とうとうガチの弊害が出た。
 いやもう弊害と言っていいと思う。仕方ない。よくぞここまで保ったとすら思う。元々尾形さんが病院にいることで出る、特に患者さんからの不満というかちょっと怖いというような類の意見はあったのだ。それをなあなあに躱していたつけが回ってきたとは思わない。なあなあでもそこそこ成果は出ていたのだ。対策を打ち立てた僕が悪い訳じゃない。
 現在、待合室は小さな戦場になっていた。北海道の冬と比べても遜色のない状態だ。つまり端的に言って生身の人間が放り込まれて生きていける状況には見えない。まあそれを作り出しているのも同じ生身の人間なのだが。
 尾形さんと相対しているのは片脚を失くした患者さんだった。此処へはその失くした脚が痛みに疼くということで来ている。幾ら優秀な医者でも完全に失われたものを元に戻すことは出来ない。出来るのは痛みを和らげるための薬を出すことや、傷跡が化膿したりしていないか診ることくらいだ。医者は万能ではなく、神でもない。兵隊であれば施設に入るなりなんなりあっただろうが、この怪我は別にそういうものではないのだと聞いていた。大変だろう、とは思う。話がズレた。
 というか尾形さんは何で今日は待合室にいるのか。其処にいられると邪魔だからと喫煙所に押し込んでいたはずだったのだけれど。
「何故兵隊なんぞがいる!!」
一応国を守るために戦っている人間を指差してなんぞとは良いものだろうか、と流石の僕でも思う。邪魔だと言いはするもののその根幹まで否定してしまうと、揺れに揺れる世界で生き抜くことが出来なくなってしまうのではないだろうか。
 対する尾形さんは何も言わない。にこにことした顔をしているものの笑っている訳ではないようだ。ああいう顔も出来たのだ、と思う。よく知っていると思っていた訳ではないが、何だかとても奇妙な気分だ。それは様子を見ているこの病院の職員すべてが思っていたらしい。何とも言えない空気が漂う。その間にも患者さんはあれこれあれこれ罵詈雑言を並べ立てていた。尾形さんはやはりにこにこしたままだ。これ放っておいたら此処は病院だったよな、とか言って尾形さんが患者さんを銃床で殴り始めたりしないだろうか。そんなことを思ってしまった。
 見かねたのか須子先生が出て行く。院長の須子です、から始まる一番偉い人ですよ、という掻い摘んだ説明で患者さんは理解したらしい。
「どうして兵隊なんぞ置いている! 此処は病院じゃなかったのか!」
兵隊には兵隊の病院があるだろう―――厳密に区分されている訳ではないし、利用が禁止されている訳でもないが、まあこういった考えの人間は一定数いる。なかなか口に出して言わないとは思うが。そうなんですけどね、と須子先生は少し困ったように首を傾ける。
「その兵隊さんは恋の病でいらっしゃってるんですよ」
 流石に須子先生の口からそんな言葉が飛び出るとは思っていなくて危うく叫ぶところだった。すんでのところで止める。確かに僕は報告した。そういうことになりました、とは言った。でも勿論悪ふざけですので、と付け足したし須子先生は要らぬ配慮などとは無縁の人だ。だから絶対に、そう絶対に本当に尾形さんがそうであって僕が照れ隠しもしくは現実逃避でそんな報告をした、などとは思わないはずなのだ。でも、須子先生は言った。つまり、それは。
「ですよね? 伊佐早先生」
あっ、巻き込まれた。
 だろうとは思っていた。須子先生が突拍子もないことを言い出す時は突拍子もないと分かっていてその策で乗り切ろうという時だし、須子先生をはじめ此処の医者は大体顔が厳ついのでそういうことが出来る。顔に説得力があるのだ。最低なことを言っている気がする。顔が厳つくなくても大体が老年の医者なのでやはり説得力がある。でも残念ながら僕は顔が特別厳つい訳でもなければ老年である訳でもない。巻き込まないで欲しかった。けれども、尾形さんの件を報告したのは僕なので仕方ないのも分かる。分かるけれども巻き込まないで欲しかった。
 しかし待合室は空前絶後の一触触発、これ以上引き伸ばしでもしたら爆発でもしそうな様子だった。腹をくくるしかない。というかにこにこと優しい顔をした須子先生に逆らいたくない。怖いというより恐ろしい。僕がうだうだしていると誰かに診察室から蹴り出された。誰だ。
「………ええ」
待合室に転がり出た僕は至極至極真面目な顔をする。患者さんは何を言い出すんだこの医者まで、という顔をしている。僕だってそういう顔がしたい。
「僕が彼の主治医です。僕が診断しました」
「ええ…」
患者さんは先程まで怒っていたのが嘘のように気の抜けた声を出す。
「恋の病と?」
「恋の病と」
「この兵隊が?」
「この兵隊さんがです」
「………その、不幸なお嬢さんは何処の誰なんで?」
何故聞いた。
 これが本当の話であったらそれは個人的なことですので、とても美しい方ですよ、なんて誤魔化せば良かったのかもしれない。いや、僕だって誤魔化して良かったはずだ。ただ、こちらをじっと見つめる須子先生がこてんぱてんにしろと言っているのでなければ。というか相手は患者で今後も恐らく通うことが決定している人なのだけれども、こてんぱてんにしてしまって良いものなのか。
「………それが、」
「それが?」
「その………」
何が悲しくてその兵隊さんは僕に恋をしているんですよ(そういう設定なんですよ)、なんて言わなくてはいけないのだろうか。意味が分からない。しかもそれは悪ふざけという名の八つ当たりをしようとして負けたものだ。最悪なのでは?
 僕が黙っていると痺れを切らした須子先生が代わりに言った。
「その先生なんですよ」
えげつない。
「………は?」
その反応は正しいと思う。
「え、は? その、兵隊さんが恋をしている相手が?」
「はい」
「この先生、女なのか…?」
まさかそっちに行くとは思わなかった。
「いえ、伊佐早先生は立派な成人男子ですよ」
「男…なのに…?」
「まあそういう文化もありますし、恋情だって生まれましょう」
何もおかしいことではありませんよ、と須子先生は続ける。
「しかし、その思いがどうにも対処に困るものになってきましてねえ…。仕方なく、こちらに通って様子を見ているのですよ」
患者さんは暫く須子先生を見つめていた。それから尾形さん、僕、と視線を移す。
「アンタも大変なんだな…」
「いえ、」
同情のこもった言葉に僕は精一杯でにっこり笑う。
「僕は医者ですから」

 問題の患者さんも帰って待合室が空になってから。
「須子先生!!」
やっとのことで僕は須子先生に叫ぶことが出来た。実に二時間後のことである。
「君が言ったんだよ」
「言いましたけどねえ!?」
そう、言った。言ったのだ。しかしそれを言質のように扱われると僕への負荷があまりに大きい気がする。
「はは」
「ひ、他人事みたいな顔して…」
今度はいつもと同じように笑っている尾形さんに須子先生は謝っていた。まあそうするのが筋だろうとは思う。
「しかしよく堪えてくれましたね」
「…前に、そういう話をしたのを覚えていたからな」
なるほど、そのうち僕が対応すると思っていたと。それはそれでやはり僕への負荷を全く考えていない発言のような気がするが。
「面白いものが見られるかもしれないと思った」
「他人事みたいな顔してぇ…」
前言撤回、もっと悪かった。
 というか尾形さんの通院理由というのは半ばネタ的に患者さんには知れ渡っているが、このような力技的な使い方をされることについて尾形さんは嫌だとか、そういうことを思わないのだろうか。聞いてみると、
「一度それで良いと言ったからな」
尾形さんは言う。
「撤回する理由もない。それに、面白いものも見れたしな」
「他人事だと思って!!」


















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