背中すら見ることは出来なかった。車の出て行く音がする。残念なことをしたわ、と安辺は肩を落とした。あんなに長い影の持ち主がどんな人物なのか、見てみたかったのに。そうしたらそのことだけで、金兵先生のお説教を乗り越えられたかもしれないのに。
でも過ぎてしまったことは仕方がない。そう思って大人しく金兵先生のお説教を受けに来た、はずだったのが。
「ですから、貴方を大学へと行かせることになりました」
「………ハイ?」
思わず聞き返した。
「この施設に寄付をしてくださる方が今日いらしゃいましてね」
さっきの長い影だわ、と思う。車の音しか聞き取ることが出来なかった、あの長い影の持ち主。それはどうやら偉い先生だったらしい。それを知ってしまっては更に惜しいことをした、と思った。誰の影か分かれば、次から作文を読む時にウィンクしてみせるくらいのことは出来ただろうに。
「貴方の―――あのふざけた作文を、」
「憂鬱な水曜日のことを言っているのであればあれは素晴らしいと評価を頂きましたわ」
「どちらでも良いですが、あの作文をとても面白いとおっしゃってくださいましてね。大学へやってもっと学ばせたいと」
「まあ!」
やっぱり影の正体を見ておくべきだった!
とは言え、やはり過ぎてしまったことは仕方がない。
そうして、安辺もえぎは大学の試験を受けることになり、見事合格して金兵先生を驚かせたのだった。
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