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ひどい事件・事故が起こって病院が忙しくなる時、僕という医者がまず一番最初に思うのは、どうしたら寝ないように出来るか、だった。今回も連絡が入ってからすぐ受け入れのための準備をしながら脳内を切り替える。これは叩き起こされた時も同様で、兎に角治療中は睡眠というものと無縁であるように意識の設定をする。だからこの切り替えを切っていいとなった時、それまで耐えていた眠気がどっと襲ってくるのだったが。他の医者がべちん、と気合いを入れるように自分の頬を叩くのを見ていた。家族の写真を取り出して目に焼き付けている者もいる。念仏を唱える者、念入りに手を洗う者、様々だ。その中で僕は息を深く吐いて、吸って、を繰り返していた。この辺りは人それぞれだろう。すぐにやってくる惨状に対する心構え。ただ、絶対にしてはいけないことはその場で絶望することだと思う。患者は医者を求めてやってくるのだ、そこで医者が絶望してしまっては意味がない。
医者は、医者として。求められることをしなければならない。絶望も、悲嘆も、すべてが終わったあとにしなくては、ならない。虚児院長の号令が飛んで、僕たちは一人一人動き出した。
大きな処置は終わって、あとは一人、というところまで一体どのくらいの時間が経ったのだろう。地獄だったと言われれば恐らくもっと短かったと答えるのだと思う。丸二日ほど経ったような気がする。眠っていないがそこは切り替えだった。交代で仮眠はとっているが、僕は大丈夫だと言って後回しにしてもらっていた。だって、動ける。ならば動くべきだ。
「一人の患者に群がっても仕方ない。伊佐早」
「はい」
「此処を抜けて外の患者を」
「はい」
指示に従って部屋の外に出る。窓から見える空は朝なのか夕方なのか分からなかった。
傷病者の治療の優先順位をつけることはヨーロッパでは既に導入されている制度だと聞く。けれども日本ではそれは導入されていない。赤十字国際条約で禁止されている差別的治療に当たるとして、お偉いさん方が禁止にしたのだ。傷病者に優先順位をつけるということは、単純に治療順を決めるというだけではない。治療しても無駄であると、傷病者を前にして判断を下さねばならぬということなのだ。それは生命を救おうとして医者になった者にとってはなかなかに厳しいものだった。治療を求めている者の手を振り払うために医者になった訳ではないという気持ちと、それくらい出来なければ救える生命も救えないという気持ちとがせめぎ合って、医者とは一体何なのだろうという思考にまで至る。だから一律禁止です、と言われてしまっていた方がお偉いさんの言うことだから、と何処か思考を殺しておくことも出来る。
だが、禁止されているからと言ってすべての病院でやっていないかと言うと、そういうことではないのだ。この病院でも隠語、とまではいかないものの対処は分かれている。
この部屋に入れなかったものは治療が優先されない。自然、軽傷者と手の施しようがない、と判断された者が外に集まる。それは救える生命を救うための措置だ。正しい、これ以上なく正しいと思う。
「センセー」
「………ああ、尾形さんか。すみません、気付きませんでした。寝てないんですよ」
誰が入れたのだろう、とは思わなかった。今きっと下はごった返しているはずだ。その中で既に顔見知りとなっている尾形さんが通されても正直何の不思議もない。軍服を着ている訳だし、身分証明としては充分だろう。此処は直轄の病院なのだし、まさか兵隊さんが死体泥棒などしやしないだろう。
僕はそれだけ答えて、すぐ足元にいる患者のためにしゃがむ。宙を彷徨っていた手を僕は握る。もう、目は見えていないだろう。耳も聞こえているか怪しい。それでも僕は手を握って声を掛ける。モルヒネはもう使えない。それは投与限度や在庫の問題ではなく、この死にゆく患者には使えない、という判断だった。正しい、正しいと思う。薬というのは治療というのは、この先≠ェある人間にこそ施されるべきだ。
それでも、まだ、生きているのに。
「ほら、大丈夫だよ。もう少しだ、頑張ろう」
尾形さんは助かるのか、とは口にしなかった。分かるのだろう、もしかしたら見てきたのかもしれない。
手を握っていると、呼吸の音も聞こえる。暫くしてごぼ、という小さな音がして、ゆるやかにゼロへと還っていった。手を腹の上に返してやる。こういう時に手をどう置いてやるのが良いのか未だによく分からない。布を持ってきて患者だったもの≠ノ被せてその場を後にする。手を洗いに行かなければいけない。手を洗って、次の患者の元へと行かなければ。
尾形さんはついてきた。手を洗い終わったのを見計らって蛇口を止めてくれる。今日はやけに気が利く。
「センセー」
「悪いんですけど、まだやることがあるので」
手を拭き終わった手ぬぐいを洗濯用のかごへと放り込んで、僕はさっきの部屋へと戻る。
否、戻ろうとした。
「伊佐早先生」
「うわっ」
たたらを踏む。そのまま踏みとどまれるかと思ったのに何が気に入らなかったのか足を払われた。
「えっ、はっ!?」
思い切り尾形さんへと倒れ込む形になる。
そして、思い違いでなければ抱き締められているような気がする。
「え、は…? 何…?」
理解が追い付かない。腕を引かれた、それで平衡感覚が少し崩れた、それでも踏みとどまった、足を払われた、倒れ込んだ、抱き締められた。抱き締められている。
何故。
足を払われて思わず上体を屈めようとした所為で若干腰に来る体勢だ。結構思い切り力が込められていて、うまく顔を上げて尾形さんの表情を確認することも出来ない。何があったと言うのか。今回の事故に兵隊さんは含まれていなかったはずだけれど、もしかして顔見知りでもいたのか。ぐるぐると回る思考の中、どのくらいそうしていたのか分からない。
「伊佐早先生?」
呼ぶ声がしてはっと気付く。この声は佐波(さば)先生だ。慌てて尾形さんの腕の中から抜け出そうとするも力が強い。伊達に兵隊さんをやってはいない。ド畜生。僕だって医者で毎日毎日重いもの(患者とも言う)を運んだりなんだりしているのだから、力がないなんてことはないはずなのだ。それでも負ける。ド畜生。佐波先生はとても規律に厳しくて、ついでに言うとあまり兵隊さんのことが好きではない。尾形さんが病院に来ると面と向かって暇なんですね、とか言う人だ。ちなみに尾形さんはそれににっこり笑うだけで(怖かった)答えたことはない。それくらい嫌いなのに何故こんなところで働いているのか疑問だが、そうなのだから仕方ない。
兎に角こんな場面を佐波先生に見られてみろ。この非常時に何をやっているのだと僕は怒られるだろうし、ついでに何で貴方が此処にいるんですか此処は関係者しか入れませんよと尾形さんも怒られるだろう。あまり進んで見たい光景ではない。それでなくても疲れているのに。人の争う声は余計に疲れる。そんなものを今聞いたらひっくり返る気がする。それは困るのだ。だってまだ患者さんはいるのだから。治療を待っている人がいる。僕は、医者なのだから。
とか何とか思っているのを尾形さんは華麗に無視して更に腕に力を込めた。骨がみしみし言っているような気がする。腰から背中に掛けて力を入れられている所為で息がし辛い。それでも絞まっていないのは慣れているからか、いやもうそういうのどうでも良い、ただただ苦しい。離して欲しい。声の方に無理に向けた首も結構痛い。これに関しては完全に自業自得な気がするけれども尾形さんの所為にしたい。
僕の願いは虚しく、佐波先生が廊下の先から現れた。完全に目に映っている。佐波先生の目にも映っている。一応僕は抜け出そうと抵抗してはいるものの成果はないし、ああ、本当これ、どういうふうに映っているのだろう。怒られるのは嫌だ。
「………」
佐波先生はじっとこちらを見ている。その視線は僕を通り過ぎて尾形さんへと向かった。えっ。佐波先生と尾形さんの視線が絡む。多分。えっ、なにこの瞬間、怖ッ。
どちらが先に口を開くのだろう。間に挟まれた僕に発言権はなさそうだった。
じっと耐えていると、先制したのは尾形さんだった。
「休ませたいんだが」
「は!? 尾形さん何を言ってるんですか僕はまだ仕事が」
「あ、良いですよ。伊佐早先生仮眠も取ってないので仮眠室に押し込もうと思ってたところなので」
「佐波先生!?」
完全に予想外の返答があって僕は叫んだ。今叫ばずしていつ叫ぶのだ。
けれども二人とも、僕のことなんかお構いなしに話を続ける。えっ、僕、当事者では。
「仮眠室は何処だ」
「あー…いつもの仮眠室は今治療で使ってしまっているので、三階の奥から二番目を仮に仮眠室にしました。鍵開けてあるので」
「えっ、あの部屋倉庫じゃないですか!? 嫌です、あんなところで寝るなんて無理です!」
ホルマリンと添い寝する趣味はないんですよ!! と叫ぶも二人とも意に介さない。この声に怯んで一瞬でも腕の力が弱まれば抜け出せると思うのに、どうやら力を緩めるつもりはないらしい。ド畜生。
何とか仮眠を回避しようと嫌です、無理ですと喚き立てると佐波先生は馬に潰された鼠を見るような表情で僕を見た。流石にひどいのでは?
「………尾形さんは軍人なんですよね」
「そうだが」
見れば分かることを何故佐波先生は聞いたのだろう。眠気をどうにかしようと、医者としての部分以外は寝ている! という暴論で動いていたので、日常会話的なものが今全く裏が読めないのだった。自分でも暴論という自覚はある。だがしかし、本当に何故? 佐波先生は会話すら最小限にするようにしていたはずなのに。
その答えはすぐに分かることとなる。
「じゃあ伊佐早先生を新仮眠室で絞め落としてもらっても良いですか?」
「わー!! すみません! ごめんなさい! 自力で寝ます!!」
流石に絞め落とされるのは嫌だ。
僕の宣言を引き出して満足したのか、佐波先生がやっと真顔からいつもの顔に戻った。
「部外者が入っても良いんだな」
「はは、普段であればご遠慮願うところなんですが」
にやり、と佐波先生は笑う。その笑みにもいつもより力がない。彼も疲れているのだ。
「猫の手も借りたいんですよ、今は」
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