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僕は激怒した。必ず、かの軽慮浅謀の患者を捕まえなければならぬと決意した。僕には軍事(いくさごと)が分からぬ。僕は、町の医者である。メスを握り、包帯を清潔に洗って暮らしてきた。けれども入院期間を示したのにも関わらず許可も得ず相談もせずに脱走するということに対しては、人一倍に敏感であった。
ということで僕は怒っていた。怒っていたので今日は休みますと虚児院長に直接叫んではいはい行ってらっしゃいと送り出されたのであった。対応が軽い気もするがまあ、虚児院長と僕の付き合いだ。虚児院長はなんというか、僕に対して幾らかの諦めを以って接しているのだと思う。よく言えば僕の信念を個性として認めてくれている。だから僕がどうして怒っているのか一定の理解を示してくれているし、今この時であればその考えはそこそこに正しいと判断しているのだ。恐らくこれが平時でなければ怒られるとは思うが、そもそも平時でなければ僕だってこんな怒りは抱かない。
平時だからこそ。
僕は怒りを抱くのだ。
さて、怒りの原因だが、入院が必須の患者が脱走したことである。もう何を言うまでもない、入院が必要だと医者が判断してその理由も説明して一度は患者も納得した―――ふりをしたのだ。ふりであったのをこちらも理解していたのでさて理解出来るように説明と説得を行うか、あとは入院が嫌な理由の聞き取りも手の開いている医者でやって行こうと、する側が言うのも何だが結構破格の待遇であると思う。忙しい時なんて何一つ説明せずにベッドに縛り付ける(これは比喩表現ではなく物理である)ことだってあるのだから、もっと感謝してくれても良いくらいだ。だと言うのに脱走である。これは宣戦布告に等しい。許されざる行為である。そもそも何故そんなに長く入院していたくないのかという点について話し合うことが出来れば、こちらとしても妥協案を出すことだって出来るのに口先の軽い言葉のみでそうすることこそ美徳と謳うようなすっからかんの輩にしてやる遠慮などないに等しい!
「―――捕まえました」
そうして患者の首根っこを掴んで引きずって病院に帰ってくるまで、半日も掛からなかったのである。
そもそも虚児院長が許可を出したのには僕がきっと捕まえてくるだろうと信頼されていたのもあるのだ。お疲れ様、ところでこっちの診療をちょっと手伝って欲しいと頼まれ少し席を外して戻ってくると、僕が捕まえた時には驚愕で大人しかった患者は元気を取り戻して暴れていた。やめろその傷の縫合誰がしたと思ってるんだ僕だぞ取れる。僕は怒りを顔に出さないように注意しながらとりあえず一発、机を思い切り叩いた。暴れていた患者がまた静まる。
「病院から抜け出すとは何事ですか。折角こちらが手を尽くして救った生命であるのにそうそうドブに捨てるような真似をされては敵いませんね」
よし、一旦は落ち着いた。僕が。患者さんに対して説得を行う時、頭ごなしに言ってはいけないことはよく分かっている。
患者さんはハッとして、僕に向かって喚き立てる。曰く怪我を恐れていては戦場に立つことなど出来ないだの何だの。
「完治していなくても戦場に戻るということと、今貴方が完治していないのに勝手に外へ出て怪我を悪化させることを同列に語らないでいただけますか?」
正直聞き飽きている。患者さんは絶句した。僕はそのまま、戦場にて人手が必要とされるにあたって求められる治療の程度と現在身体を休めることが出来る環境での最適と思われる治療の程度をずらずらと語ったが恐らく患者さんにはあまり伝わらなかっただろう。まあ、こちらにだってしっかりとした理論があることを知ってもらえれば。
「こちらが兵隊でないから丸め込めるとでも思っているのであればお生憎様ですね。こちとら死にゆく人間なんて多く見てきていますしそれと同じだけ恐ろしい目にもあっているんですよ。それでも医者を続けている、それをご理解いただければと思います」
患者さんは僕の勢いに気圧されたのか、はい、とだけ蚊の鳴くような声で言った。
よし、今回はよくまとまった方だと思う。ここで逆上して拳を振り上げたりする患者さんもいなくはないので良かった、と思う。病室からは拍手こそ聞こえないもののよく言ったと言わんばかりの視線を感じた。
生命を救いたくない医者というのはごく少数だ。完治というものにどう近付けていくか、日々考えている者は多い。
いつの間にやら部屋の隅には尾形さんが立っていた。この人は本当に用もないのに病院に来る。僕がこの病院に籍を移したことで尾形さんの監視業務は終わったものだと思っていたが、違うのだろうか。それとも暇なのか。何か鶴見さんはあくせく働いているように見えるのだけれど、部下である尾形さんはそうでもないのだろうか。本人に聞くのも鶴見さんに聞くのも何か違うような気がして放置している。まあ、来られて困ることは今のところないのだし。僕が部屋を出ると尾形さんも着いて来る。
事務室へと戻る道中で、周りに人の気配がなくなったところで尾形さんがおい、と呼び止めた。腕を掴まれる。というか止めなかった僕も僕だが、此処に入ってきて良かったのだろうか。普通に怒られないのだろうか。此処は所謂関係者以外立ち入り禁止の場所だ。だから人の気配がないのもあると思う。
僕は振り返り、何ですか、と問うた。尾形さんはいつもの表情である。が、いつもと同じであれば引き止めるようなことはしないだろう。
「いつかしっぺ返しを食らうぞ」
「その時は、その時ですかね」
あれは僕の医者としての信念そのものだった。どうしたって譲れないものだった。だから、もしもそれで殺されるなら、それが気に食わない者に殺されるなら、そういう世の中だった、というしかない。納得はしないけれども、仕方ないと思うのではないかな、というのは半ば他人事だ。
どうやら尾形さんはその返答が気に入らなかったらしい。ぎり、と腕を掴む手に力がこもる。そういえば狙撃の名手であるのだと聞いたことがあった。銃なんか持ったことはなかったが、まあ力は必要だろうな、とは思っている。何が言いたいかと言うと、結構掴まれているところが痛い。
「…痛い、ですよ。尾形さん」
素直に訴えてみても離されそうな気配がない。何がそんなに癇に障ったのだろうか。特に尾形さんが気にするようなことはなかったはずだけれど。
「アンタだって死ぬ時は死ぬだろう」
「そうでしょうね」
そんな当たり前のことを何故言うのだろう。
「殺すご予定でも出来ましたか」
「…まさか」
僕が目を見開くより先に他の先生が通りがかって、尾形さんは関係者でないとして追い出された。
まさか、という語が返って来たこと自体驚きだった。
何かが変わり始めている、とは思ったけれども一体その変遷の途上にある状態のことを何と呼べば良いのか、そしてそれが何処に向かおうとしているのか、僕は医者で尾形さんは僕の患者さんであるのに、僕にはまだ分からないままだった。
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