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廊下に出るとやはり尾形さんがいた。本当に、どうして監視を続けているのだろう。最初に名前を聞き出すためにカルテどうこうとかの茶番をやった所為だろうか。あれが茶番だということは既に分かっていると思ったが、意外と根に持つ性格なのかもしれない。それか、本気にした、とか。
自分で思ってからまさか、と打ち消した。何も言わないものどうかと思うので、頬を掻く動作も加えて訊ねてみることにする。
「あー聞いてました?」
「…まあ」
思いの外低音で返された。死ぬほど気乗りがしないものを聞いてしまった、と言ったような様子、だろうか。男所帯においてこんなことはそう珍しくもないと思っていたが、尾形さんは苦手なのだろうか。それとも嫌な思い出でも? いや、それなら架空の病の時に拒否しているはずだ。僕は筋骨隆々とまでは行かずともそこそこ筋肉はついているし(だって医者は重労働だ)、どう頑張っても女性に見えたりしない他、線が細いだとかそういうこともない。元気な成人男子だ。ひげも生えている。ちなみにひげを生やしているのは若干威厳が足りないような気がするからだ。脳が高速回転を始める。我ながらなかなかに単純だと思う。とは言っても、推測は既に出来ているのだけれど。そして多分、それは間違っていない。
「どうするんだ」
「どうも何も、聞いていたんでしょう」
これでも僕は医者なのだ。
目の前に患者さんがいて、それは僕の患者さんで、働きかけをしないという理由は一つもない。
「ちゃんと断りましたよ」
短く結果だけを伝える。此処で必要なのは僕の感情がどうであるかではないと思った。じっとこちらを見つめてくる尾形さんの目はひどく真っ平らなように思える。疑っているのとは違うのだろうな、と思った。そもそも尾形さんが僕のことを信用しているかと言えばそんなことはないのだから。観察をしている。感情の在り処を、探っている。
何がそこまで気になるのだろうと、僕は問わない。探られて困る感情もないことだし、それで尾形さんの気が済むのであれば好きにしてもらっても構わない。これが他人の交じるものであれば僕だって考えただろうが、まあ当人が良いと言ってるので良いだろう、と思う。
「あのお坊ちゃんだろ」
暫くして尾形さんは納得したのか、そう呟いた。素直に聞くことにしたらしい。それは所謂墓穴というやつに近しいのではないだろうかと思うも、流石に僕が指摘することではない。
「きれいな顔をしてるじゃないか」
「まあ、確かに」
正直、尾形さんが人の顔の美醜について言及するとは思っていなかったので驚いた。
「誠実で、実直。アンタ、世話焼くの嫌いじゃないだろう」
まるでこれでは尾形さんは、僕と彼に一緒になって欲しかったみたいだ。流石に言わないけれど。まさかそんなことはないだろうと思う。指摘すればそれなりの反応が得られるだろうけれど、あまり得策ではない。
「嫌いではないですけどね、特別好きって訳でもないですよ」
「そうなのか」
「好んでいるように見えるのは、それが医者としてよくする行動だからじゃないですか」
「アンタ、そればっかりだな」
「そればっかり、とは」
「仕事のことばかりだ」
「そりゃあ…僕は好きで医者を志した訳ですし…」
首を傾げる。どうしてこんな話になったのだろう。そもそも僕が医者として行動するのは、それが就業時間であるからというのもあるような気がするのだが。いや、改めて言われてみると恐らく尾形さんが言ったのは何かしらことにつけて医者という仕事を持ち出すというか、その理念に基づいた行動や発言についてだろうし、休日や就業時間外であっても僕がそういったことをしていないかと言うと自分ではよく分からない。そもそもそんな時間は今は大抵一人で過ごしているし、観測されたことがあまりないのだ。
話がズレていることに尾形さんも気付いたのか、少し視線を逸らしてからどうして断った、と呟いた。やはり一緒になって欲しかったみたいだ。いや、なると思っていた、の方が近いだろうか。其処にある理由なんて単純で人間味のあるものしかないのに、尾形さんは一体どんな答えが欲しいんだろう。
「穴があれば良いというものでもありませんからね」
わざとあけすけな言葉を選んでみたものの、尾形さんは別段反応しない。ただ、僕がはぐらかしてみせたことはちゃんと伝わったらしい。ため息が落ちる。別段聞かずとも困らないことだろうに。
「…どういう奴が好みなんだ」
「まさか尾形さんにそんなことを聞かれる日が来ようとは!」
「聞かれると思っていたくせによく言う…」
諦観というには悲哀に満ちていないその言葉に僕は笑って、あまりの可笑しさに笑うしかなくなって、そうしてその笑いに彩られた声のまま、言う。
「尾形さんみたいなひと」
尾形さんがこちらを見るのがひどく、ゆっくりに、見える。
「そう言ったらどうします?」
その顔を見て、ああ、予想していたな、と思う。まあ別に驚かせるためにやっている訳ではないので良いけれど。
「男を抱く趣味はないんだが」
「あ、僕、出来たら抱きたい方です」
流石にこの返答は予想していなかったらしい。僅かに瞠目する尾形さんを見て僕はしてやったりと思った。そんな感情の動きが手に取るように分かったのだろう。
「―――試させてやろうか」
尾形さんの手が伸びてくる。このまま放っておいたら壁に押し付けられるだろう。この人、此処が廊下だったこと忘れてるんじゃないだろうか。ついでにまだ部屋の中では僕が振った青年が泣いていることも。いや、後者に関しては僕も同じなので強くは言わないけれど。さっきの彼がどうして僕のこと好きになってくれたのかは分からないけれど、基本的に僕は優しくはないのだろうなあ、と思う。他人事だ。優しくなりたいかと問われたら答えは否、なのだし。
いや、今はそんなことよりもまず目の前の対処だ。正直興味がないと言ったら嘘になるけれど、僕は恐らく尾形さんがぴたりと止まる言葉を知っている。
「気持ちもないのに?」
予想通り、尾形さんはぴたりと止まった。
本当に僕の言葉で時が止まったみたいにぴたりと止まった。
主導権を奪い返しているこの短い時間のうちに、僕は用意していた言葉をさらさらと綴る。
「いや、まあ僕は実のところそんなに気にしないんですけどね。一晩だけの関係とか。それなりに良いモンですよ。ちゃんと物事を整理すればなかなか問題なんて起こらないモンですし。でも、尾形さんはそうじゃあないでしょう」
尾形さんにさっきしたような言葉遊びをするつもりはなかった。
「尾形さんは、そういうの、嫌いでしょう」
静寂ですらなかった。どちらも何も言われていない、言っていないといった様相でただ、止まっている。固まっている訳でもない。僕の様子に先に動いたのは尾形さんだった。多分、僕がこのまま結構長いこと譲らないと察したのだろう。
「…さっきの奴が一晩だけと言ったら、頷いていたのか」
「まあ、可能性としてはあったかもしれませんねえ。気持ちが誰かに向いていなければ」
「今は、断ると」
「まあ、そうですね、はい。そこまで器用じゃあないですし」
それに、と僕は続けた。
「先生は患者さんのことをしっかり見ているものですよ」
そういう話だったでしょう、と笑ってみせるとやっと尾形さんは動き出す。離れていく。距離が開く。
「…アンタ、嫌な奴だと言われたことはないか」
「残念なことにそんなに」
ご期待に添えずに申し訳ありません、と言ったら苦虫を噛み潰したような顔をされた。
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