愛情が憎しみに転じる時


「私、怖かったんです」

 凍霞涼花と実際に言葉を交わしたことがあるのは、この場で静姫だけ。そんな彼女がぽつぽつと語り出した。

「あんな強い感情をぶつけられたことなんてなくて、正直凄く焦りました。どうしよう、とか考える暇もなくてただただ『逃げなくちゃ』って感じでそのまま振り切って……あとからわけ分かんなくなって、ちょっと泣いちゃったくらいで」

 静姫の言っていることは尤もだ。
 なにせ、彼女は十歳で相手は十八歳……柴と薊からしたらどちらも子供だが、静姫にとって八歳も上の男は十分に大人だ。十代の歳の差というのは案外馬鹿にできない。
 そんな見知らぬ大人の男から「綺麗だ」といきなり叫ばれたら驚いてしまうのも頷ける。危機感の強い彼女が恐怖を覚え逃げ出してしまうのも何も不思議ではない。

「でも、その感情が『恐怖』だと気付いたのは六平家で月を見てからだったんです」

 だが、はっきり言って静姫は普通の少女とは違い彼女独自の特殊な価値観を有している。
 静姫の感じた恐怖は、そう簡単なものではなくもっと別の種から生えてきたものかもしれない。
 二人はただじっと彼女の話を聞くことにした。

「チヒロくんに聞きました。夏目漱石という方が『愛してる』を『月が綺麗ですね』という説があるとかないとか」

 その話は割と有名なものだったが、静姫にとってはきっと不思議なものに聞こえただろう。
 だからこそ、静姫はその言葉の意味を彼女なりに正面から考えてみた。
 それが本当にその言葉を唱えた者の真意かどうかはさして問題ではない……静姫がそれをどう捉えて何を思い出したか、が重要だった。
 そして、彼女の経験からそれに結びつくものがあったのだ。

「同じだと思ったんです。凍霞涼花にとっての月は、きっと私だった。ただし、私は月と違って伸ばそうと思えば手と手が触れ合えるほど彼の近くに行けた。月というよりは、隕石のように……引力に逆らわず地に向かって行けた」

 触れ合えない距離なら肌に爪を立てることは絶対に出来ない。
 でも、触れる距離まで接近してしまえば、引っ掻いてしまうと思ったから。

「だからこそ、私は逃げ出しました。引っ張られた先で新しい繋がりが出来ては、私は砕けてしまうと直感したんです」

 涼花の向ける激しい炎に静姫は退いた……あいつは危険だ、自分には手に負えないものだと本能が叫んでいたのだ。
 何故なら当時の静姫は紗凪しか愛せなかったから。
 それ以外の愛に触れてしまえば、彼女のまだ綺麗な手の皮膚が焼け爛れてしまっただろうから。
 静姫はその手から滲んで滴り落ちる血に愛おしさを覚えることは出来なかったはずだから。

「でもすぐに私は全てを失いました。空っぽになってしまったんです。後の話は昨日しましたよね」

 命の終わらせ方を探しながら彷徨い続け、行き着いたその先には六平家があった。静姫は本当に何も考えずに六平の工房を覗き……この世で最も美しい火花を見た。
 小さな小さな火種であったのに、それはそのまま彼女に降り注ぎ、終わらせ損なった彼女の命を燃え上がらせ『四十万静姫』の人生を始めさせた。
 それでも「これはきっと後日譚なのだろう。この安寧もすぐに終わってしまうだろう」とどこか諦めていたのだが……柴の一喝によってその諦観を捩じ伏せた静姫は「これから先」が彼女にもあるのだと知る。
 兎にも角にも、静姫にとっては怒涛の一週間……彼女は昨夜、やっと一息つきながら足を伸ばして月の優美さを眺めることができるだけの余裕が出来た。

「余裕が生まれたから、私はその時に思い出してしまったんです。私には心残りがあったことを」

 何も言わずに捨て去るようにして置いていってしまった彼……あの人は今頃どうしているのだろう、と考えてしまった。
 考えてしまったのだ。
 夏目漱石の言う月が、彼にとっては静姫で……その静姫にとってのそれは六平国重の打つ刀だった。
 死に向かっていった自分に強烈なほどの生の執着を植え付けたようなあの光景に等しいものだったのだ。
 静姫は運が良かった。これから先もあの光景を幾度となく目にすることができるのだから。

 ならば、彼は?

「彼はあの時、私が見捨ててしまった……ただ、自分が砕けたくないという理由だけで」

 それは、彼女にとって六平の二人に見捨てられるとも同義なのではないか、と気付いてしまった。

「そんなのもう、私は死んだ方がマシだと思いました。そんなことになれば私はとうとう、一度執着した生にも嫌気がさして縋ることすらする気がなくなってしまう……それほどの絶望を味わうのだろうと」

 正直、静姫の行動に一切の非はなかっただろう。彼女自身もそんなことくらい分かっている。
 だとしても「そんなつもりじゃなかった」なんて言い訳にならない。人を狂わせてしまったら、それ相応の責任を取るべきだったのだ。
 きっと、もう静姫は二度と彼に……自分が狂わせてしまった一人の人間に会うことはないのだ。せめて何か一つでも、と思っても何一つも返してやる機会は永遠に失われてしまったのだ、と。

「だから、私は怖くなったんです。だって……」

 静姫は彼に何も返してやることができない現状に恐怖を覚えてしまった。
 それが意味することは……。

「何かを、返してやりたいと、思ってしまった……!」

 静姫は美しかった。
 年端も行かぬ少女らしからぬ、使いようによっては人を操ることなど造作もないくらいの美貌を持ち合わせていた。
 それを利用しようと思ったことは一度もない。しかし、宿命とも言うべきかそんな彼女を無遠慮に穢そうとする者達は掃いて捨てる程いた。
 邪な考えで伸ばされた数々の手を粛々と掻い潜りながらも、静姫はそんな彼らの濁りきった瞳に軽蔑しながら生きてきた。
 ああ、この世で綺麗なものなど、きっと四十万紗凪以外に存在し得ないのだろうな……そんな彼女の妄信を一番最初に打ち砕いたのは、六平国重の打った刀ではなかった。

「彼からの言葉は冬の夜空のように澄みきった、綺麗なものだったからっ……」

 凍霞涼花だったのだ。

「……でも」

 凍霞涼花だった、のに。

「あの人は……」

 静姫はそこで言葉を詰まらせる。
 切なそうに語っていた、川辺で出会った綺麗なもの。静姫がもしも六平家から去り、綺麗なものを探す旅に出てしまっていたら……彼女は真っ先にその彼の元まで行こうとしたかもしれない。
 そんな慈しみを覚えた相手が、静姫にとって何よりも大切な四十万紗凪を……。

「シズちゃん」

 静姫が押し黙り始めたことで、薊は漸く口を開いた。待ったところで彼女はそれ以上を語らない、語れないことを感じ取ったのだ。

「答え合わせを、しようか」
「……はい」
「凍霞涼花がキミに恋をしているかどうか。僕達に断定はできない」
「そう、ですか……」
「だけど、これだけはハッキリしている」

 薊は今度こそ……彼が知っている限りのことを話そうと決意した。
 静姫が置かれている現状についての、全てを。
 
「凍霞涼花は、シズちゃんを……」
 
 そもそも、凍霞家が探し人として手配書を出すことは、稀であった。彼らはそもそも『オーダーメイド』を主流に活動をしている。素材提供は顧客側からが殆ど。
 展示会を開く際に用意する素材も、凍霞家の後継候補のそれぞれがオーナーを務めている風俗店から見繕うことが大体だ。故に、彼らの経営するキャスト達は容姿が優れている女性が多く、給金も他の店より高額であった。
 大っぴらには明かされてはいないが、その店で働くキャストはみんな知っている……売り上げが低迷したものは素材にされてしまうリスクがあるから、その金額なのだと。
 それ故に限界まで困窮し、そのリスクを負ってでも金を稼ぐ必要のある者たちばかりが集う……弱者の足元を見るかの如き下劣な経営スタイルだ。
 では、凍霞家がそれ以外で手配書を出す、その目的とは。

「自分の花嫁にするつもりだ」

 美しい女性を伴侶として迎え入れることだった。

「……え」
「この手配書の五千万円は、裏で『結納金』と呼ばれている」

 唖然とする静姫に薊は淡々と続ける。
 凍霞家の歴史ではこれまでに幾度か『結納金』と名付けられた金で人を買い取ることがあった。頻度こそ多くはないが、これも美しい遺伝子を欲しがる彼らのやり方である。
 ただの交渉ではなく、静姫のように対象が逃げ出した上で手配書を発行……とまでなると当主か次期当主にしか権限はないが、なんでも初代当主は同様の方法で、妻を無理やり手に入れ沢山の子を産ませたという。

「――ッ」

 静姫はそれの意味することに気付き、思わず息を呑んだ。
 それはつまり、凍霞涼花は初代当主のように……強引に彼女と婚姻を結び手篭めにする気なのだ、と。

「そんなことを、おいそれと本人に伝えられるほど僕の神経は太くはなかったんだ……ごめんよ、余計に傷つける形にしてしまって」
「……い、え」

 静姫は呆然とした様子でそう返すだけで精一杯だった。
 彼女は凍霞涼花は自分のことが好きなのだということだけは察していた。
 けれど、まさかまだ十歳になったばかりの自分を、凍霞家の悍ましい『美』の探究のための歯車の一つに組み込もうとされていたとまで、思考は及んでいなかったのだ。
 静姫はそっと右手を左腕に添える。そのまま徐々に徐々に、自身の体を抱きしめるように力を込めていった。唇が急激に乾いていくのが分かる。瞼は閉じるという動作を忘れてしまっているようで、その瞳に映るのは虚空ばかり。
 そして、その脳裏に浮かぶのは無遠慮に辱められながら、全てに絶望している……自分の姿。
 瞬間的に怖気が背中を駆け抜けた静姫はさらにギュッと身体を縮こませる。
 話で聞いた凍霞家は生命を弄び、人間の尊厳を食い散らかすような、まごうことなき悪党で……凍霞涼花はその次期当主。
 しかし、凍霞涼花の薄紅の瞳にはそんな劣情があったとは到底思えない。信じられなかったし、信じたくもなかった。

「じ、実は……」
「……実は?」
「あの人は、実は良い人だったりとか、しないんですか……」
「……」

 静姫は自分自身でも馬鹿げている主張だとは思った。
 もはやそれはただの願望である……そうだとしても、慈しみとも呼ばれるような感情を抱いた相手に、善性の可能性を信じられずにはいられなかったのだ。
 凍霞涼花が次期当主になったのはつい最近のことで、家業にはあまりやる気がなくて……もしかしたら、嫌々継がされているだけかもしれなくて。
 もしかしたら、凍霞家の中で彼だけは邪な『美』の探求を馬鹿らしいと考えているかもしれなくて……だから、そんな凍霞家を変えるために次期当主に名乗り出たのかもしれなくて。
 もしかして……もしかして、本当は凄く慈愛に満ちた良い人なのかもしれな__

「凍霞涼花は嫡子及び庶子を含めた次期当主候補である十八人の兄を皆殺しにした」

 どくりと、静姫の心臓が嫌な音を立てる。柴の口から発せられたその言葉は、ダラダラと脳内を駆け巡っていた彼女の思考をぶつ切りにするかのようだった。

「全員、毒殺だったんやと。遺体は全部綺麗な状態やったらしいで。その十八人分の素材使うてデカいオブジェ作ったらしいわ。それも現当主から大絶賛される程の出来栄えやったもんやからお咎めナシ。凍霞家の後継は今んとこ涼花しかおらん。そーとー手配書発行したかったらしいな、早急に」

 静姫が望んだ『もしかしたら』を、柴はそのまま容赦なくザクザクと切り刻んでいく。何かを調理するかのように淡々としながら。

「そもそも、涼花が最初にシズちゃんに近づいた理由っちゅうのが、自分とこのコブ付きナンバーワンキャストの娘がどんな上玉になったか様子見ておこくらいの、軽ーい気持ちだったんやと。十歳ならギリオプション親子丼いけるやろと思たけど、会うてみたら安い商売させるわけにはいかん、絶対嫁にするとか言うてたらしいわ」

 柴は入念に可能性をすり潰していく。
 凍霞涼花は静姫と出会ったその後、彼女の美貌に狂い悪に転じたわけではない。
 彼は静姫と出会う前から既に……。
 
「肉親をオブジェに、十歳女児には五千万の『結納金』……前代未聞すぎて発行所が根掘り葉掘り聞き出して、裏稼業の輩は今その話で持ちきりや。随分とご執心のようでってな」

 きっと、静姫が瞬きの間だけ見た、彼女への愛の言葉は……本物で本当に綺麗なものだったのだろう。

「……シズちゃんが何に縋りたいのかは知らんけどな」

 それでも。
 四十万静姫が心から後悔し、その胸中に留めておき続け、慈しむべきと信じていた凍霞涼花は。

「凍霞涼花が四十万紗凪と四十万静姫のこれからの時間、ぶっ壊した事実は覆らんで」
 
 その足元にも及ばぬ程に、静姫が愛した紗凪を奪い去った憎むべき悪党だった。
 ただ、己の欲望を叶えるためだけに……紗凪をただの『物』扱いをした、下衆の一人だったのだ。

「……あいつが」

 静姫はもう凍霞涼花を『彼』とも『あの人』とも呼びはしなかった。

「あいつが」
 
 ゆったりとした動きで、目の前の二人から逸らしていた視線を戻す静姫。それは、側から見れば落ち着いているように見えていただろう。けれど……。

「あいつが、この世で最も穢らわしい手で、この世で最も美しいお母さんに傷をつけた」

 その表情は夥しい程の負の感情が織り混ざった酷いものだった。
 憤怒、後悔、怨嗟、嫌悪、悲哀、愛憎……失望。
 それらの感情のどれを奴をぶつければいいのか分からない。
 いや、あるいは……。

「やっぱ許せないかなぁ」

 その全てで凍霞涼花を押し潰し殺してしまいたい……そんな圧縮された『殺意』なのかもしれない。

「シズちゃん……」
「……あー。あーあー……」

 心配そうに声をかける薊を気にも止めず、静姫はその場でただ「あーあー」と耐えず鳴き始めた。

「あーあーあーあーあーっあぁあーーーッアァアアアーーーーーッ……!」
 
 彼女はそれだけでは飽き足らず、ガタガタと椅子に座ったまま身体を大きく仰け反らせては前へ押し倒しを、何度も何度も繰り返し出した……壊れたおもちゃのようになった静姫の声と動きは、時間が経つにつれ次第にどんどん激しさを増していく。
 二人はそんな彼女にかける言葉など何もなく、ただそっと見守るしかなかった。

「……あーあ」

 何度も何度も身体を前後に動かしていた静姫は、その声を最後にぴたりと止まる。身体を前に倒した状態で今度は両手で顔を覆い、くぐもった声を出した。

「_______ちゃったかなぁ……」

 二人にその言葉はよく聞き取れなかった。しかし、その声だけは酷く痛切なものだということだけは理解できる。
 静姫は「本当に、まじで、何で」と暫くぶつぶつ繰り返しながら、覆っていた顔をゆっくり上げ……

「私は本当に何で」

 もう一度、その言葉を絞り出した。

「何であの時逃げちゃったかなぁ……」